第六十話 商会の巨大市場より農民の小さな市場が人気になったので、アコギが怒り始めた
半年後。
国境。
ヴァレン商会の巨大市場。
「……客が減っている?」
アコギが尋ねた。
部下は頭を下げた。
「はい」
「……どれくらい?」
「農産物の取引量が、当初の予想を大きく下回っています」
アコギは眉をひそめた。
「……なぜだ?」
部下は答えた。
「近くに、農業組合が運営する市場ができまして」
「……農業組合?」
「はい。そちらは手数料が低く、農民が直接販売できるそうです」
アコギは黙った。
「……高橋悠真か」
部下は頷いた。
「はい。設立に関わっているようです」
アコギは、しばらく考えていた。
「……見に行こう」
国境共同市場。
そこには、大勢の人々が集まっていた。
農民。
商人。
職人。
旅人。
アルディナ王国の人々。
ヴァルシア王国の人々。
かつて敵同士だった人々が、同じ市場で商売をしていた。
「ジャガイモ、安いよ!」
「乾燥トウモロコシ、あります!」
「麦と交換しませんか!」
「豆もあるよ!」
活気に満ちていた。
小さな市場の夕方、エリクは売上帳を閉じた。
「客は増えた。でも、雨の日はほとんど売れない」
農民の一人が言った。
「屋根も倉庫も、向こうの商会の方が立派だ」
悠真は頷いた。
「商会が持っているものを、全部悪いと決めつける必要はないよ」
その頃、アコギの部下は数字を報告していた。
「農産物の直接販売では勝てません。ただ、向こうは保存と長距離輸送が弱い」
アコギは窓の外を見た。
「ならば、運ぶ前に傷む作物を、傷まない形に変えればいい」
利益を取り戻すための発想だった。
だが、それは農民が自力ではできない仕事でもあった。
アコギは、しばらく市場を見つめていた。
「……なるほど」
そのとき、エリクが声をかけた。
「……アコギ?」
アコギは振り返った。
「……やあ、エリク君」
エリクは警戒した。
「……何しに来た?」
アコギは笑った。
「市場を見に来ただけだよ」
そして、周囲を見渡した。
「……ずいぶん繁盛しているな」
エリクは頷いた。
「うん」
「手数料は?」
「取引額の二パーセント」
アコギは眉を上げた。
「……二パーセント?」
「うん。市場の維持費に使ってる」
アコギは、しばらく黙っていた。
「……それで利益が出るのか?」
エリクは首を傾げた。
「利益?」
「そうだ」
エリクは答えた。
「市場を維持できればいいんじゃないのか?」
アコギは、言葉を失った。
市場を作る。
人を集める。
取引を増やす。
そして、利益を得る。
それが、商人としての常識だった。
だが、この市場は違った。
市場そのものが、大きな利益を得ることを目的としていなかった。
農民が売る。
商人が買う。
必要な人に、食料が届く。
そのための場所だった。
アコギは、静かに呟いた。
「……なるほど」
そして、悠真を見つけた。
「……高橋悠真君」
悠真が振り返った。
「アコギさん」
アコギは微笑んだ。
「君は、商売を分かっていない」
悠真は苦笑した。
「そうかもしれません」
アコギは続けた。
「市場は、利益を生むためにあるのだよ」
悠真は頷いた。
「商会にとっては、そうですね。でも、農民にとっては、作物を売るための場所です」
アコギは黙った。
悠真は続けた。
「市場の目的が違うんです」
長い沈黙。
アコギは、静かに笑った。
「……面白い」
悠真が首を傾げた。
「……何がですか?」
アコギは答えた。
「君は、私の商売を何度も邪魔した」
「……すみません」
「だが、君のおかげで、農産物の取引量そのものは増えている」
悠真は頷いた。
「はい」
アコギは、しばらく考えていた。
「……ならば、別の方法で利益を得るとしよう」
悠真は、嫌な予感がした。
「……何をするんですか?」
アコギは笑った。
「それは、商売の秘密だよ」
市場の閉店後、アコギは古い運賃表を開いた。
農民市場へ客が流れた理由は、値段だけではなかった。
