第二話「まだ知らないことばかりだ」(仮)
荒い呼吸が、ようやく落ち着きを取り戻し始めた頃だった。
耳の奥で鳴り続けていた心臓の音が、少しずつ遠ざかっていく。それと入れ替わるように、周囲の音が戻ってきた。風が草を揺らす音、遠くで鳴く鳥の声――ついさっきまで命のやり取りがあったとは思えないほど、この場所は静まり返っている。
だが、その静けさはどこか不自然で、かえって現実感を曖昧にしていた。
本当に、終わったのか。
そう思った瞬間、反射的に振り返る。
だが、そこにはもう何もなかった。あの黒い影も、剣を構えていた男たちの姿も、すべてが消えたあとの空白だけが残っている。
「……大丈夫」
隣で、小さく声がした。
「今の距離なら、たぶん追ってこない」
振り向くと、リナがわずかに肩で息をしながら立っている。さっきまでの戦いの余韻が、まだ抜けきっていないのだろう。
「……たぶん、って」
思わず聞き返す。
リナは一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく息を吐いた。
「絶対じゃないけど。ああいうの、しつこいときもあるし」
軽く言っているようで、その実かなり現実的な言葉だった。
助かった、と思いかけていた感覚が、そこで一度引き戻される。
完全に安全な場所なんて、まだどこにもない。
その事実だけが、やけにはっきりと胸に残った。
しばらく、どちらも言葉を発さなかった。
風の音だけが続く。その中で、頭の奥ではさっきの光景が何度も繰り返されていた。
黒い影。通じない攻撃。吹き飛ばされる人間。
そして――
「……あの人たち」
気づけば、口に出していた。
「どうなったんだ」
言ったあとで、その言葉の重さに遅れて気づく。
リナはすぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ視線を伏せ、それからわずかに顔を横に振る。
「……分かんない」
短い返答だった。
「でも、あのままじゃ……」
そこまで言って、言葉を切る。
続きは、言わなくても分かった。
あの場に残ったままで、無事でいられるとは思えない。
「助けに戻るのは無理だよ」
静かに、だがはっきりとリナが言う。
「数が足りてなかった。あれに対して、あの人数じゃどうにもならない」
現実をそのまま言葉にした声音だった。
反論はできない。
実際に見た光景が、それを否定させてくれなかった。
それでも、何も言わないままでいることが、妙に引っかかった。
「……そうか」
結局、それだけしか言えなかった。
喉の奥に残った何かを、うまく言葉にできないまま飲み込む。
風が吹く。
さっきと同じはずの音が、どこか遠く感じられた。
「……さっきの」
不意に、リナが口を開いた。
少しだけ間を置いてから、こちらを見る。
「あれ、なんだったの?」
問いの意味が、一瞬分からなかった。
「黒いやつのことか?」
「違う。あんたのほう」
言われて、言葉に詰まる。
自分のことを聞かれているのだと理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
「……分からない」
結局、それしか言えなかった。
自分でも曖昧すぎると思うが、それ以上の説明はできない。
リナは小さく息を吐く。
呆れた様子でも、責める様子でもなかった。ただ、予想していた答えだったというだけの反応だった。
「でもさ」
少しだけ間を置いて、続ける。
「最後、あれ止まったよね」
「……止まった?」
「一瞬だけ。あんたが前に出たとき」
言われて、記憶をたどる。
確かに――ほんの一瞬だけ、黒の動きが鈍ったように見えた。
だが、それが自分に関係しているのかどうかは分からない。
「……たまたまだろ」
そう答えると、リナは小さく首を傾げた。
「どうかな」
断定はしない。ただ、納得していないのは明らかだった。
「ああいうのが、あんな反応するの、見たことないし」
ぽつりと付け足される。
その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。
自分では何もしていないはずなのに、何かが起きていたとしたら――それは、あまり気分のいい話ではなかった。
「……あれは、なんなんだ」
さっきから引っかかっていた疑問を口にする。
リナは少し考えるように視線を落とした。
「うまく言えないけど……“外れたもの”かな」
「外れた?」
「本来ここにあるはずのないもの、っていうか。うまく噛み合ってない感じ」
曖昧な説明だったが、不思議と違和感はなかった。
あの存在は確かに“ずれて”いた。見た目だけでなく、存在そのものがこの場所と合っていないような感覚があった。
「……ああいうの、よく出るのか」
「場所による」
短く答える。
「ここら辺は、本来そんなに多くないはずなんだけど」
そう言いながら、リナは周囲に視線を走らせる。その動きには、まだ警戒が残っていた。
完全に安全な状況ではないのだと、改めて実感する。
少しの沈黙のあと、リナが再びこちらを見た。
「それで」
今度は逃げ場のない調子だった。
「あんた、何者?」
真正面から問われる。
だが、その問いに答えられる材料は、ほとんど持っていなかった。
「……気づいたら、ここにいた」
自分でも曖昧すぎると思う。
だが、それ以上の言葉は見つからない。
「それだけ?」
「それだけだ」
短いやり取りのあと、リナは少しだけ考え込むように視線を外した。
疑っているのか、それとも整理しているのかは分からない。
やがて、小さく息を吐く。
「……まあ、いいや」
あっさりとそう言った。
「分かんないものは、考えても仕方ないし」
軽い言い方だったが、完全に納得したわけではないのは伝わってくる。
「でも」
視線が戻る。
「一個だけはっきりしてる」
「……何が」
「その名前」
少しだけ、声の調子が変わる。
「普通じゃない」
分かっている。
さっきのやり取りを思い出せば、それくらいは理解できる。
「……英雄とか言ってたな」
「うん」
短く頷く。
「同じ呼び方なら、たまにある。でも――」
一瞬だけ言葉を切る。
「“真名”が同じなんて、ありえない」
静かに言い切られる。
その言葉には、揺るぎのない確信があった。
つまり、それはこの世界において“ありえないこと”なのだろう。
風が吹く。
草が揺れる音が、やけに大きく感じられた。
「……とりあえず」
リナが立ち上がる。
「ここにいても危ないし、移動しよ」
その言葉に、自然と視線が上がる。
「近くに街がある。そこまで行けば、少なくともさっきみたいなのは出ないはず」
完全ではないが、それでも今よりはましだろう。
差し出された手を見る。
一瞬だけ迷ったあと、それを取った。
立ち上がると、足はまだ少しだけ震えていた。
さっきまでの出来事が、体に残っている。
「……歩ける?」
「なんとか」
正直なところ、あまり自信はない。
それでも、ここに留まる理由はなかった。
リナは小さく頷く。
「ならいい」
それだけ言って、歩き出す。
少し遅れて、その後を追う。
前を行く背中を見ながら、考える。
何も分かっていない。
ここがどこなのかも、なぜ自分がここにいるのかも。
それでも――
さっきの光景だけは、はっきりと残っていた。
あの場に残った人間たちがどうなったのか。
考えないようにしても、頭のどこかで繰り返される。
何もできなかったという事実だけが、やけに重く残り続けていた。
それでも足は止まらない。
止まる理由には、ならなかった。




