幕間 犬は来た道を振り返る 後編
今回は、少し痛い描写が多いです。苦手な方はお気を付けください。
「おい!!何故、子供を襲った遊牧民を捕縛していない!!」
「は…?」
古老の言葉は花より役立つ…とは、よく言ったものだ。
報告書を渡したのち、しばし待たされて大隊長の部屋…執務室などと言う立派なものではない…に呼び出され、その口から放たれた言葉を聞いたマルコの頭に浮かんだのは、そんな感想だった。
「は?ではない!何故、その凶暴な遊牧民を拘束、連行しなかった!これは、大きな失態だぞ!!」
「いえ、犯人は捕縛してありますが…」
「犯人!?お前はボヒル商会の御子息に罪を擦り付けようというのか!凶暴な外暮らしから、子供たちを守った英雄に!」
「…は?」
ただの喧嘩程度に、落とし込むつもりだと思っていた。
それはもちろん、納得できるものではない。しかし、「ただの喧嘩」で双方御咎めなし程度が無理できる限界だ。
まさか、「犯人」と「子供を助けた英雄」を逆転させようとは。
それは、考えうる限り相当な…いや、最悪の手だ。
二太子は「いなかったこと」にしてくれたが、犯人として追われていると知れば、見過ごすことはできない。
もともと、咎められるような行いはしていないのだ。
単身で暴漢の前に立ち塞がったことは、多少叱られるかもしれないが。
子供たちを守って暴漢をやっつけた…など、誰が聞いても手放しで賞賛する武勇伝である。
ましてそれを為したのが、まだ成人も迎えられていない二太子と知られれば、大都の民は一月はその話題で盛り上がるに違いない。
さらに、悪徳商人が我が子を守るために大隊長を抱き込み、罪を擦り付けようとした…などと言う物語まで追加されれば。
お忍びで街に来られていた二太子様が、棒を持って襲い掛かってきた狂人から、子供たちをお守りになったそうだ!
なのに、なんとその狂人の父親が、賄賂で二太子様を犯人にしようとしたんだと!
もちろん、そんなふざけた悪事はすぐに露見し、そのボヒル商会とやらは成敗されたんだよ!
当然だ!二太子様に何という無礼を!
そんな会話が大都のあちらこちらで交わされ、「ボヒル商会」は悪の代名詞になる。
マルコがどうにかしたいと思った人々が、二太子の取り成しで罰を免れたとしても、大都では暮らしていけまい。
いや、大隊長の捜索が二太子の御身まではとても及ばず…と言うか、おそらく本気で探す気はあるまい…書類だけのすり替えになったとしても、だ。
二太子側も狂人がどうなったか、確認くらいはするだろう。
本人がしなくとも、あの護衛たちが。二太子を狙った暗殺の可能性が完全に消え去るまで、油断はするまい。
その時、書類の上で二太子が子供を襲ったことになっていたら。
王族に濡れ衣など、とんでもない話だ。
それだけで、下手をすれば大隊長の上の上まで累は及ぶ。本人が処刑されるのは当然としても、それだけでは終わらない。
「…大隊長」
「さっさと、そのガキを捕まえて来い!!」
「それは、できません。あなたは、適当に書類を誤魔化せばいいと思っているんでしょうが…」
「お前…」
大隊長の顔が、歪んだ。
もともと、この大隊長はマルコの事を良く思っていない。
自分の地位を狙ってると思い込んでいるし、士官学校を出ていることも気に食わないようだ。
目障りなマルコを追い払い、大金も手に入ると皮算用の結果なのだろうが、あまりにも浅はかすぎる。
「遊牧の民は、なによりも名誉を重んじます。彼は、ヤルクト氏族でした。御父上と兄上は軍にいると言っていました。ヤルクト氏族出身で軍にいる方が、ただの騎士である可能性はかなり低いですよ」
それどころか、大王陛下と一太子だけれども。
そこは伏せるとしても、牽制はできる。実際、ヤルクト氏族出身の将は多く、本人がそうでないとしても、親戚友人まで広げれば確実に誰か一人はいる。
その一人が、更に偉い御方に訴えることだってできるだろう。
マルコの思惑通り、大隊長は言葉に詰まった。
めまぐるしく、どうするのが自分に一番得か考えているに違いない。
一番いいのは、マルコが予想したような「ただの喧嘩」程度に落とし込むことだ。
二太子本人は「子供を救った手柄」などを求めてはおらず、罪人として汚名を被せられるというわけでもない。
許すまじという声は上がるかもしれないが、族滅だなんだとまでは…おそらく、いかないはずだ。
「…なるほど」
たっぷり百数えるくらいまで考えこみ、大隊長はマルコに視線を戻す。
引き攣るような笑み。
そして、血走り、見開いた眼。
それを見た瞬間、マルコは老衛兵の言葉に付け足した。
いや、馬鹿って、取り返しがつかないことを、どうにか取り返そうとして更に失敗するみたいだよ?
