第三十二話 敵軍が攻めてきたので、エリクは母親の作ったジャガイモ料理を思い出した
夜明け。
国境の砦。
敵軍の太鼓が鳴り響いた。
「……来るぞ!」
カールが叫んだ。
城壁の上には、王国軍の兵士たちが並んでいた。
弓兵。
槍兵。
そして、自警団から参加した者たち。
エリクも、その中にいた。
手には、ガルムから託された剣。
だが、剣を握る手は震えていた。
「……大丈夫か?」
隣の兵士が尋ねた。
エリクは頷いた。
「……大丈夫」
本当は、怖かった。
死ぬかもしれない。
二度と母親に会えないかもしれない。
クリスの笑顔も見られなくなるかもしれない。
そのとき。
エリクは、昨日の夕食を思い出した。
母親が作った、ジャガイモの煮込み。
温かい湯気。
柔らかい芋。
クリスの笑い声。
『お兄ちゃん、いっぱい食べてね!』
母親の優しい声。
『必ず帰ってきてね』
エリクは、剣を握り直した。
「……帰る」
小さく呟いた。
「絶対に、帰る」
その瞬間。
敵軍が動き始めた。
「前進!」
ヴァルシア兵たちが、盾を構えて進んでくる。
カールが叫んだ。
「弓兵、構え!」
城壁の上で、弓が引かれた。
「……放て!」
矢が飛んだ。
敵軍の盾に突き刺さる。
何人かの兵士が倒れた。
だが、敵軍は止まらなかった。
「……来る!」
エリクが叫んだ。
敵兵が城壁へ梯子をかけようとする。
王国軍の兵士たちが、槍で押し返した。
激しい戦闘が始まった。
エリクは、初めて目の前で人が倒れるのを見た。
「……っ!」
足がすくんだ。
そのとき。
敵兵が梯子を登ってきた。
「……うおおっ!」
エリクは剣を構えた。
だが、斬れなかった。
相手も、自分と同じくらい若かったからだ。
敵兵も、エリクを見て動きを止めた。
二人は、一瞬だけ向かい合った。
そのとき。
「エリク!」
カールが叫んだ。
「下がれ!」
カールが間に入り、敵兵の剣を受け止めた。
そして、盾で押し返した。
敵兵は梯子を滑り落ち、下の兵士たちに受け止められた。
エリクは、その場に座り込んだ。
「……俺は」
声が震えた。
「……俺には、できない」
カールは振り返った。
「……何がだ?」
「人を……斬れない」
カールは、しばらくエリクを見つめていた。
そして、「……それでいい」
静かに言った。
エリクは顔を上げた。
「……え?」
カールは続けた。
「お前は、兵士になるためにここへ来たんじゃない」
「……でも」
「お前は、食料を守るために来たんだろう?」
エリクは黙った。
カールは城壁の内側を指さした。
「負傷者を運べ。水を配れ。食料を届けろ」
「……それでいいのか?」
「それが必要なんだ」
カールは答えた。
「戦場では、剣を振る者だけが戦っているわけではない」
エリクは、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かった」
そして、剣を鞘に収めた。
負傷した兵士を運ぶ。
水を配る。
食料を届ける。
その仕事を始めた。
昼過ぎ。
戦闘は続いていた。
敵軍は何度も攻撃を繰り返した。
だが、砦は落ちなかった。
カールは城壁の上で、敵軍を見つめていた。
「……おかしい」
副官が尋ねた。
「何がですか?」
「敵の攻撃が、弱くなっている」
確かに。
最初の勢いは、失われていた。
敵兵たちの動きは鈍い。
疲労が見える。
そして、「……隊長!」
見張りが叫んだ。
「敵軍の後方で、混乱が起きています!」
カールが目を凝らした。
遠く。
最初の矢が城壁の石に当たった。
エリクは反射的に身を伏せた。
耳のそばで、石の欠片が弾ける。
「立てるか!」
隣の兵士に腕をつかまれ、ようやく息を吸った。
敵の盾の陰にも、自分と同じ年頃の顔があった。
(あいつにも、帰りを待つ人がいる)
そう思った瞬間、剣の柄がひどく重くなった。
砦の裏手では負傷兵が運び込まれ、包帯と水が足りなくなっていた。
カールは戦線を支える兵を残し、負傷者の搬送路を開くよう命じた。
「勝つためだけに戦うな。帰る道を塞ぐな!」
エリクは母親の煮込みの匂いを思い出した。
敵を倒すことより、生きて帰ることを目標にしよう。
その決意が、震える足をもう一度立たせた。
ヴァルシア王国軍の陣地で、兵士たちが争っていた。
「……何だ?」
そのとき。
一人の伝令が駆け込んできた。
「隊長!」
「どうした!」
「敵軍の補給部隊が、進軍を拒否したそうです!」
カールは息を呑んだ。
「……何?」
伝令は続けた。
「食料不足と、将軍の強硬命令に反発しているとのことです!」
カールは、敵軍の後方を見つめた。
「……ついに、限界が来たか」
夕方。
砦への攻撃は、止まった。
敵軍は後退していた。
城壁の上では、兵士たちが歓声を上げた。
「……守ったぞ!」
「砦は無事だ!」
「勝った!」
だが、カールは笑わなかった。
「……まだ終わっていない」
副官が尋ねた。
「……どういうことですか?」
カールは答えた。
「敵軍は、まだ十万近くいる」
「……はい」
「食料が尽きれば、もっと危険になる」
副官は黙った。
カールは続けた。
「飢えた軍隊は、何をするか分からない」
そのとき。
エリクが歩いてきた。
服は泥だらけだった。
手には、空になった水桶。
「……カール隊長」
「どうした?」
「……負傷者の中に、敵兵もいました」
カールは頷いた。
「そうか」
「……助けました」
「当然だ」
エリクは驚いた。
カールは続けた。
「戦えなくなった者を、無意味に苦しめる必要はない」
エリクは、ほっと息を吐いた。
そして、「……俺、思ったんです」
「何を?」
エリクは、遠くの敵軍を見つめた。
「……あの人たちも、腹が減っているんですよね」
カールは頷いた。
「ああ」
「……だったら」
エリクは、静かに言った。
「戦争を終わらせるには、敵の食料問題も解決しないと駄目なんじゃないですか?」
カールは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうかもしれん」
その夜。
国境の砦では、久しぶりに温かい食事が配られた。
ジャガイモの煮込み。
麦の粥。
そして、乾燥トウモロコシを挽いた粉で作った薄いパン。
エリクは、一口食べた。
「……うまい」
その味は、母親の料理を思い出させた。
エリクは、夜空を見上げた。
「……母さん」
小さく呟いた。
「必ず帰るから」
そのころ。
ヴァルシア王国軍では、ハインリヒ将軍が怒鳴っていた。
「……なぜ、補給部隊が動かん!」
副官が答えた。
「兵士たちが、進軍を拒否しています!」
「……何だと!?」
「さらに、ルドルフ中尉を支持する部隊が増えています!」
将軍は机を叩いた。
「……裏切り者ども!」
だが、そのとき。
天幕の外から、大勢の兵士たちの声が響いた。
「食料を!」
「戦争を終わらせろ!」
「俺たちは、もう戦いたくない!」
ハインリヒは、初めて顔色を変えた。
十万の軍勢。
その軍勢を動かしていたのは、命令だけではなかった。
食料だった。
そして今。
飢えた兵士たちが、将軍の命令よりも、生きることを選び始めていた。




