第三十四話 敵兵を助けたら自分たちの食料が減ったので、エリクが初めて配給を断った
アルト村。
共同倉庫の前。
「……足りない」
エリクは帳簿を見つめていた。
避難民。
村人。
王国軍。
そして、新たに保護されたヴァルシア兵。
食料を必要とする人間が、急激に増えていた。
「……悠真」
「どうした?」
「このままじゃ、冬の備蓄まで使ってしまう」
悠真は頷いた。
「そうだね」
エリクは唇を噛んだ。
「……どうすればいい?」
悠真は帳簿を広げた。
「まず、今ある食料を正確に数えよう」
「……それは、もうやった」
「うん。だから、次は優先順位を決める」
エリクは顔を上げた。
「……優先順位?」
「村の子供、病人、妊婦、体力の落ちた人。それから、避難民や捕虜も含めて、最低限必要な食料を確保する」
「……うん」
「そして、これ以上受け入れられない人数については、王国軍や周辺の村に協力を求める」
エリクは黙った。
そのとき。
共同倉庫の前に、ヴァルシア兵の一団が現れた。
「……食料を分けてほしい」
代表の兵士が言った。
「仲間が、まだ百人ほど残っている」
エリクは息を呑んだ。
「……百人?」
「頼む。少しでいい」
エリクは、倉庫を振り返った。
中には、村人たちが必死に育てた食料がある。
母親とクリスが冬を越すための食料。
避難民が生き延びるための食料。
そして、来年の種芋。
エリクは拳を握った。
「……ごめん」
兵士が顔を上げた。
「……何?」
「この倉庫からは、もう渡せない」
沈黙。
兵士の顔が青ざめた。
「……そんな」
エリクは続けた。
「でも、見捨てるわけじゃない」
「……え?」
「王国軍に連絡する。ほかの倉庫にも問い合わせる。必要なら、俺たちが運ぶ」
倉庫の前で、配給を断られたヴァルシア兵は何度も頭を下げた。
「せめて水だけでも」
エリクは水桶を運んだ。
食料は渡せなくても、目の前で倒れる人間を放っておけなかった。
「すまない。今、渡せるのはこれだけだ」
男は水を飲み、唇を震わせた。
「俺にも、村に子供がいる」
エリクの胸が痛んだ。
相手の子供を思えば思うほど、自分の村の子供たちの顔も浮かんだ。
その晩、母親は空の鍋を洗いながら言った。
「断るのは、悪いことじゃないわ。でも、断った人の顔を忘れないで」
エリクは帳簿の余白に名前を尋ねられなかった兵士の特徴まで書き留めた。
百人という数字の中に、一人ずつ暮らしがある。
それを忘れないためだった。
エリクは真剣な顔で言った。
「だけど、この村の食料を全部渡すことはできない」
兵士は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
その日の夕方。
エリクは家へ戻った。
母親が夕食を作っていた。
「……おかえり」
「……ただいま」
母親は息子の顔を見た。
「何かあったの?」
エリクは椅子に座った。
「……食料を断った」
母親は黙った。
「助けてくれって言われたのに……」
エリクの声が震えた。
「……俺、断ったんだ」
母親は、静かに隣へ座った。
「……エリク」
「……うん」
「誰かを助けるために、別の誰かを飢えさせてはいけないわ」
エリクは顔を上げた。
母親は続けた。
「でも、助けられなかった人を忘れてもいけない」
エリクは黙った。
「だから、次に助けられるように考えるのよ」
長い沈黙。
そして、エリクは頷いた。
「……分かった」
その夜。
エリクは帳簿を開いた。
そこには、こう書き込まれた。
【食料不足を理由に配給できなかった人数:100人】
【今後の対応:王国軍へ供給要請】
【次回の備蓄計画に反映する】
少年は、数字を見つめた。
食料を守るということは、ただ倉庫の扉を閉めることではない。
誰も飢えさせないために、足りない現実から目をそらさないことだった。
配給を断ったあとも、エリクの耳には兵士の「少しでいい」が残っていた。
倉庫の隅には、翌春の種芋を入れた箱がある。
食べれば今日の空腹は埋まる。
だが春に植えるものがなくなる。
母は箱の前で立ち止まり、何も言わずにエリクの肩へ手を置いた。
「俺は、人を見捨てたのかな」
「断ることと、忘れることは違うよ」
エリクは夜明けまで起き、周辺の砦と村に救援を求める文を書いた。
自分の村だけで抱え込まないために。
翌朝、彼は断った兵士のもとへ歩いていった。
「食料は渡せない。でも、別の補給先を探す。一緒に来てくれ」
兵士はしばらく黙り、やがて頷いた。