「お前!外暮らしの連中に、金を掴まされたな!ヤルクト氏族などと、嘘までついて俺を誤魔化そうと…!」
「はあっ!?」
「もういい!おい!この裏切り者を捕えろ!!」
部屋になだれ込んできたのは、大隊長お気に入りの部下三人。つまりは、取り巻きと言うやつだ。
態度は横柄、店の商品を「検品」の名目で持っていく、女性に卑猥な言葉を投げかける…など、悪い評判や苦情ばかりが聞こえてくる手合いである。
マルコも一度その現場に居合わせ、注意したことがあった。
立場的にはマルコの方が上だ。その時は、卑屈な笑みを浮かべて「冗談ですよ」と言っていたが。
「抵抗するなら、お前の部下のジジイ共に話を聞かねばならん。意味は…わかるな?」
「あんたって人は!!莫迦な真似はやめてください!こんなの、騙しとおせるはずがない!」
「うるさい!」
取り巻きの一人に腹を殴られ、息が漏れた。
打撃自体は大したことはない。才能がなくても、マルコは騎士であり、鍛錬は続けている。もし立場が逆なら、一撃で打ち倒せただろう。
しかし。
その騎士であるマルコを殴り、拘束する。
本来ならあり得ない、あってはならない愚行。
「悪事ってのはな、バレなきゃ悪事にはならねぇんだよ。お坊ちゃん」
引き攣った笑みを浮かべたまま、大隊長はマルコの前に立った。
その絶対優位な立場とは裏腹に、赤くなった顔には汗が伝い、声は僅かに震えている。
「なあ。お前だって痛い目には遭いたくねぇだろう?生きて帰りたいだろう?ちょっとばかり、報告書を書き換えればそれでいいんだ。なあ?」
「お断りします」
返答は、頬に走った衝撃だった。
今度は予想していたから、大隊長へ向ける視線は揺らぎもしなかった。
それが気に食わなかったのか、立て続けに頬を張られたが。
「お前は確かに、士官学校を出たまっとうな騎士様かもしれんがな。俺の方が偉いんだよ」
大隊長の手が伸び、マルコの胸元にある徽章をもぎ取る。
騎士の証であり、衛兵隊長と言う身分を示す、鉄製の徽章。
「連れていけ。自分の立場ってもんを理解させろ」
「承知しました」
にやにやと嬉しそうに笑いながら、取り巻き三人はマルコを引き摺っていく。
その腕に逆らいながら、マルコは無理矢理大隊長を見た。
「あんたは、あんたが思っている以上にヤバい道を進んでいるぞ!これ以上、誰かを痛めつけて罪を捏造するなんてことはするな!取り返しがつかなくなるぞ!」
返答は、またもや腹への一撃。
だが、それでもマルコは、部屋から引きずり出されるまで、大隊長を見据えていた。
***
「けふ…」
何とか咳込み、残っていた水を吐き出す。
横たわる牢の床は当然ながら居心地が悪く、ざらざらとした表面が肌に痛い。
部屋から引きずり出されてすぐ、猿轡を噛まされて連れてこられたのは、大詰所の地下に造られた牢だ。
何年も囚人を閉じ込めておくような本格的な牢ではなく、一晩ぶちこんで反省を促したり、護送まで閉じ込めておくためだけのものである。
尋問や、情報を吐き出させるための「おしゃべり」は、御史台や軍の諜報へ引き渡されてからの事なので、ただ鉄格子が嵌っている部屋程度だ。
だが、この大詰所の牢は、明らかにその範疇を越えていた。
壁には鎖につながれた手錠がぶら下がり、足枷もある。水道が引かれているのが掃除の為ではないことを、マルコは先ほど身をもって知った。
拙いな…と痺れる思考で無理矢理考える。
手は後ろ手に括られ、足には足枷。その鎖は壁に伸び、立ち上がれたとしても、鉄格子まで近付くこともできない長さだ。上半身の服は剥ぎ取られ、石の床の冷たさが肌を刺す。
盥に張った水に顔をつけられ、窒息寸前で引き上げられる。
息を整える間もなく繰り返されるそれは、拷問としてはありふれた手段だ。
涙と鼻水を溢れさせて嘔吐くマルコを、取り巻き達は散々笑い、罵って出て行った。
なので、今はとりあえず、これ以上危害を加えられる心配はない。だが。
間もなく、日が暮れる。
日が落ちれば、気温は一気に下がっていく。大都の夜は、夏とは言え上着なしで過ごすのは厳しい。酔っぱらいが路上で死ぬのは、冬に限った話ではない。
水に濡れた状態で、一晩過ごせば。
体温と体力が奪われ、弱っていく。体が弱れば、精神も弱る。自分がどこまで耐えられるか、マルコにもわからない。
嘘をつき、二太子を裏切り、その名誉を穢すような真似をするくらいなら。
(いっそ、殴り殺された方が…)
一瞬過った考えを、マルコは舌打ちで蹴散らした。
騎士たるもの、その身命は大アスランへと捧げている。勝手に死を願うなんて、赦されない事だ。
(こんなグダグダな計画、絶対に早々露見する。三日程度耐えれば…)
今日明日は戻らなくても、大詰所で何かしていると言われれば、老衛兵たちや他の詰所の隊長らも納得するかもしれない。
しかし、三日も顔を出さず、音沙汰もない…ともなれば、きっとおかしいと気づいてくれるはず。
この大詰所でも、大隊長のいうことに一から百まで従うのは取り巻きくらいだ。
そして、大隊長は取り巻き以外は信用していない。
ならば、それ以外のこの大詰所に勤める衛兵や書記官は、何も知らされていない可能性が高い。
報告書を持ってきたり何なりと、この大詰所の衛兵、書記官とは交流がある。老衛兵たちがマルコが来ていないかと問えば、訝しんでくれるだろう。
その時、大隊長や取り巻きの態度に不審な点があれば「まさか」と疑う程度には、大隊長に人望はない。ここぞとばかりに訴え出る。
(だから、それまで…それまで、耐えれば…)
本来あってはならないこの地下牢の存在は、噂になっていた。
大隊長とその取り巻きは、点数稼ぎに適当な相手を犯人に仕立て上げていると。
そうして「犯人」とされたのは、その日暮らしの出稼ぎや移民だった。彼らは全員、犯行を「自供」したと言う。
逮捕までされるような罪を犯し、捕縛された場合、一度は必ず御史台に送られ、ある神具の前で嘘偽りがないかと問われる。
その神具、金色に輝く小さな鈴は、嘘を許さない。もし、虚偽があれば激しく身を震わせ、騒ぎ立てるのだ。
だが、その神具が暴くのは嘘だけであり、「嘘は言っていないが真実でもない」場合は沈黙してしまう。
つまり、「こいつは罪を自供しました」という報告に対しては、「自供した」ことが真実ならば、反応しないのである。
ただの空き巣や掏摸、ひったくり程度では、犯人として連れてこられたものを再度審議にかけることなどしない。
書類の上で「鈴は鳴らず」と書かれておしまいだ。
拷問の痕が残る犯人が続けば、御史台も訝しむ。
