第百十三話 飢えを知らない子供たちが増えたので、悠真は三十年前の話をすることにした
アルディナ王国。
王立農業学校。
春の朝。
「先生! 昔の王国では、食べ物がなくて戦争になったって本当ですか?」
教室の一番前に座っていた少年が、元気よく手を挙げた。
悠真は、黒板に文字を書く手を止めた。
「……本当だよ」
教室がざわめいた。
「ええっ!?」
「食べ物なんて市場で売ってるじゃないか!」
「足りなかったら、隣の村から買えばいいのに!」
悠真は、静かに微笑んだ。
今の子供たちにとって、食べ物は市場に並んでいるものだった。
パン屋にはパンがあり、八百屋には野菜がある。
冬になれば備蓄倉庫が開き、不作の村には農業組合から食料が届けられる。
それが当たり前になっていた。
だが、三十年前は違った。
「……昔はね」
悠真は、黒板に一つの数字を書いた。
【五】
「これは何の数字だと思う?」
少年が答えた。
「五人!」
「違う」
少女が手を挙げた。
「五つの村!」
「それも違う」
悠真は、静かに言った。
「俺がこの世界へ来たとき、持っていたジャガイモの数だよ」
教室が静まり返った。
「……五個?」
「それだけ?」
「先生、冗談でしょう?」
悠真は首を振った。
「本当だよ」
そして、もう一つの数字を書いた。
【百】
「それから、トウモロコシの種が百粒」
少年が尋ねた。
「……それで、どうしたんですか?」
「植えたんだ」
「……え?」
「食べずに、土へ植えた」
教室がざわめいた。
「食べ物がないのに!?」
「もったいない!」
悠真は頷いた。
「そう思うよね」
そして、窓の外の畑を見つめた。
「でも、全部食べてしまったら、次の収穫がなくなる」
「だから、村の人たちと相談して植えたんだ」
少年が尋ねた。
「……もし、育たなかったら?」
悠真は、しばらく黙った。
「……本当に、困っただろうね」
教室が静まり返った。
「でも、育った」
「村のみんなが、水を運んで、畑を守ってくれたから」
悠真は続けた。
「それから、隣の村にも種を分けた」
「さらに、別の村にも」
「少しずつ、少しずつ増えていったんだ」
一人の少女が尋ねた。
「……先生は、王国を救った英雄なんですか?」
悠真は苦笑した。
「英雄じゃないよ」
「でも、教科書にはそう書いてあります!」
「……教科書、あとで直してもらおうかな」
教室に笑い声が響いた。
数日前のことを、ふと思い出した。
悠真は教壇の上に、古びた木の皿を置いた。
「これは、三十年前に村で使っていた皿だよ」
子供たちは首を傾げた。
「どうして大事なの?」
「一つの芋を、家族で分けた皿だから」
一人の少年が言った。
「それじゃ足りないよ」
「そう。足りなかった。だから、誰が先に食べるかで争うこともあった」
悠真は皿を撫でた。
「でも、分けてくれた人もいた。君たちが今ここにいるのは、その人たちのおかげなんだ」
教室の空気が、静かに変わった。
悠真は、静かに続けた。
「俺一人では、何もできなかった」
「畑を耕す人がいた」
「種を守る人がいた」
「食料を運ぶ人がいた」
「困っている人へ分ける人がいた」
そして、「誰か一人でも欠けていたら、今の王国はなかったかもしれない」
少年は、しばらく考えた。
「……じゃあ、僕たちにもできることがありますか?」
悠真は笑った。
「もちろん」
「何をすればいいんですか?」
悠真は、黒板に最後の言葉を書いた。
【次の人へ渡す】
「君たちが学んだことを、次の人へ教えてあげてほしい」
「そうすれば、俺が知らないことも、君たちが見つけられる」
少年は、大きく頷いた。
「分かりました!」
授業が終わったあと。
悠真は、一人で教室に残っていた。
黒板には、五個のジャガイモの絵が描かれていた。
「……三十年か」
窓の外では、子供たちが笑っていた。
誰も、明日の食事を心配していない。
その光景を見て、悠真は小さく呟いた。
「……それだけでも、十分だったのかもしれないな」
だが、その日の午後。
王都から届いた報告書には、思いもよらない問題が書かれていた。
【今年度の農産物価格、大幅下落】
【一部地域で農家の収入が減少】
【豊作による供給過剰】
悠真は、報告書を見つめた。
「……今度は、作りすぎたのか」
飢えを克服した王国は、新しい問題に直面していた。
授業の後、教室に残った子供が尋ねた。
「食べ物が余っているのに、農家が困るの?」
悠真は答えに詰まった。
三十年前なら、豊作こそがすべての答えだった。
「そうだ。だから今度は、作る人が続けられる仕組みを考えなきゃいけない」
教室の窓の外には、よく実った畑が広がっていた。




