第一話「名前を持つだけの人間」 (仮)
初描きなので温かい目で見ていただけると幸いです
気づいたとき、俺は地面に倒れていた。
視界いっぱいに広がるのは、見たことのない青空だった。どこまでも澄みきっているはずなのに、不思議と落ち着かない。しばらく見上げていると、胸の奥に言いようのない不安がじわじわと広がっていく。この空は、自分の知っているものとはどこか決定的に違う――そんな感覚だけが、はっきりと残った。
ゆっくりと息を吸う。肺に入ってきた空気は少し冷たく、土と草の匂いを含んでいる。その湿り気がやけに生々しく、ここが夢ではないことを否応なく理解させてきた。
腕に力を入れて体を起こすと、視界がぐらりと揺れる。遅れて平衡感覚が戻り、ようやく周囲に目を向ける余裕が生まれた。
そこにあったのは、どこまでも続く草原だった。建物も人影も見当たらない。ただ風に揺れる草の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、この世界の広さを静かに伝えている。
さっきまで教室にいたはずだ。五限の途中、机に突っ伏して、ぼんやりと時間をやり過ごしていた。その後の記憶が、きれいに抜け落ちている。
「……夢、か」
呟いて、自分で首を振る。
頬をつねればきちんと痛みが走り、地面に触れれば湿った冷たさが指先に残る。どこからどう考えても、これは現実だった。
喉の奥が乾く。
「……異世界、とか」
半ば冗談のつもりで口にした言葉だったが、不思議としっくりきた。否定する材料が何ひとつ見当たらない。
ここは知らない場所だ。助けもない。帰れる保証もない。
「……詰んだな」
小さく吐き出した、そのときだった。
「――誰だ!」
鋭い声が飛ぶ。
反射的に振り向くと、鎧を着た男たちがこちらへ向かってきていた。手には剣が握られている。その動きにためらいはなく、状況次第ではすぐにでも斬りかかってきそうな緊張感があった。
心臓が嫌な音を立てる。
「ま、待ってくれ……!」
言葉を絞り出すが、声は情けないほど震えていた。逃げなければいけないと分かっているのに、足が言うことを聞かない。
「名を名乗れ」
短く、命じられる。
逆らえる空気ではなかった。
「……」
名前くらい、すぐに言えばいい。そう思うのに、なぜか一瞬だけ言葉が喉に引っかかる。理由の分からない違和感が胸の奥に残る。
それでも黙っているほうが危険だと判断し、口を開いた。
「……ユウマ」
自分の名前を告げる。
「俺は、ユウマだ」
その瞬間、妙な静けさが場を包んだ。
何も起きない。だが、その“何も起きなさ”がかえって異様だった。男たちはすぐに動こうとせず、ただ視線だけをこちらに向けている。その目に浮かんでいるのは、警戒というより戸惑いだった。
「……今、なんと言った?」
「ユウマ、だけど」
ざわり、と空気が揺れる。
「……もう一度だ」
「……ユウマ」
今度は、はっきりと変わった。小さなざわめきが確信に近いものへと変わっていく。
「……別の名を言ってみろ」
「は?」
「いいからだ」
訝しみながらも、言われた通りに口を開く。
「……タナカ」
だが――声が出なかった。
喉が締め付けられたように、言葉だけが消える。確かに発音しようとしたはずなのに、音にならない。
思わず喉に手を当てる。
「……なにが……」
「“真名”だ」
男が低く言った。
「この世界の人間は、生まれたときに“真の名”を魂に刻まれる」
静かな声だったが、その場の誰もが息を潜めて聞いていた。
「普段呼び合う名とは別物だ。それは“存在そのもの”を示すもの。自分の真名以外を名乗ろうとすれば、今のように拒まれる」
言葉の意味はすぐには飲み込めない。それでも、今起きた現象と結びついていることだけは、妙にはっきりと感じられた。
「……じゃあ、普段呼んでる名前はなんなんだよ」
「ただの呼び名だ。記号のようなものに過ぎん」
男は短く答えた。
そして、わずかに目を細める。
「……貴様、そんなことも知らないのか」
男は訝しむようにこちらを見る。その視線には、明らかな警戒が混じっていた。
「……本当に、何者だ」
わずかな沈黙が落ちる。
男は一度、息を吐いた。何かを確かめるように、こちらを見据える。
「……その名を持つ者は、この時代に存在しない」
静かな間が落ちる。