身体の自由を奪い、水責めにするやり方は、身体に傷が残ることはない。ひたすら苦しいだけの拷問だ。
大隊長は「自供」させたいのだろう。今までもそうしてきたように。
だが、騎士と移民では扱いが違う。マルコに対しても、必ず再度聞き取りが行われる。
だからどのみち、大隊長らの企みがそこで潰えるのは確定していた。
なにせ、他の衛兵や襲われた子供たち、通りかかった人々、見掛けた商店の店主たち…誰に聞いても、襲い掛かったのはボヒル商会の息子で、助けたのが遊牧民の少年と答えるのだから。
(…俺がはいと言わなきゃ、どうでるかな)
間違いなく、解放はできない。
騎士であるマルコを拷問にかける権限は、大隊長にもない。本来ならさらに上へと報告し、監察へと送られてそこで必要ありと判断されれば執り行われるのだから。
しかも、殺してしまえば罪はさらに重くなる。
騎士に処刑判決を出せるのは、戦中でなければ千人長以上だけであり、無論、平穏な大都の大隊長に許される権限はない。
軍に於いて越権行為は、冤罪のでっち上げや収賄よりもはるかに重い罪だ。
それくらいは当然、大隊長も理解しているだろう。
かと言って、マルコから「自供」を引き出したとしても、だ。拷問の末に言わされたとそれこそ自供してしまえば、すぐに再捜査が始まり、結局は大隊長の罪は露見する。
(唯一、あいつが助かる道があるとすれば、今すぐ逃げるくらいか)
もちろん、そうしたところで、「アスランで最も鼻が利き、執念深い猟犬」と恐れられる監察官が見逃すかはわからないが。
だが、針の穴を通すような確率で、大隊長の思い通りに事が運べば…奴隷落ちするのはマルコの方だ。
(絶対にうまくいかないけどさ…けど、それなら、俺を殺すつもりはしばらくはない、かな)
だが、その為に、やつらはマルコの心を折るべく、毎日拷問に勤しむだろう。
(でも、駄目だろうなあ…。馬鹿だから)
ヤルクト氏族で、太い伝手がある相手だぞと伝えても、それを跳ねのけて賄賂をとった連中だ。
間違いなく、「上手くいかなかったとき」については考えていない。
(やられ損かあ…ついてないね)
マルコが何処に行ったと周囲が騒ぎだしたら、次善の策…つまり「被疑者逃亡」に切り替えようとするだろう。
一番の証人は、拷問を受けているマルコだ。さっさと殺して長城の外に捨ててしまえばいい。
もしくは、「マルコは来ていない」とでも言い張るか。
どのみち、マルコを生かしておくのは危険だ。殺してしまうか、自分の名誉を回復しようとする気も起きなくなるほど、心を折るか。
騎士になろうと決めた時。
どこかの戦場で死ぬことくらいは覚悟した。
アスランは平和な国だが、賊がいないわけはなく、叛乱の一つも起きないわけでもない。隣国との戦もある。
だが、大都の真ん中で、同僚に拷問を受けて死ぬのは想定外だった。
(二太子にお会いして、幸運とか全部使いきっちゃったかね)
しかし、その「幸運」を恨むつもりはない。
あの方は、まぎれもなくアスランの王族だった。そして、二太子を育てた大王后妃両陛下、そして一太子様もまた、生粋の平民であるマルコが思い描くような方々だろう。
それが確信できただけで、心の大部分が満たされている。
騎士の誓いを立てた時、大王陛下には謁見賜ることが出来た。
あの時だって、同じ気持ちになったのを思い出す。
世の中には、騎士であることが身の不幸であるような主君もいる。マルコの父はそれが原因で妻を連れて出奔したのだと、うっすらと聞いていた。
両親の祖国は現在、王家の権威などないに等しく、有力貴族たちが互いの足を踏み躙りながら、笑顔で握手しているような状態だ。
そんな国が平和に繁栄しているわけはなく、民は昼日向から賊や魔獣の襲撃に怯え、苦しい生活をしているらしい。
王の才能がない者が王となるのは、誰にとっても…本人にとっても不幸だと、父は言っていた。
大アスランに、そんな不幸はない。王に相応しい王へ忠誠を尽くせる。そのなんと、幸福な事か。
それが、自分が最後に知りえた真実なら、悪くない。
意識を手放す直前、最後にマルコはそう呟く。
それは声になっていたか、内心に響いたのか、本人にもわからないままに。
***
意外な事に、次に目を覚ましたマルコがいたのは、狭いがちゃんとした「部屋」だった。
寝ている寝台があり、部屋の隅には囲いで覆われた便器もある。窓には硝子がはめ込まれ、明るい陽光を室内に届けていた。
寝台の横に小さな卓が置かれ、そこには質素ながらも食事すらあった。
冷え切った干し肉入り粥と柘榴だったが、恐る恐る一口食べた感じでは、毒は入っていない。
足枷手枷はあるが、手枷の鎖は十分に長く、自由にとまではいかないものの、食事をする程度なら不便はない。
訝しみながらも完食し、用を足し、疑問で頭をいっぱいにしていると、取り巻きが入ってきた。
「おい、反省したか?してねぇよなあ?そのツラ」
「もうちょっとばかり、水浴びするかあ」
そして昨日の牢へと連れていかれ、散々に水責めにあった。それだけでは飽きたのか、つま先か届くか届かないか程度の高さで宙づりにされたり、その状態で蛆の湧いた汚泥を掛けられた。
疲労と痛みで気を失い、目が覚めると朝いた小部屋に戻されている。
身体からは微かな悪臭はしていたが、汚泥や蛆は洗い流され、寝台には清潔な服が置かれていた。
それらを見て、なるほど、と頷く。
人間は、環境に慣れる。まして、悲壮感だとか決意だとか覚悟だとか、そういう意志に支えられていると、酷い目に合えば合うほど、己を奮い立たせ、折れない。
もしくは壊れる。何も感じない人間は、痛みや屈辱に無反応になる。無論、言葉を発することもなく、大抵はすぐに死ぬ。
ならばどうするか。緩急をつけるのである。
拷問が苛烈なほど、合間に「人間らしい扱い」を挟む。
そうすると、最初は「拷問の終わり」を願っていた人間が、「拷問の始まり」を恐れるようになる。
いつ、ここから出されて、あの地獄のような拷問を受けるのか。
もしかしたら、次はもう、この部屋に戻されないかもしれない。
そうなれば、恐怖は鋼の心をも蝕み、折り曲げる。
けっして誰にも負けない剛の者でも、己に勝つのは難しい。
「これは…拙いぞ」
実際、マルコも目覚めてこの部屋にいて心底ホッとした。
今日はわけもわからずだったが、明日は取り巻きが来れば拷問再開だと学んでしまっている。その顔を見て、怯えない自信はない。
気を失えばあの部屋に…と思って、次に目覚めた時に地下牢のままなら。