そこでは生産者が、収穫日と保存の仕方を自分の言葉で説明していた。
「うちの商会は、いつから荷物の顔を見なくなったんだ」
番頭が戸惑う。
「顔、ですか」
「作った人間の顔だ。運賃を下げるだけじゃ客は戻らん」
アコギは、農民市場へ共同輸送を提案する手紙を書いた。
利益は減るかもしれない。
それでも街道を維持するには、荷を運ぶ相手が生き残らなければならなかった。
「安いだけで市場が続くと思うなよ」
その夜、商会の会議室では、幹部たちが声を荒らげていた。
「農民市場に荷車を出すなど、敵を助けるようなものです!」
古参の支配人が机を叩く。
アコギは返事をしなかった。
「運賃を下げれば、こちらの利益が消えます。倉庫番の給金はどうするのです」
「分かっている」
アコギは帳簿の最後の頁を開いた。
赤字が続けば、商会で働く御者も荷役人も職を失う。
かつて農民の収穫を買い叩いた自分が、今度は働き手の明日の食卓を案じている。
その皮肉に、笑う気にもなれなかった。
「市場を閉じれば、うちの者が飢える。農民を締め出せば、作物が腐る」
「では、どうするのですか」
「まだ答えはない。だから明日、一台だけ走らせる。運賃も荷の傷みも、全部記録しろ」
支配人は納得しなかった。
それでもアコギは、初めて利益の計算書に『農民の損失』という欄を作らせた。
翌日。
アコギは、国境から少し離れた村へ向かっていた。
商会の古い取引記録を調べていたところ、かつて大量の麦を買い集めた村が近くにあることを思い出したのだ。
十年前。
その村は、深刻な食料不足に苦しんでいた。
だが、アコギは村に残された麦を買い集め、価格が上がるまで倉庫に保管した。
当時の彼にとって、それは当然の商売だった。
安く買い、高く売る。
需要が増えれば価格は上がる。
飢饉は、商人にとって最大の商機だった。
「……懐かしいな」
馬車の窓から村を眺めながら、アコギは呟いた。
しかし、村に到着すると、かつての活気はなかった。
廃屋が目立ち、畑の一部は荒れ果てていた。
村外れには、小さな墓地があった。
アコギは馬車を降りた。
「……こんな場所に墓地があったか?」
近くで薪を拾っていた老婆が振り返った。
「旅のお方ですか?」
「ああ。昔、この村で商売をしていた者だ」
老婆は、アコギの服装を見つめた。
「……商人さんですか」
「そうだ」
老婆は、墓地へ視線を向けた。
「ここには、飢饉で亡くなった人たちが眠っているんです」
アコギは眉をひそめた。
「……飢饉?」
「ええ。十年前のことです」
老婆は静かに続けた。
「あの年は、麦がほとんど採れませんでした。村の倉庫にも食料がなくて……」
アコギは黙っていた。
「それでも、王都の商人さんたちは麦を買い集めていきました。高い値段で売れるからって」
老婆の声が震えた。
「私たちは、もう買い戻せなかったんです」
アコギの指先が、わずかに動いた。
「……それで?」
老婆は、小さな墓石の前にしゃがみ込んだ。
「ここに眠っているのは、私の娘です」
墓石には、幼い少女の名前が刻まれていた。
「八歳でした」
アコギは息を止めた。
「……八歳?」
「ええ。あの子は、最後までお腹が空いたって言わなかったんです」
老婆は、墓石の土をそっと払った。
「私が泣くから、我慢していたんでしょうね」
沈黙が落ちた。
「最後の日、あの子が言ったんです」
老婆は目を閉じた。
「『お母さん、明日はパンを食べられる?』って」
アコギは何も答えられなかった。
「私は、明日になれば食べられるよって言いました」
老婆の目から涙がこぼれた。
「……嘘だったんです」
風が吹いた。
墓地の草が、静かに揺れた。
「翌朝、あの子は目を覚ましませんでした」
アコギは墓石を見つめた。
十年前。
自分の商会が、この村から買い集めた麦。
あのときの取引量。
仕入れ値。
販売価格。
すべて覚えていた。
大きな利益が出た取引だった。
商会の帳簿には、成功した商売として記録されている。
だが、その帳簿には、目の前の少女の名前など書かれていなかった。
