第三話「人のいる場所(仮)」
草原を抜ける頃には、足の震えはだいぶ収まっていた。
だが完全に戻ったわけではなく、一歩踏み出すたびに地面の感触がわずかに遠い。さっきまでの出来事が体の奥に残っていて、それが現実の輪郭を曖昧にしているような感覚があった。
前を歩くリナは、一定の速度を崩さないまま進んでいる。ときおり振り返って様子を確認するが、必要以上に気を遣う様子はない。その距離感が、逆にありがたかった。
やがて、風景に変化が現れ始めた。
緩やかな丘の向こうに、人工的な線が見える。最初はただの影に見えたそれは、近づくにつれてはっきりとした輪郭を持ち始めた。
石で積まれた壁だった。
高さは一定で、横に長く伸びている。等間隔に配置された塔のような構造物が、ここが単なる集落ではなく、守られた場所であることを示していた。
「……あれが街か」
思わず呟くと、リナが小さく頷いた。
「うん。規模はそんなに大きくないけど」
その言葉の通り、近づくにつれて人の気配が増えていく。
門の前には数人の列ができており、荷物を持った者たちが静かに順番を待っている。壁の上には見張りの姿も見える。視線は絶えず周囲を巡らせており、ここが管理された場所であることは明らかだった。
自然と足が少しだけ重くなる。
「……どうしたの」
リナが立ち止まり、こちらを見る。
「いや……」
言葉を濁すしかなかった。
人のいる場所に近づいているだけなのに、妙な緊張があった。
理由は単純だ。
自分は、この場所の“外側”から来た存在だということを、まだうまく受け止めきれていない。
「まあ、初めてならそんなもんでしょ」
リナは軽く言って歩き出した。
「大丈夫。変なことしなければ、追い返されるだけ」
「それ安心って言えるのか」
「生きてれば十分でしょ」
あっさりとした返答だった。
否定できないのが、余計に重い。
列の最後尾に並ぶ。
前にいる人間たちはこちらを気にする様子もなく、淡々と順番を待っている。ただ、その中に紛れ込んでいる“日常”の空気に、どこか違和感があった。
言葉は理解できる。会話も成立している。だが、微妙な言い回しや間の取り方が、自分の知っているものとはわずかにずれている。
その小さなズレが、現実感を逆に削っていく。
「次」
前から声がかかる。
順番が来ていた。
リナが軽く手を上げる。
「見習いだけど通行証ある」
そう言って、小さな札のようなものを差し出す。門番の男はそれを受け取り、目を通すと短く頷いた。
「問題ない。次」
視線がこちらに向く。
一瞬だけ、喉が詰まる。
当然ながら、何も持っていない。
「……ない」
正直に答えるしかなかった。
門番の眉がわずかに動く。
「理由は」
「気づいたら、ここにいた」
また同じ説明になる。
だが、それ以外の言い方を知らない。
門番はしばらくこちらを見ていた。
その目は疑いというより、確認に近い。
「名前は」
「ユウマ」
その瞬間だった。
空気が変わる。
一拍遅れて、周囲の視線がこちらに向くのが分かる。
さっきまでの無関心が、明確な反応に変わっていた。
「……もう一度言え」
門番の声が低くなる。
「ユウマ」
繰り返す。
今度ははっきりと、周囲にざわめきが広がった。
遠くで会話していた人間まで、こちらを見ている。
草原での反応と同じだ。
「……ふざけているのか」
門番が小さく舌打ちする。
「その名は……」
一瞬、言葉が切れる。
そして、短く吐き出すように続けた。
「この時代に存在するはずがない」
その言葉に、空気がさらに重くなる。
周囲の視線は、好奇よりも警戒に近いものへと変わっていた。
リナがわずかにこちらに近づく。
「またこれか……」
小さく呟く。
「……通せ」
門番はしばらく黙ったあと、そう言った。
「いいのか」
「問題を起こす方が面倒だ」
投げやりな言い方だった。
だが、その判断に逆らう者はいなかった。
そのまま門をくぐる。
中に入った瞬間、空気が変わった。
風景は同じはずなのに、そこには確かに“人の生活”があった。
道を行き交う人々、物を運ぶ者、声を張る商人。
だがその中で、自分だけが明らかに浮いている感覚があった。
視線が刺さる。
直接的ではない。だが確かに見られている。
先ほどのやり取りがすでに広がっているのかもしれない。
「……やっぱり目立つね」
リナが小さく言う。
「普通はあんな反応されない」
「じゃあ何なんだよ」
「さあね」
肩をすくめる。
「でも、少なくとも“普通じゃない”のは確実」
その言葉は、さっきから何度も聞いている。
だが、意味はまだ掴めないままだった。
通りを進むにつれ、人の密度は増えていく。
石造りの建物が並び、生活の音が重なっていく。そのどれもが現実のはずなのに、どこか遠くの世界を見ているような感覚があった。
ふと、すれ違う男がこちらを一瞬だけ見た。
そして、すぐに視線を逸らす。
だが、そのわずかな動きが妙に引っかかった。
何かを確かめるような、そんな視線だった。
「……とりあえず」
リナが歩きながら言う。
「今日は休めるところ探そっか」
「そうだな」
否定する理由はない。
だが歩きながら、頭の片隅では別のことが浮かんでいた。
この街に入ってから、ずっと同じ反応をされている。
名前ひとつで。
理由は分からない。
だが――
それが“偶然”ではないことだけは、薄々感じ始めていた。