いや、明日くらいはまだ何とかなるかもしれない。だが、それがもう数日続いたら。
この部屋から出されるくらいなら、何でも言うことを聞くと懇願している自分が見えた。
「嫌なやり方を知ってやがるな…クソ…」
宙づりにより鬱血した手首を、マルコは見つめた。
生まれて初めて抱いた、朝が来る恐怖。
それを自覚してしまったことに、怯えながら。
次の日は、昼過ぎまで小部屋から出されなかった。何度も取り巻きは声を掛けに来て、マルコの顔に怯えが走るのを見てゲラゲラと笑って嘲る。
もしかして、今日の拷問はそれかと思っていたら引き摺りだされ、鉄製の狭い箱に押し込められた。上は僅かに開いているから呼吸はできるが、身体を動かすことは一切できず、さらに水が注がれては抜かれる。
溺れる恐怖と苦しさは、二日間の水責めでたっぷり味合わされている。身体を何とか揺すり、顔を上にあげ、どうにか呼吸をしようとする顏を、取り巻きだけでなく大隊長も見に来て嘲笑った。
意識を失えず、朦朧としたまま引き摺られ、あの小部屋に戻った時は、安堵のあまり泣いた。
泣きながら、もう自分がかなり危うい事を冷静な部分で自覚する。
その部分が、必死に藻掻きながら叫ぶ。
明日、明日一日、耐えよう。
明日が終わったら、自決しよう。二太子を書類上とは言え穢すくらいなら、死んだ方がましだ。
そうすれば、楽になる。楽になれる。
泣きながら決意し、へらへらと笑う自分など、ほんの三日前には想像すらしていなかった。
なので、マルコはその三日前の自分が考えていた事すら忘れていた。
三日耐えれば。
きっと、事態は動く。そう、判断したことを。
***
「なあ、良いことを教えてやろうか」
大隊長は顔を大きく歪めて笑う。
宙づりにされ、砂を詰めた袋で殴られた後、息も絶え絶えに床に横たわるマルコを見下ろしながら。
「お前がな、うんと言おうと言うまいと、もうどうでもいいんだよ。ご苦労さんだったなあ。痛い目見て、あんなにお出かけしたくないでちゅ~って駄々こねたのに。無駄だったんだよ」
何を言っているのか、とぼんやり見上げる。
今朝は、随分早くから取り巻きがやって来た。
全力で抵抗したものの、一日ひと椀の粥と柘榴だけしか食べていない手足に力は入らず、嫌だ嫌だと喚きながら引き摺られていった。
「…むだ…」
「ああ、そうさ。しかし、意味がわからん。いくらヤルクト氏族のおぼっちゃまとは言え、あったこともない外暮らしをそこまで庇うんだか」
力の入らない思考が、ぼんやりと答えを紡ぐ。
だって、彼は二太子で。
アスランの王族で。
忠誠を誓った御方で。
そして。
「…たみ、を」
「あん?」
「たみを、まもり、ほうに、そむかず」
民を護り法に背かず。
「しんめいを、ささげ」
身命を捧げ。
「忠誠を、誓う」
二太子だとか、ヤルクト氏族だとか、その前に。
あの少年はアスランの民。
マルコが身命を捧げて忠誠を誓った、大アスランの民だ。
「は!騎士の誓いか。ご立派な事だがな。それで無駄死にしたら意味もねぇ。まあ、お前程度の奴が生きていても大した意味はねぇんだし、その誓いなんつう、銅貨一枚の価値がねぇもんも意味がねぇ」
価値だの意味だの、そんなものにそれこそ何の重みもない。
結局、大隊長はマルコの心を折れなかった。
こんなことを言うからには、マルコの「自供」は不要になったのだろう。
ならきっと、この後自分は殺される。簡単な事だ。このまま地下牢に転がしておけば、朝には衰弱死している。
何せ、もう、自分は生きようとする気力がない。こうなったら死はすぐそこだ。
それくらいは、経験の浅い衛兵だって知っている。
「マルコさん!」
けれど、その微睡のような諦念は、響いた声に弾けた。
なんとか顔を起こしてみれば、取り巻き共に囲まれてこちらを見ている。
満月色の、双眸。
「おい!どういうことだ!言う事を聞けば、マルコさんを解放するって言ったじゃないか!」
「ああ。解放してやるとも」
なんという事だ。
少年の後ろには、彼よりも幼い少女もいる。
少し波打つ黒髪はまだ短く、ヤルクト氏族の習慣を守っているなら、七歳から伸ばし始めたばかりなのだろう。
「こいつはお前と組んで犯人を入れ替えて報告しようとした。それがバレると、お前を殺して逃げようとした。なんで、俺様は泣く泣く部下を斬った」
「…それは、本気で言っているのか?」
「お坊ちゃん。抵抗すんなよ?その後ろにいる妹ちゃんが、コイツと同じ目にあいたくはないだろ?」
「わたし、妹じゃないです!失礼な!こんな虫ばっかり集めている兄はいらないです!」
可愛い声が、猛然と反論を述べる。
その声に怯えは一切なく、ただ純粋に憤っていた。
「…アカリ」
「なんです?というか、あの方、助けた方がいいとアカリちゃんは思うのですが!」
「そうだな。こんな馬鹿と話していても腹が立つだけだ」
もちろん、二太子に…ファンが怯える様子は欠片もない。
まっすぐに大隊長を見る双眸には、真冬の月と同じ冷たさが宿っている。
「けど、ひとつ教えてやる。お前は間違っている。誰かが何かを為すのに、意味がないなんてことはない。お前の悪事が、お前の破滅を招いたようにな」
「な…このクソガキ!殺す前に、大人に対する礼義ってもんを教えてやらねえと!!おい、お前ら!さっさとそいつを縛り付けろ!」
大隊長の怒声が地下牢を震わせる。
だが。
「おい?」
取り巻き達は、動かない。
子供二人とは対照的に、マルコの霞む眼でもわかるほど震え、涙と鼻水を垂らしている。
「何やってんだ!!お前らまでバラすつもりはねぇが、もたもたしてんなら…」
取り巻き達を怒鳴りつける声は、途中で尻蕾に消えていく。
それは、地下牢に続く階段から聞こえる、重厚な足音。そして、狭い通路を塞ぐように現れた巨漢の存在の為だろう。
厳つい顔には皺が刻まれ、頭頂部だけを長く残して編まれた髪は灰色に色褪せている。
しかし、彼を年寄りだと侮るものはいまい。
佇まい、気配、眼光の鋭さ。
それら全てが、彼をまだ現役であると教える。
年月によっても衰えさせることが出来なかった巨躯は、騎士服に覆われていた。
その胸元には、金色に輝く狗を模した徽章。
それが何を意味するか、アスラン軍の端にでもいれば、わからないはずがない。
「あ…ひ…」
大隊長の口から洩れるのは、すでに声ですらなかった。
がくがくと震える足は主の体重を支えることを放棄し、マルコの横にべしゃりと尻をつく。
「ほう、わしが誰かくらいは理解する脳味噌はあるか」
「ヤ…ヤルトネリ閣下…?」