「“ユウマ”は、英雄の名だ」
その言葉で、場の空気が決定的に変わった。
「ほんとに普通だな~」
場違いなほど軽い声が割り込んだ。
振り向くと、金色の髪をした少女がこちらを見ていた。軽装の装備に短剣を下げ、興味深そうに覗き込んでいる。
「リナ、下がれ」
「えー、ちょっと見るだけ!」
止める声を気にも留めず、少女は距離を詰めてくる。
遠慮なく顔を覗き込まれ、思わず視線を逸らした。
「……見た感じ、ほんとにただの人だね!」
「初対面でそれ言うか普通」
思わず返してしまう。
その軽口のおかげか、張り詰めていた空気がほんのわずかだけ緩んだ。
だが、その空気は長くは続かなかった。
不意に、風が止む。
草の音も、遠くの鳥の鳴き声も消え、世界そのものが息を潜めたような静寂が広がった。
その異様さに、場にいた全員が気づく。
「……来るぞ」
低い声と同時に、視界の端で空間が揺らいだ。
次の瞬間、黒い影が現れる。
人の形をしているようで、していない。輪郭は曖昧で、煙のようにほどけながら、それでも確かにそこに存在していた。
見た瞬間に分かる。あれは、関わってはいけないものだと。
「“歪み”か……!」
誰かの声が震える。
「総員、構えろ!」
命令が飛び、兵士たちが一斉に前に出る。動きは統率されており、無駄がない。
だが、その秩序は一瞬で崩れた。
黒がわずかに揺れたかと思った次の瞬間、最前列の男が吹き飛ぶ。剣で受けていたはずの衝撃が、防御ごと叩き潰していた。
何が起きたのか理解する前に、次の一撃が振るわれる。
剣は当たっているはずなのに、手応えが噛み合わない。まるで存在そのものがずれているかのように、攻撃が意味を成さない。
隊列は崩れ、統率は失われる。誰かが叫び、誰かが後退し、それでも状況は変わらなかった。
勝てない。
それだけが、はっきりと分かる。
そのとき、黒がこちらを向いた。
標的が変わったと理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
体が動かない。
その前に、さっきの少女が一歩踏み出した。
短剣を構え、こちらに背を向ける。
「……下がってて」
振り返らずに言い残す。
次の瞬間、黒が迫る。
速い。目で追えない。
それでも少女は、かろうじてその一撃を受け止めた。金属音が弾け、衝撃で体が押し戻される。
踏みとどまってはいるが、押されているのは明らかだった。
「なんで戦ってるんだよ……!」
思わず声が出る。
「……少しでも時間を稼ぐため」
短く返ってくる。
息が乱れている。それでも足を引かない。
まともに勝てる相手ではないことは、見ているだけでも分かる。それでも踏みとどまっているのは、そうするしかない理由があるからだろう。
だが、その均衡は長くは続かなかった。
押し込まれる。踏み込みを受け止めきれず、体勢がわずかに崩れる。
その一瞬が致命的だった。
黒が振り下ろされる。
間に合わない。
そう分かっても、体は勝手に動いていた。
足がもつれながらも前に出る。意味がないと分かっていても、何もしないまま終わるのだけは嫌だった。
そのとき、黒の動きがわずかに鈍る。
ほんの一瞬だったが、確かに隙が生まれた。
「……今!」
少女がすぐに反応し、距離を取ると同時にこちらの腕を掴む。
「走るよ」
引かれるまま、走り出す。
息が乱れる。視界が揺れる。それでも止まるわけにはいかなかった。背後から感じる気配が、それを許さない。
どれくらい走ったのか分からない。
やがて気配が遠ざかり、ようやく足を止めたときには、全身が限界を迎えていた。
その場に崩れ落ちる。
呼吸が整わない。
それでも、生きている。
しばらくして、ようやく息が落ち着いてきた頃、隣から声がかかった。
「……さっきの、ありがと」
顔を上げると、少女がこちらを見ていた。
さっきまでの緊張は抜けているが、それでもどこか警戒は残っている。
「私はリナ。見ての通り、まだ見習いだけど」
軽く肩をすくめるようにして名乗る。
目の前で起きたことを思い返す。
理解は追いつかない。それでも、ひとつだけはっきりしていることがあった。
ここは、自分の知っている世界じゃない。
そして――
何も分からないまま、その現実の中に放り込まれた。
初心者なのでミスなどは優しく指摘してくれると嬉しいです




