第四十二話 敵将軍にジャガイモを食べさせたら、十万の軍勢が撤退することになった
国境の中立地帯。
大きな天幕。
そこには、両国の代表者たちが集まっていた。
アルディナ王国側。
カール・フリック。
高橋悠真。
エリク。
そして、王国政府の使節。
ヴァルシア王国側。
ハインリヒ将軍。
ルドルフ中尉。
補給担当官。
双方が向かい合った。
空気は、重かった。
ハインリヒ将軍が口を開いた。
「……何のために呼び出した」
カールが答えた。
「停戦協議です」
将軍は鼻で笑った。
「……停戦?」
「はい」
カールは続けた。
「これ以上戦えば、双方に多くの犠牲が出ます」
ハインリヒは冷たく答えた。
「戦争とは、そういうものだ」
そのとき。
悠真が口を開いた。
「……将軍」
ハインリヒが振り返った。
「何だ、小僧」
「食事をしていただけませんか?」
沈黙。
将軍は眉をひそめた。
「……何?」
悠真は、机の上に器を置いた。
中には、ジャガイモの煮込みが入っていた。
「……これが、例の作物か」
「はい」
悠真は頷いた。
「ジャガイモです」
将軍は、しばらく器を見つめていた。
そして、「……毒はないのか?」
悠真は答えた。
「食用に適した芋を選び、芽や緑色の部分がないことを確認して、十分に加熱しています」
将軍は、慎重に一口食べた。
「……む」
しばらく黙った。
そして、「……うまい」
小さく呟いた。
悠真は微笑んだ。
「ありがとうございます」
将軍は、もう一口食べた。
「……これが、痩せた土地でも育つのか?」
「条件が合えば、育ちます」
悠真は答えた。
「ただし、水と肥料が必要です」
将軍は考え込んだ。
「……なるほど」
悠真は続けた。
「将軍。十万の兵士を動かすには、一日で大量の食料が必要です」
「……分かっている」
「でも、畑を増やせば、毎年食料を作れます」
将軍は黙った。
悠真は続けた。
「戦争で奪った食料は、食べればなくなります」
そして、静かに言った。
「でも、畑で育てた食料は、次の種を残せば、また作れます」
長い沈黙。
ハインリヒは、器を見つめていた。
やがて。
「……我が国でも、本当に育てられるのか?」
悠真は頷いた。
「はい。試験栽培から始めれば、可能性はあります」
ルドルフが口を開いた。
「将軍」
「……何だ」
「すでに、国境の村で試験栽培が始まっています」
ハインリヒが顔を上げた。
「……何?」
ルドルフは続けた。
「芽が出ています。育っています」
将軍は黙った。
「……そうか」
そのとき。
補給担当官が、一枚の紙を差し出した。
「将軍。帰国に必要な食料の計画です」
ハインリヒは受け取った。
そこには、アルディナ王国側が提供できる食料と、ヴァルシア王国側が用意する食料の量が記されていた。
さらに、帰国経路。
補給地点。
負傷者の輸送方法。
すべてが計画されていた。
将軍は、長い間、紙を見つめていた。
そして、「……これほど準備したのか」
カールが答えた。
「はい」
「……敵である我々のために?」
カールは頷いた。
「戦争を終わらせるためです」
ハインリヒは、静かに目を閉じた。
十万の兵士。
飢えた兵士たち。
故郷で待つ家族。
そして、戦争で失われた命。
やがて。
将軍は、ゆっくりと口を開いた。
「……分かった」
全員が息を呑んだ。
「……全軍、撤退する」
ルドルフの目が見開かれた。
「……将軍!」
ハインリヒは続けた。
ハインリヒは器を置いた後も、すぐには返事をしなかった。
「この芋が旨いから、軍を引けと言うのか」
悠真は首を振った。
「いいえ。これ一皿で十万人は救えません」
天幕の空気が変わった。
「ならば何を差し出す」
「帰国路の補給地点、両国の立会人、種芋の試験栽培、そして停戦中に互いの村を襲わない約束です」
ルドルフが書類を差し出した。
そこには必要な荷車の数と、倉庫を開ける日付が記されていた。
ハインリヒは紙を読み、最後の行で止まった。
『帰国した兵士を、来春の耕作に優先して戻す』
「……兵士を、畑へ帰すのか」
「はい。将軍の国に必要なのは、次の戦いではなく、次の収穫です」
長い沈黙の末、ハインリヒは筆を取った。
署名は勝利ではなかった。
だが、敗北だけでもなかった。
部下を故郷へ帰すための、最初の命令だった。
「ただし、帰国のための食料供給と、農業技術の提供を正式な協定に含めること」
カールは頷いた。
「承知しました」
悠真は、ほっと息を吐いた。
エリクは、しばらく言葉を失っていた。
そして、「……終わった?」
小さく呟いた。
カールは頷いた。
「……ああ」
悠真も笑った。
「……終わったんだ」
その日の夕方。
ヴァルシア王国軍に、正式な撤退命令が出された。
十万の軍勢が、ゆっくりと国境から離れ始めた。
剣を抜かずに。
村を焼かずに。
畑を奪わずに。
故郷へ帰るために。
数週間後。
アルト村。
エリクは、家の扉を開けた。
「……ただいま!」
台所から、母親の声がした。
「おかえりなさい!」
クリスが走ってきた。
「お兄ちゃん!」
エリクは妹を抱きしめた。
「……ただいま」
母親が、笑顔で近づいてきた。
「無事でよかった」
エリクは、母親の顔を見つめた。
そして、「……母さん」
「なあに?」
「……戦争が終わったよ」
母親は、静かに頷いた。
「……そう」
エリクは続けた。
「もう、敵軍は帰った」
「……よかったわね」
母親は息子を抱きしめた。
「……本当に、よかった」
その夜。
エリクの家では、温かいジャガイモの煮込みが食卓に並んだ。
クリスが笑った。
「お兄ちゃん、いっぱい食べて!」
エリクも笑った。
「……ああ!」
母親は、二人を見つめていた。
その目には、涙が浮かんでいた。
本来なら。
彼女は、三年前に始まった飢饉の中で命を落とすはずだった。
だが、今、ここにいる。
息子と娘とともに、温かい食事を囲んでいる。
エリクは、静かに呟いた。
「……ありがとう、悠真」
その声は、遠く離れたベルナ村には届かなかった。
だが、悠真もまた、同じ夜空を見上げていた。
「……よかった」
小さく呟いた。
「少しは、変えられたかな」
その手には、最初に持ち込んだ麻袋があった。
五個のジャガイモ。
百粒のトウモロコシ。
それだけから始まった、小さな奇跡。
その奇跡は、ついに十万の軍勢を動かし、戦争を終わらせた。
しかし、王都では、アコギ・ヴァレンが新しい帳簿を開いていた。
「……戦争が終わったか」
男は静かに笑った。
「ならば、次は平和の時代の商売だ」
そして、新しい計画書に、こう書き込んだ。
【新作物の種子・種芋の流通管理】
【農地取得計画】
【農業金融事業】
【加工食品事業】
アコギは、窓の外を見つめた。
「……食料を作る者が増えるなら」
そして、微笑んだ。
「作るために必要なものを支配すればよい」
戦争は終わった。
だが、食料をめぐる争いは、まだ終わっていなかった。