「おうよ。このわしは十二狗将が一人、ヤルトネリ。だが」
老将軍の眼光が鋭さを増し、空気が震えたような気さえした。
「こちらにおわすは、ファン・ナランハル・アスラン様なるぞ!!どなたの前で無様に尻をつけておる!!平伏せよ!!」
「いいよ。ヤルト爺。そんな時間がもったいない。アカリ」
「はい!」
とててて、と軽やかにアカリと呼ばれた少女が駆け寄ってくる。
小さな掌が、散々痛めつけられた腹に置かれた。その柔らかさに、なんだか茫然としてしまう。
「痛そうです。おかわいそうに…」
「あの…汚い、し、その、俺、今、裸…なので」
服は、吊るされた時に剥ぎとられた。金の瞳からして、おそらくこの少女は二太子の近しい親族だ。たしか、陛下の従弟でもある宰相スバタイ閣下には、ご令嬢がいらしたはず。
その身分からしても、数日風呂にも入れていない、薄汚れた身体に近付かれるだけでも不敬であるし、小さくても女の子に男の裸を見せるのは良くない。
「お気になさらず!むしろ、がっつりと見せていただきます!」
「アカリ!」
「もう、若はうるさいですね…」
言葉通り、しっかりとマルコの身体を見据えながら、アカリは両手を胸の前で合わせた。
「偉大なる法の守護者、大いなる天の声たる雷帝リューティン。かのものの身体を損なうもの、其は不法なものなりと我は訴える…」
ふっくらとした掌の間に、白く眩い光が生まれていく。
それはやがて、アカリの右手に集中した。
「参ります!神気注入!!」
「ぐはっ!!」
思いきり腹に拳を叩き込まれ、肺から空気が飛び出た。
どう考えても、「小さな女の子」の拳の威力とは思えない。
「な、何!?何が!?」
「雷帝様の御力です!」
むふーとアカリは満足げに息をつき、衝撃で跳ね起きたマルコの身体をがっつりと見据えた。
「ふむ…いいですね」
「何がいいんだよもう…。すみません、マルコさん。アカリはちょっと、その…」
「ま!いやらしいことを考えましたね!?アカリちゃん、治癒の効果に満足しているだけですよ!!」
「嘘つけ!」
「あ…あれ?どこも痛くないし、なんか、元気になってる!?」
「雷帝の御業です。何故か、殴ったり叩いたりしないと駄目らしくて…」
羽織っていたマントを脱ぎ、マルコにかけてくれながら、何故か困ったように、言訳のようにファンは説明した。
「雷帝様は、ただ癒されるなどと言う甘えは許さないのです!」
「嘘みたいですけど、本当の事で…。そもそも、雷帝神官で癒しの御業を授かっている方が珍しいんですけどね」
「ふふふ。七歳で祭祀官になったのはお父様のお名前だけではありませんよ!」
祭祀官と言えば、重要な儀式に参加することが出来るうえ、信者に依頼された儀式を取り仕切ることが許される階級だ。まだ成人前の…と言うより、子供がなれるようなものではない。
雷帝神殿では、階級を上げてよいかどうか、雷帝の意思を問う。そこで雷帝が「よし」としなければ、王族だろうと道士見習いのままだ。
まじまじと、マルコは自分の身を眺めた。痛みはどこにもなく、強いていればまだ嵌められたままの足枷がきついくらいである。
砂袋で殴られると見た目にはわからないが、内臓がやられる。しかし、その兆候もなければ、体力すら全快していた。
間違いなく、強力な御業だ。マルコもアスラン人らしく雷帝信者だから通りが良いというのもあるにせよ、これほどの御業を使える神官はそうはいないだろう。
「ありがとうございます。アカリ様」
「むふふ。大変素直でよろしいですね!若も見習うべき!」
「いやしかし、お見事にございますな!アカリ様!」
「爺も大変素直です!もし、爺がお怪我をしたら、アカリちゃん、ばっちり治しますからね!隠さないで教えてくださいね!」
「おおおお!!なんと、何とお優しい!!」
いきなり両眼から涙を噴き出した老将軍に、マルコはちょっと怯えた。
「えっと、身内が濃くてスミマセン…」
「いえ、そのお…生きる武勲詩のようなヤルトネリ将軍にお会いできて、大変に光栄デス…」
「ありがとう…穏便な表現にしてくれて…。あ、おい、そこの。彼の戒めを解け。すぐにだ」
マルコに向けていた声とは打って変わって、背骨をぴしゃりと打ち据えるような厳しい声。
その声に打たれ、もたもたとした動きではあったが、取り巻き達が動き出した。震える足を無理に進め、がくがくと揺れる手で鍵を取り出す。
しかし、何度も床に鍵は落ち、しまいには拾う事さえできないようだった。
「あ、自分で外します。この足枷、色々ぶっかけられて汚いから、お手を触れないように…」
「ほう!何を何をぶっかけられて!?」
「アカリ、爺のとこ行ってろ!」
「失礼。心も傷付けられた方に、無神経な質問でした。ごめんなさい」
「あー、いえ、ほんと汚いもんですよ!腐ったゴミとか、そういうの!だから、触らないでくださいね!」
素直に頭を下げるアカリに、マルコは慌てて手を振った。しかし、謝罪はするものの、ファンの言うことを聞く気はないらしく、その場からガンとして動かない。
それはそれで気になるが…何せ、ファンが貸してくれたマントは夏用で、やや見せてはいけないものを隠すには心もとなかった…、マルコは床に落ちた鍵を拾い上げ、足枷の鍵穴に差し込んだ。
少し前まで、指先の感覚は何もなく、棒が手にくっついているようだったと言うのに、まったく遅滞なく動く。改めて、御業の威力に驚いた。
「マルコさん。本当にごめんなさい。もっと早く、気付けたら良かった」
「なにをおっしゃいますか!と言うか、俺なんぞに気をかけていただいていただけで、その、俺は…!」
「考えが甘かった。偶発的なものだから、見張りは良いって言ってしまったの、俺なんです。報告書だけどうなったか見ればいいって」
「アカリちゃんも一緒に、図鑑を取りに行ったんです。そしたら、お爺さんたちがあなたが帰ってこないって心配されてて」
「うむ。ナランハルとアカリ様によくよく感謝いたせよ。それですぐに、お主に何かあったのではとお考えになられてな」
隊長が帰ってこない。
そう聞いて、ファンが真っ先に危惧したのは、ボヒル商会の報復である。
しかし、衛兵隊長を拉致して害せば、間違いなく商会は取り潰し、商会長一族は処刑もありえる。そこまでの危険を冒すだろうか。
それが出来るとすれば、誰かを抱き込んでいる。では誰か。
衛兵隊長の拉致を「なかった事」にできるとなると、かなりの権力者だ。
しかし、逆に考えれば、それだけの権力を持つものが、さして大きくもない商会の言いなりになって、危険な橋を渡るだろうか?
