第十九話 敵国の兵士にジャガイモを分けたら、国境で戦争が起きなくなりかけた
翌日。
国境の川辺。
カールは、悠真とエリクを連れていた。
向こう岸には、ヴァルシア王国の兵士が立っていた。
互いに武器を持っている。
だが、剣は抜いていなかった。
「……本当に渡すのか?」
カールが尋ねた。
悠真は頷いた。
「はい」
「敵国だぞ」
「分かっています」
悠真は袋を持ち上げた。
中には、ジャガイモの種芋と、乾燥させたトウモロコシの種子が入っていた。
「でも、向こうにも飢えている人がいるんでしょう?」
カールは黙った。
エリクが口を開いた。
「……俺も、渡したい」
カールは少年を見た。
「なぜだ?」
エリクは答えた。
「俺の母さんは、ジャガイモがあったから助かった」
そして、川の向こうを見つめた。
「向こうにも、母さんみたいな人がいるかもしれない」
長い沈黙。
カールは深く息を吐いた。
「……分かった」
ただし、軍の正式な許可がないまま敵国へ物資を渡すことはできない。
カールは上官へ報告し、国境の現地協議を求めた。
許可が下りるまでの数日、川向こうの兵士たちは毎朝同じ場所に立っていた。
エリクはその姿を見るたび、母親が空の鍋を見つめていた冬を思い出した。
「なあ、悠真。もし許可が出なかったら?」
「勝手に渡せば、カールさんまで処罰されるかもしれない」
「じゃあ、待つしかないのか」
悠真は唇を噛んだ。
「待つ間にもできることはある。育て方を図にして、失敗しやすいところをまとめよう」
エリクは紙に大きな芋を描いた。
絵は不格好だったが、文字を読めない兵士にも伝わるように、芽と緑色の皮に印を付けた。
数日後。
双方の指揮官が立ち会う中、少量の種芋と種子が試験的に引き渡された。
悠真は、栽培方法を書いた紙も渡した。
「水と肥料が必要です」
通訳が説明する。
「ジャガイモの芽や緑色になった部分には毒があります。食べるときは注意してください」
敵兵たちは真剣に聞いていた。
一人が尋ねた。
「……本当に、これで食料が増えるのか?」
悠真は頷いた。
「条件が合えば、増やせます」
引き渡しの記録に署名しようとしたとき、アルディナ側の若い兵が口を開いた。
「来年、あいつらが腹いっぱいになって攻めてきたら、どうするんです」
悠真は即答できなかった。
食料が増えれば戦争がなくなる――そんな保証はない。
「だから、両国の指揮官に栽培記録と収穫量を報告してもらいます。助け合う約束を、監視できる形にするんです」
「信用しろってことですか」
「信用だけに頼らないための記録です」
今度は向こう岸の年長の兵士が、袋を受け取ろうとしなかった。
「俺たちが敵の種を受け取ったと知れたら、裏切り者にされる」
カールは、双方の署名が入った許可書を通訳に示させた。
「お前たちだけに責任を負わせない。だが、俺もこの署名の責任を負う」
年長の兵士は許可書を見つめ、それから震える手で袋を受け取った。
国境では、剣を置くことより種を受け取ることのほうが難しい時もある。
敵兵は袋を抱えた。
「……ありがとう」
小さく頭を下げた。
エリクは思わず川向こうを見た。
敵兵の顔に浮かんでいたのは勝者の笑みではなく、家族に何かを持ち帰れる安堵だった。
その日の夕方。
ヴァルシア側の野営地。
国境交渉に立ち会ったルドルフは、部下の手元に残った種を見た。
今夜の粥に混ぜれば、空腹は少し和らぐ。
植えれば、収穫まで何か月も待たねばならない。
「これを持ち帰れと言うのか」と年若い兵が尋ねた。
「命令はしない」とルドルフは答えた。
「ただ、食べる分と植える分を分ける方法だけ覚えておけ」
兵はトウモロコシの種子を一粒、掌に残した。
今夜の空腹よりも先の季節を選ぶのは、剣を抜くのとは違う勇気が必要だった。
同じ夕暮れ。
川のこちら側、アルディナの見張り台。
カールは、引き渡しの記録をまとめていた悠真に言った。
「……不思議なものだな」
「何がですか?」
「昨日まで敵として睨み合っていた兵士が、今日は種の植え方を尋ねていた」
悠真は笑った。
「食べ物は、国境を越えますから」
カールは頷いた。
「……そうだな」
だが、その知らせは、ヴァルシア王国の軍上層部にも届いていた。
報告を読んだ将軍は、書類の上に拳を落とした。
「兵が敵から種を受け取っただと。次は命令まで受け取るつもりか」
「双方の指揮官が許可した試験引き渡しです」と副官が答えた。
「ならば、次からは軍議にかけろ。収穫量の報告も我が軍で検める」
将軍は署名された許可書を破らず、机の引き出しにしまった。
「腹を空かせた兵が、種を食わずに畑へ埋めるかどうか。まずはそれを見てやる」
国境の小さな合意は戦争を止めなかった。
それでも、将軍がその紙を捨てなかったことを、まだ誰も知らなかった。




