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第五話「呼ばれてはいけない名(仮)」

宿の窓の外は、すでに夜の色に沈みかけていた。


 昼の喧騒は薄れ、人の声も遠のいているはずなのに、逆にどこかで何かが動いている気配だけが濃くなっていく。静かなのに落ち着かない、そんな不自然な均衡が街全体に広がっていた。


 リナはまだ戻っていない。


 一人きりの部屋は、想像以上に重かった。


 ベッドに腰を下ろしたまま、視線だけが宙を彷徨う。考えないようにしても、勝手に浮かんでくる光景がある。


 崩れていく騎士の列、倒れたまま動かない影、そして黒い存在に対して何もできなかった自分。


 それに加えて、もう一つ。


 名前を口にした瞬間の、あの空気の変化。


 ――ユウマ。


 ただそれだけの音なのに、まるで世界が一瞬だけ反応したような感覚があった。


「……何なんだよ」


 喉の奥から漏れた声は、小さかった。


 意味は分からない。それなのに、確かに“起きている”。


 そのときだった。


 ――ドン。


 扉が強く叩かれる。


 思考より先に身体が跳ねた。心臓が一拍だけ大きく鳴り、そのまま嫌な予感が胸の奥に沈み込む。


「開けろ」


 低い声。


 感情を削ぎ落としたような響きだった。


「……誰だ」


「開けろと言っている」


 短い言葉なのに、拒否を許さない圧がある。


 ゆっくりと立ち上がる。足が少しだけ重い。


 扉を開けると、そこに二人の男が立っていた。


 鎧ではない。だが、ただの街の兵士とも違う。視線の奥にあるものが、明確に“警戒”と“処理対象を見る目”に近い。


「お前か」


 背の低い男が一歩前に出る。


「ユウマという名を名乗ったのは」


 その瞬間、空気がわずかに固まった気がした。


「……名乗った」


 それしか言えない。


 男は目を細める。


「その名を持つ者は、この時代に存在しない」


 まただ。


 草原でも、門でも、そして今ここでも同じ反応。


「……またそれか」


 思わず零れた言葉に、男の表情が変わる。


「“また”だと?」


 もう一人の男が、静かに手を上げた。


「確認する。お前はどこから来た」


「知らない」


「知らない?」


 声の温度がわずかに下がる。


「気づいたらここにいた。それだけだ」


 何度目かの説明だった。


 だが、そのどれもが相手に届いていないことだけは分かる。


 沈黙が落ちる。


 やがて、背の低い男が小さく息を吐いた。


「連行する」


 一瞬、理解が追いつかなかった。


「は?」


「その名を持つ以上、放置はできない」


 距離が詰まる。


 逃げる、という選択肢が頭に浮かぶ。だが、目の前の二人の立ち位置と動きの重さを見た瞬間、それが成立しないことだけは理解できた。


 そのときだった。


「待って」


 横から声が入る。


 リナだった。


 息を少し乱しながら、二人の間に割って入る。


「それ、正式な手続き?」


「見習い風情が口を出すな」


「出すよ」


 即答だった。


 空気がさらに張り詰める。


「その人を今ここで連れていく理由、説明できる?」


 男は一瞬黙る。


「名だ」


「それだけで?」


「それだけで十分だ」


 その言葉に、リナの目がわずかに細くなる。


「……最悪」


 小さく吐き捨てたあと、こちらを見る。


「ユウマ」


 はっきりと名前が呼ばれる。


「走れる?」


「は?」


 次の瞬間だった。


「捕らえろ」


 男の声が落ちる。


 空気が一気に動いた。


 リナが腕を引く。


「走って!」


 理解するより先に身体が動く。


 廊下を駆ける。背後で扉が破られる音が響く。


 足音が追ってくる。


 宿の中なのに、逃げ場がないという事実だけがはっきりしていた。


「こっち!」


 リナの声。


 裏口へと抜ける。


 外に出た瞬間、夜の空気が肺に刺さる。


 街の中はまだ人の気配があるはずなのに、どこか違って見えた。まるでこちら側だけが切り離されたような感覚。


「何したのあんた……!」


 走りながらリナが叫ぶ。


「何もしてない!」


 それしか言えない。


 だが、現実はそれを否定している。


 背後から声が落ちる。


「対象確認。逃走開始」


 その単語が、やけに重かった。


 “対象”。


 人としてではなく、何か別のものとして扱われている。


 息が上がる。


 足が重くなる。


 それでも街の空気そのものが、逃げ道を塞ぐようにまとわりついてくる感覚があった。


 そして気づく。


 すれ違う人間の一部が、こちらを見ている。


 恐怖でも好奇でもない。


 “知っているものを見る目”。


「……もう広がってる」


 リナの声が低くなる。


 その言葉の意味を理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。


 まだ何も終わっていないのに。


 世界はすでにこちらを“認識している”。

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