せいぜい、犯人である息子を「奴隷落ちさせた」として、見逃す程度だろう。
学問の基本は、わかっているところから始める事だ。
マルコが確実に居た場所から始めれば、きっと追いつく。
その為に必要なものは、生れた時から持っている。
ただ少しばかり計算違いだったのは、アカリがごく普通についてきて、帰れと言っても帰らなかった事だ。
もしかしたら、その人怪我しているかもですよ!アカリちゃんなら治せますよ!と言われて、そうかな…そうかも…と揺らいでしまったのも敗因だ。
結果として、アカリの存在は大いに役立った。もし、いなけれな、もっと連中は警戒し、いきなり拘束しようと襲い掛かってきたかもしれない。
大詰所に向かい、マルコの事を大声で問うと、困惑した顔で見てくる衛兵と文官、そしてニヤニヤと厭な笑いをしながらやってくる衛兵がいた。
そのニヤニヤ笑いの衛兵に連れられて違う部屋に入り、待つことしばし。
やってきた大隊長は、更に嫌悪感をもたらす…むしろ、吐き気さえ覚えるような笑みを浮かべて、「取引」を申し出たのだ。
つまり、ファンが言うことを聞けば、マルコを解放すると。
連れているその子供にも、何もせず帰してやる、と。
はっきりとは言わなかったが、マルコが監禁状態にあり、痛めつけられていることは察せられる。
さらに、取り巻きがアカリにじりじりと近付いてきていた。人質にとれば、ファンも動けなくなると思っての事だろうが、その顔にははっきりと子供を甚振り、泣かせることへの昏い喜びがある。
わかったと頷くファンに、大隊長は上機嫌で部屋を出て行った。取り巻きらに、もう少し時間をおいてそいつらを連れて来い、と言い残して。
その「もう少しの時間」を取り巻きはもう過ぎたと判断し、ファンたちを連れ込んだ部屋の扉を開け。
扉の前を完全にふさぐ形で仁王立ち、激怒するヤルトネリに対面したのだった。
「不埒者が逆恨みを抱き、御身に仇を為さんと狙っておるやもと、こっそりついてきたかいがありました」
「全然気付かなかったよ。爺、めちゃくちゃ目立つのに…」
「アカリちゃんもです!」
「このヤルト爺、老いたりと言えど気配を消す程度、造作もございませぬ」
得意げなヤルトネリ将軍の後ろから、この詰所の衛兵に先導され、騎士服に身を包んだ一隊が現れた。
大都守備隊の騎士だろう。全員が糸に引かれたように片膝をつき、二太子とヤルトネリ将軍に礼を送る。
「こやつらを捕えよ。監察官にはよくよく言っておけ。温い尋問をするようならば、このわし自ら乗り込むぞ、と」
「監察官の面子にかけて、何歳までおねしょをしていたかまで聞きだすでしょうね」
「ふふ。ジョランの奴には、報告書を直接持って来いと伝えてくれ」
「承知いたしました」
取り巻き達は騎士に手鎖を嵌められても無抵抗だった。「命じられて仕方なく」「やらなければお前も拷問するぞと脅されて…」などと口走っているが、その言い訳に、騎士が耳を傾けている様子はない。
ああ。助かった。
それを見ながら、マルコはようやくその事に気付いた。
もう、水に漬けられることも、溺れさせられる事も、吊るされることもない。
ほんの少し前までの、当たり前にあった日々に戻れる。
「あぶない!!」
「いたっ!?」
双眸に涙が盛り上がりかけた瞬間。何故か、アカリの平手打ちが頬に炸裂した。
「アカリ!?」
「その、一瞬気を抜いた瞬間が、一番危険なのです!安堵で気が緩み、そのまま壊れてしまう方がおりますので!喝をいれました!アカリちゃん、えらい!!」
「え、あ、あー、あっと、ありがとうございます…」
ああ、確かに。今、かなり危険だった。
ぶわりと心に広がったものは、きっと安堵とか安心と言う感情だったけれど。
あまりにも強すぎて、何もかも吹き飛ばしていく嵐のようで。
それに身を任せていたら、本当に壊れてしまっていたかもしてない。
これはもう、雷帝神殿に次の俸給全額お布施しないと。
そう決意して、なんとか気を引き締めなおした時。
「クソがあああああ!!!」
大隊長の手が、アカリに向かって延ばされるのを、見た。
「!!」
考えて、動けたわけではない。
ただ、身体はすべきことを為していた。
立ち上がりながら突き出される大隊長の腕を弾く。そして。
崩れた態勢の、無防備に晒された顔に向けて、拳を放っていた。
肉が潰れ、骨が砕ける感触が拳に伝わる。
その一瞬後、大隊長は吹っ飛び、壁に叩きつけられて地下牢を揺らした。
藻掻く大隊長に騎士が疾風のように駆け寄り、容赦なくその膝に槍の石突を突きこむ。
濁った悲鳴は、四回大きく響いた。両膝と両手首を砕かれれば、もう動くことはできない。
「申し訳ございません!油断いたしました!」
「いや、俺もあそこで動くとは思っていなかった。気にしないでくれ」
「ええ!私なんともありませんし!マルコさん、ありがとうございます。アカリちゃんに何かあれば、アスランの大いなる損失ですからね!」
小さいとは言え、アカリはアスラン王族の血を引くお姫様だ。
騎士として、姫君に感謝されて光栄に思わないはずがない。
「我らからも礼を言おう。マルコ衛兵隊長」
「いえ、なんかこう、身体が勝手に動いただけです。アイツに恨み骨髄でしたしね」
「そうか」
騎士はニコリと精悍な顔を緩ませ、それから少し、困った笑みに変えた。
「時に、良ければこれを。その…」
「へ?」
差し出されたのは、騎士が身に着けていたマントだ。
足元を見れば、先ほど二太子からお借りしたマントがぺしゃりと広がっている。
「アカリ様。男にも、羞恥と言うものがございますれば」
そして、アカリがじっとマルコを凝視していた。
***
それからたっぷり一月ほど、マルコは休養を貰った。
その間のほとんどを、王宮の外宮にある療養所で過ごしたのは、不調や後遺症がないか診察する為であり、マルコを隔離する為だ。
衛兵大隊長が賄賂を受け取って犯人と、犯人を取り押さえた勇気ある少年を入れ替えようとし、それに反対した衛兵隊長を監禁、拷問まがいの事をした…という醜聞に、多くの読売が飛びつき、大都の人々は競ってそれを読みふけった。
監禁された衛兵隊長に話を聞こうと、普段物静かな学者通りには人が詰め掛け、マルコの詰所は一時閉鎖。他所から応援を呼んで記者と野次馬を散らす日々が続いている。
その攻勢からマルコを守り、ほとぼりが冷めるまで隔離しておこう…と言うのが、今回の療養の大きな目的である。