「……その麦を買った商人の名前を、覚えているか?」
アコギが尋ねた。
老婆は頷いた。
「忘れるものですか」
そして、静かに答えた。
「ヴァレン商会です」
アコギの顔から血の気が引いた。
「……そうか」
老婆は、彼を見上げた。
「あなたも、商人さんなんでしょう?」
「……ああ」
「だったら、お願いがあります」
「……何だ?」
老婆は墓石に手を置いた。
「食べ物を売るのは、悪いことじゃありません」
アコギは黙った。
「でも、どうか、飢えている人から最後の食べ物まで取り上げないでください」
その言葉は、怒鳴り声よりも重かった。
「お金を払って買ったとしても、その人が明日食べるものまでなくなったら……」
老婆は、それ以上言えなかった。
アコギは、墓石を見つめ続けた。
やがて、懐から金貨の入った袋を取り出した。
「……これを」
老婆は首を振った。
「いりません」
「だが……」
「お金をもらっても、娘は帰ってきませんから」
アコギは動けなくなった。
老婆は静かに立ち上がった。
「もし、あなたが商人さんなら、どうか覚えておいてください」
そして、墓石を振り返った。
「麦一袋で、助かる命もあるんです」
老婆は、そのまま村へ戻っていった。
アコギだけが、墓地に残された。
長い間、彼は動かなかった。
やがて、膝を折った。
目の前の墓石には、八歳で亡くなった少女の名前があった。
「……私は」
声が出なかった。
「……私は、何をしていたんだ」
十年前の帳簿が、頭に浮かんだ。
仕入れ。
輸送。
保管。
販売。
利益。
利益。
利益。
どの頁にも、利益ばかりが並んでいた。
だが、飢えた人間が何人いたのか。
何人が食料を買えなかったのか。
何人が死んだのか。
そんな数字は、一度も記録したことがなかった。
「……知らなかった」
アコギは呟いた。
しかし、すぐに首を振った。
「……違う」
知らなかったのではない。
知ろうとしなかったのだ。
飢饉が起きれば、食料価格が上がる。
価格が上がれば、利益が増える。
それだけを考えていた。
その向こうで、誰が死ぬのかなど、考えようともしなかった。
「……すまなかった」
小さな声だった。
墓石は何も答えない。
当然だった。
今さら謝ったところで、少女は帰ってこない。
アコギは、長い間その場に座っていた。
やがて立ち上がると、馬車へ戻った。
御者が尋ねた。
「旦那様、王都へ戻りますか?」
アコギは答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「……商会へ戻る」
「承知しました」
馬車が動き始めた。
アコギは窓の外を見つめた。
村の墓地が、少しずつ遠ざかっていく。
あの少女の名前だけが、頭から離れなかった。
その夜。
ヴァレン商会の執務室。
アコギは、十年前の帳簿を開いていた。
あの村から買い集めた麦の記録が残っていた。
仕入れ量。
仕入れ価格。
販売価格。
そして、莫大な利益。
アコギは、帳簿を閉じた。
「……馬鹿な話だ」
商売に成功した。
金も手に入れた。
大きな倉庫も建てた。
商会は王国有数の規模になった。
それなのに、今日初めて、自分が何を売っていたのか分からなくなった。
扉が叩かれた。
「旦那様、明日の共同輸送についてですが」
支配人だった。
「農民市場への荷馬車は、本当に出すのですか?」
アコギは頷いた。
「……出せ」
「しかし、利益がほとんどありません」
「分かっている」
「それでは商売になりません!」
アコギは顔を上げた。
「……商売とは、何だ?」
支配人は戸惑った。
「は?」
「利益を得ることか?」
「もちろんです」
「では、その利益を得るために、客が死んでも構わんのか?」
支配人は言葉を失った。
アコギは、静かに続けた。
「農民が飢えれば、来年の収穫はなくなる」
「……はい」
「作物がなくなれば、我々も商売ができん」
「それは……」
「商会の利益だけを考えていては、結局、商会そのものが潰れる」
