第五十二話 王国の食料が増えたので、エリクは母親と一緒に畑を見に行った
春。
アルト村。
「……エリク!」
母親が、家の外から呼びかけた。
「なに、母さん?」
「今日は、畑を見に行かない?」
エリクは驚いた。
「……畑?」
「ええ」
母親は微笑んだ。
「今年のジャガイモ、ずいぶん元気に育っているみたいだから」
エリクは笑った。
「……いいよ」
クリスも飛び出してきた。
「私も行く!」
三人は、村の外れへ向かった。
そこには、広い畑が広がっていた。
ジャガイモ。
トウモロコシ。
麦。
豆。
それぞれの作物が、春の風に揺れていた。
母親は、畑を見つめた。
「……すごいわね」
エリクが頷いた。
「うん」
「昔は、こんなに作物が育つなんて思わなかった」
母親は、静かに言った。
「……三年前」
エリクが顔を上げた。
「……うん」
「本当に、食べ物がなかったわね」
エリクは黙った。
あのころ。
母親は、自分の食事を減らしていた。
エリクとクリスに食べさせるためだった。
日に日に痩せていく母親。
弱っていく体。
それを見ていることしかできなかった自分。
だが、隣村から、ジャガイモが届いた。
悠真が育てた作物だった。
そのジャガイモが、母親の命をつないだ。
エリクは、静かに言った。
「……母さん」
「なあに?」
「……生きていてくれて、ありがとう」
母親は驚いた。
そして、笑った。
「……また、それを言うの?」
エリクは頷いた。
「……何度でも言うよ」
母親は、息子の頭を優しく撫でた。
「……私も、ありがとう」
エリクが顔を上げた。
「……え?」
「あなたとクリスがいてくれたから、頑張れたのよ」
エリクは、何も言えなかった。
畑の端で、母親は足を止めた。
「ここ、覚えてる?」
エリクが頷くより先に、クリスが首をかしげた。
「何があったの?」
「何もなかったのよ。食べるものも、植えるものも」
母親は笑おうとしたが、声が少し震えた。
エリクはあの冬、家の鍋の底を何度も覗いたことを思い出した。
「今は余るくらいある」
「だからこそ、忘れちゃいけないの」
母親は土を一握りすくった。
「畑が実るのは当たり前じゃない。誰かが種を残して、誰かが水を運んだからよ」
クリスは黙ってその手を見た。
エリクは、母親が生きてこの畑を見ていることが、どんな勲章よりも大切に思えた。
そのとき。
クリスが叫んだ。
「お兄ちゃん!」
「……何?」
「見て!」
クリスは、小さなジャガイモの芽を指さしていた。
「……芽が出てる!」
エリクは笑った。
「本当だ」
母親も微笑んだ。
「元気に育っているわね」
クリスは、嬉しそうに言った。
「これが大きくなったら、いっぱい食べられる?」
エリクは頷いた。
「うん」
「お母さんも?」
「ああ」
「お兄ちゃんも?」
「もちろん」
クリスは笑った。
「じゃあ、楽しみ!」
三人は、畑を見つめた。
春の風が、静かに吹いていた。
同じころ。
ベルナ村。
悠真は、最初にジャガイモを植えた畑の前に立っていた。
三年前。
この場所には、何もなかった。
硬く乾いた土。
痩せた麦。
食料不足に苦しむ村人たち。
そして、五個のジャガイモ。
百粒のトウモロコシ。
それだけだった。
「……ずいぶん変わったな」
悠真が呟いた。
ハインツが隣に立った。
「……ああ」
「村長」
「何だ?」
「最初にここへ来たとき、俺、農業なんてほとんど分からなかったんです」
ハインツは笑った。
「知っておる」
悠真は驚いた。
「……え?」
「見れば分かった」
「……ひどい!」
ハインツは大きく笑った。
「だが、お前は諦めなかった」
悠真は黙った。
ハインツは続けた。
「水が足りなければ、水を運んだ」
「肥料が足りなければ、集めた」
「病気が出れば、調べた」
「そして、食料が足りなければ、どうすれば増やせるか考えた」
老人は、静かに言った。
「……それが、大切だったんだろうな」
悠真は、畑を見つめた。
「……そうかもしれません」
ハインツは続けた。
「お前が来る前、わしらは諦めかけていた」
「……村長」
「だが、今は違う」
ハインツは、遠くの畑を指さした。
「子供たちが、腹いっぱい食べている」
「若い者が、畑を増やしている」
「老人たちが、冬を越せるようになった」
そして、「……それだけで、十分じゃないか」
悠真は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……はい」
小さく頷いた。
「そうですね」
二人は、春の畑を見つめた。
そのとき。
村の入口から、馬車がやってきた。
王都からの使者だった。
「高橋悠真殿!」
悠真が振り返った。
「……はい?」
使者は、封書を差し出した。
「国王陛下より、正式なご依頼です!」
悠真は、嫌な予感がした。
「……何でしょうか」
使者は、書面を読み上げた。
『アルディナ王国とヴァルシア王国の共同農業開発計画について、農業改革顧問・高橋悠真殿の参加を要請する』
悠真は固まった。
「……え?」
ハインツが笑った。
「……今度は隣国か」
悠真は頭を抱えた。
「……俺、ただ畑を耕したかっただけなんですけど!」
ハインツは大きく笑った。
「もう諦めろ!」
春の空に、二人の笑い声が響いた。
そして、遠く離れたヴァルシア王国では、ルドルフ・ベルナーが新しい農地を見つめていた。
そこには、アルディナ王国から届けられたジャガイモの種芋が植えられていた。
「……これが育てば」
ルドルフは、静かに呟いた。
「来年は、もっと多くの人が食べられる」
隣にいた元兵士が頷いた。
「……はい」
ルドルフは、畑を見つめた。
「戦争では、食料を奪うことしか考えていなかった」
そして、「……でも、これからは違う」
静かに言った。
「俺たちは、自分たちの食料を、自分たちで作るんだ」
春の風が、国境を越えて吹いていた。
かつて、十万の軍勢が越えようとした国境。
今、その国境を越えているのは。
兵士でも、剣でもなかった。
ジャガイモの種芋。
トウモロコシの種子。
そして、農業を教える人々だった。
飢えた王国は、少しずつ、飢えない王国へと変わり始めていた。