実際、突然涙が止まらなくなったり、逆に笑いすぎて呼吸困難になる…などの症状が出た状態で、同情の仮面をかぶった質問攻めには耐えられなかっただろう。
療養所には練兵場もあり、武器や体術、馬術師範もいる。改めて教えを請い、鍛錬をし直すことは、精神の安定にもつながった。
約束の一月をもうすぐ終える事には、すっかり後遺症も落ち着き、数日に一度、悪夢にうなされる程度まで回復している。
実戦訓練での上官だったアラカンが訪ねてきたのは、そんなころだった。
「おう。生きてるな」
「え!?将軍?」
午前の日課になっていた鍛錬を終え、与えられた自室で寛いでいると、来客が告げられた。
自力で歩ける患者の場合、面会は応接室で行い、部屋まで来ることは禁止されている。だからマルコも、郷里からすっ飛んできた両親や、老衛兵らと会う時は応接室を使っていた。
なので、看護官に連れられてアラカンが自室に入ってきたとき、マルコはてっきりアラカンも負傷して療養所に入所したのかと慌てたのだが。
そろそろ引退も考える年齢とは言え、その所作や顔色に衰えは見受けられない。まして、負傷や病に弱っているようには、到底思えなかった。
「少しばかり内密な話でな。通してもらった」
「はあ…あ、どうぞお掛けください」
慌てて椅子座布団を譲り、自分は絨毯の上に直に座る。
看護官が一礼して出て行ったのを見た後、アラカンは頷いて腰を下ろした。
「申し訳ありません。お茶とか、そのあたり用意してなくて…」
茶が飲みたければ、食道に行けばいつでも用意されていた。暇なので誰かと話したいという欲求もあり、自室で茶を啜ることはほとんどない。
「あ、水ならありますけど」
「いらんいらん。そう長居するつもりはないでな」
そう言いながら、アラカンは持っていた包みをマルコの前に並べた。
かさばっているが、重たそうではない。
とは言え、アラカンは剛力で知られる騎士でもある。見た目より、かなり重い可能性は捨てきれない。
「長腕」と異名をとるこの千人長は、一介の兵士から千人長にまで上り詰めた人だ。
厳しいが気さくで、はじめての実戦に右往左往するマルコ達によく声を掛けてくれ、話を聞いてくれていた。
千人長と言っても、実際には千人の指揮を単独でこなせず、その上の万人長の出した指示に従う事しかできない「お飾り」もいる。
だが、アラカンは単独で軍を率いて動かすことのできる「将軍」であり、先代の頃から国内外に知られた名将である。
先日まで学生だったひよっこ共にとっては、雲の上、本の中の人だ。そんな人が、厭いもせず声を掛けてくれ、教え導いてくれたことは、今でも強く感謝の念になって残っている。
「この度は、災難だったな。しかし、またお前の悪い癖が出た」
「悪い癖…ですか?」
「うむ。訓練の時から言っていたがな。お前は自分を低く見積もりすぎる」
「え…そう、ですかね?」
「最初に連れ込まれた時、全力で抵抗しておれば、容易く突破できたろう?」
そう言われて、マルコは言葉に詰まった。
実際、大隊長もその取り巻きも、人を容赦なく殴れるだけで強くはない。それは最初の一発を食らった時に、すぐ分かった。
「抵抗すれば、部下を連れてくると言われて…」
「あれだけ人望のない大隊長の言と、お前の訴え、皆、どちらを信じると思っておる。都市衙にでも駆け込めば、即座に捕縛隊が動いていたわ」
「けど、若造の衛兵隊長の話を信じてくれ…」
「馬鹿もん。だからお前は自分を低く決めつけておると言うのだ。お前が赴任したどの詰所からも、返して欲しい戻してほしいと嘆願が出ているほどなのだぞ。それは、お前が築き上げたものだ」
アラカンの声は厳しいが、顔は柔和に微笑んでいる。
「それにな。アスラン軍は階級が下からの訴えだからと無視するなどという事はない。己もだが、もっと上を信じろ」
「…はい」
「お前がもし、あのまま命を落としていたら、お前の部下らは抗議の自決を辞さん勢いだった。それにだ」
柔和だった顔が、声に相応しく厳しい表情に変わる。
鋭い灰色の瞳に見据えられ、マルコは動きを封じられた。
「ナランハルが、どれだけご自分を責められるか。軽率に、己だけが耐えれば良いだのと判断するな。己だけが痛いのだと思い込むのは、ある意味、とんでもない思い上がりぞ」
「思い上がり…」
「そうだ。勝手に目を閉じ、悲運に酔うな。何ができる、何をしなければならないと、常に問い続けよ。それが将たるものの心得であると、教えたはずだ」
「はい…確かに、教わっていました」
その時は、自分が「将」と呼ばれる身分になることはないと、話半分にしていた…と言うのは、心の奥底にしまっておく。
アラカンは気さくだが、怒る時は恐ろしいのだ。
「もう、忘れるんじゃないぞ。さて、説教はこの程度にして、本題だ」
そう言って、床に置かれた包みに視線を送る。
「こちらは、今までお前が着ていた騎士服だ。一着駄目になったからな。新しく支給された」
「あ、それはすごく嬉しいです」
「もうひとつは…解いてみろ」
「はい」
言われた通り、もうひとつの包みに手を伸ばし、結び目を解く。
広がった布の上に鎮座していたのは、同じく騎士服だった。
ただし、黒を基調に赤を差し込んだ騎士服である。
その上で鈍い輝きを放つのは、鴉を象った徽章。
「将軍!こ、これって!?」
「見ての通り、紅鴉親衛隊の騎士服よ」
呆然と、マルコは艶やかな黒と鮮やかな赤を見つめた。
それは、あの日見た二太子の瞳の色とは似ても似つかなかったけれど。
胸に広がるのは、同じ温度の熱。
この方に仕えたい。お役に立ちたい。何か小さくても、些細でも、自分にできたなら。
「ナランハルは、お前に迷惑を掛けた故に、償いの気持ちで俺にこれを託したわけではないぞ」
「…はい」
「まあ、俺もな。先代様に命じられてな。親衛隊長を務めよと。さすがに荷が重すぎるから、それはお断りさせていただいた。ヤルトネリ将軍の孫である、ヤルトミク殿がもう少し経験を積めばいい。なに、ナランハルが成人されて三年以内に整えばいいだけの話だ」
親衛隊長は、仕える太子によっては十二狗将に匹敵する要職だ。
二太子が王位を継ぐことはおそらくないが、しかし、九代大王を支える王弟として、アスランの重鎮となることは間違いない。