支配人は黙った。
アコギは帳簿を開いた。
「明日の荷馬車は予定どおり出せ。それから、農民市場との共同輸送について、もう一度計算し直せ」
「……承知しました」
支配人が退出したあと、アコギは一人になった。
机の上には、十年前の帳簿。
そして、今日作らせた新しい計算書。
その中には、初めて『農民の損失』という欄があった。
アコギは、そこに指を置いた。
「……これだけでは、足りんのだろうな」
自分が犯した過去の罪は、消えない。
金を払っても、謝っても、死んだ人間は帰ってこない。
それでも、これから先の商売を変えることはできる。
アコギは新しい帳簿を開いた。
そして、一行だけ書き加えた。
『来年も、農民が作物を育てられること』
書き終えると、しばらくその文字を見つめた。
「……商売をやめるつもりはない」
アコギは小さく呟いた。
「だが、同じことを繰り返すつもりもない」
窓の外では、夜明け前の街道を荷馬車が走り始めていた。
数日後。
アコギの言葉に、悠真は反論しなかった。
農民の市場には雨よけも、遠方へ運ぶ馬車も足りない。
商会の市場には、それがある。
「競争するところと、協力できるところを分けませんか」
「俺の商売を奪っておいて?」
「農民が売れるほど、運ぶ仕事も増えます」
アコギはすぐには頷かなかった。
悠真は続けた。
「農民が作物を売れれば、来年も畑を耕せます。収穫が増えれば、商会が運ぶ荷物だって増えるはずです」
アコギは、悠真を見つめた。
「……君は、本当に商売を分かっていないな」
「そうですか?」
「商人は、利益を出さなければ生き残れん」
「はい」
「従業員にも家族がいる。給金を払わねばならん。倉庫も荷馬車も、ただでは維持できん」
悠真は頷いた。
「だからこそ、商会の力が必要なんです」
アコギは黙った。
悠真は続けた。
「農民だけでは、遠くの町まで作物を運べません。商会だけでは、畑で作物を育てられません」
「……なるほど」
「どちらかが潰れるより、両方が続けられる方がいいと思いませんか?」
アコギは、しばらく考えていた。
ふと、数日前に見た墓石が頭に浮かんだ。
八歳の少女。
麦一袋で、助かったかもしれない命。
アコギは目を閉じた。
「……君は、甘いな」
悠真は苦笑した。
「よく言われます」
「だが……」
アコギは、ゆっくりと目を開けた。
「試してみる価値はある」
悠真は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、赤字を垂れ流すつもりはない。運賃も、輸送量も、すべて計算する」
「もちろんです」
「農民市場が利益を生むなら、商会も協力する。それだけだ」
アコギは、いつもの商人らしい笑みを浮かべた。
だが、その笑みには、以前とは少し違うものがあった。
やがて、農民市場へ一台の荷馬車が来た。
荷台には、ヴァレン商会の名前が書かれていた。
農民たちは驚いた。
「……商会の馬車だぞ?」
「どうして、ここに?」
御者が荷台から降りた。
「共同輸送の試験運行だ! 遠方へ送る荷物があれば、受付で申し込んでくれ!」
エリクが目を丸くした。
「……本当に来た」
悠真は、静かに笑った。
「うん」
一方、商会の執務室では、アコギが窓の外を見つめていた。
「……さて」
机の上には、新しい事業計画書が置かれていた。
保存食の加工。
長距離輸送。
共同倉庫。
どれも、利益を生む可能性がある。
「……まだまだ、商売はできる」
アコギは笑った。
そして、古い帳簿を引き出しの奥へしまった。
捨てることはしなかった。
あの少女の墓を、忘れないために。
十年前。
彼は、食料を独占することで富を築いた。
だが今、その商人は初めて、食料を届けることで利益を得る道を探し始めていた。
それは、まだ贖罪と呼べるほど立派なものではなかった。
過去の罪も、失われた命も、決して消えない。
それでもアコギ・ヴァレンという商人が、初めて自分の商売を疑った日だった。