「今のところ、紅鴉親衛隊の百人長としてヤルトミク殿、そして千人長に俺だ。だが、入隊が確定しているもう二人が厄介でな」
「厄介、ですか?」
「おう。クナン大公家のニルツェグ嬢と、オルダ大公家のジルカミシュ坊だ。お前は知らんだろうが、これがまあ、な」
くつくつと笑うアラカンは楽しそうで、口で言うほど厄介だと思っていないことが知れた。
クナン大公家もオルダ大公家も、名家中の名家である。しかし、アラカンがこんな顔をするからには、きっと良家の子女子弟ではないのだろう。
「星龍親衛隊と違い、紅鴉親衛隊はお行儀がなっちゃいないのも受け入れておる。親衛隊の選抜は最終的にナランハルが行うんだが…ずいぶんと面白い眼をお持ちらしい。最後の御奉公に、お支えさせていただきたいと思っちまうほどにな」
「…何故、俺なんでしょう?」
親衛隊に入るには、まず公募に自薦他薦問わず挙手し、その後厳しい選抜を潜り抜ける必要がある。それだけに、親衛隊騎士は精鋭中の精鋭が集まってくるのだ。
だがそれ以外に、主たる太子本人が抜擢したり、や百人長以上が推挙することでの入隊もあった。
親衛隊長や千人長候補は、ほぼそうやって決まる。アラカンや名前の上がった三人は、そちら側だ。
その、「特別な側」にマルコのようなパッとしない元衛兵を入れる意味が分からない。
「意味なんぞ、後からついてくる」
「後から…」
「そうだ。お前が武勲をあげるなり、忠誠を示すなりすれば、さすが二太子よ鷹の眼をお持ちだ、と言われる」
誰かが何かを為すのに、意味がないなんてことはない。お前の悪事が、お前の破滅を招いたようにな。
あの日、二太子はそう言っていた。
それと同じなのか。今はただの酔狂に過ぎなくても。
その意志が招くものが、これから意味を持ってくるのなら。
そして、その意味を付け足すのが、自分の行いであるのなら。
「犬は来た道を振り返るっていうだろ。どんなもんもな、後から見れば意味が勝手に見えて来るもんだ」
音もなく、動作の遅滞もなくアラカンはすいと立ち上がった。
「邪魔をしたな。ここを出る三日後、どっちの騎士服を纏うか決めておけ」
「…はい。承知いたしました」
そう答えるマルコの意識も視線も、アラカンへと向いていない。
それを失礼なと不快に思うことはなく、老練な将軍はむしろ口の端を持ち上げた。
***
「旦那さん、着きましたよ~」
「んあ?あ~。ありがとうさん。おいくら?」
馭者に賃金を渡し、マルコは客車から外に出た。
大きく伸びをして、強張った手足をほぐす。
ずいぶんと、懐かしい夢を見た。
あの頃は、もっと自分は善良だったなあ…などとしみじみ思ったりもする。
三日後、マルコは紅鴉親衛隊の騎士服を纏った。
悩んだ末に…と言えば、嘘になる。たぶん、あの赤と黒を目にした瞬間から、マルコは進む道を決めていた。
犬は来た道を振り返る。羊は真っすぐに進む。
それは、賢い犬は後ろを振り返り、過去を思い出す…つまり、過去と現在が繋がっている、馬鹿な真似をすると後々まで祟り、地道に励めば進む道は明るくなる、と言う教えだ。
あの日、心臓は破裂しそうな勢いの鼓動を刻み、手足は震えた。それでも、マルコは鎧のように重く感じる騎士服を、脱ごうとは思わなかった。
その震えながら選んだ未来。きっと、何万回繰り返しても、自分に相応しいと思っていた、「衛兵さん」には戻らない。
その後、ファンの初陣にも付き従った。暗殺謀略とも戦った。
気が付けば、あの頃絶対に無理だと思っていた、千人長の証である銀の徽章は胸に輝いている。
結局、色々あって、アラカンは親衛隊長の任を引き受けた。
ニルツェグとジルカミシュが予想以上の「仕上がり」になった事。
新たにファンが連れてきたアミールがかなり「面白れー奴」だった事。
そしてマルコが自己評価の低い諦めの良い男では「なくなった」事…それらひっくるめて、ヤルトミクに押し付けるのはまだ早いと判断したようだ。
その決定を一番喜んだのは、他でもない、当のヤルトミクである。
溢れる将才を生まれ持って磨き上げてきたわりに、あの御仁、できれば一介の騎士でありたいらしい。
まあ、それは叶わないだろう。いずれ親衛隊長から十二狗将になるのは目に見えている。それこそ、来た道を振り返ってもらいたいものだ。
あんなに努力して活躍して、それはちょっと虫が良すぎる。
親衛隊の皆以外も、色々だな…と、マルコは記憶からぽこぽこと湧き上がってくる思い出を楽しみながら、足を進めた。
ボヒル商会は賄賂を送り罪を捏造させたとして、商業許可が取り消された。
その身代は、大都でも有数の大商会であるスフバ商会が買い取り、それを聞いたマルコは結構驚いたものだ。
元凶とも言える商会長とその母も含めた、一族全員もスフバ商会で雇うと追加で聞いて、開いた口がしばらく閉じなかったのを思い出す。
スフバ商会は、徹底した実力主義で知られる。
結果を出せば、路地裏で生まれて拾われたような子でも店を持たせ、独立も支援する。そうして、どんどんと身代を大きくしていった商会だ。
そんな商会が、どう考えても使い物にならないボヒル商会の元商会長とその母…さらには、あの次男坊も雇い入れる意味が、それこそわからなかった。
ただ、その後。遠征に従軍したり、フフホトの治安維持を任され、変なおっさんの踊りを日夜見たりして大都に戻ってきて、マルコはその意図を知った。
スフバ商会が欲しかったのは、ボヒル商会の販路と長男モンフ、そして老舗の商会の娘である、その母チムゲだったのだと。
元商会長とその母親、次男は半年も立たない間に「能無し」と判断され、僅かな金だけ渡されて放逐されたようだ。
しかも、真冬の大都である。彼らがどうなったか、想像するしかないが…そこでその僅かな金を元手に、身を起こそうなどとはしなかったのだろう。
大隊長は準王族を害そうとした罪で、「本当に偶発的なものか」たっぷりとおしゃべりさせられた後、獄死している。
それが意図したものなのかは不明だが、宰相直々に尋問を見学に来られた後の出来事だそうなので、何かあったのだろう。「おしゃべり」の達人である監察官が、うっかり相手を殺してしまうことなど、おそらくない。
取り巻き達は鉱山奴隷として南フェリニスへ送られた。その後どうなったのかは、マルコは何も聞いていない。
恨みがないわけではないが、散々苦労した後、反省してひっそり生きているくらいは許せる。
そこまで思い出したところで、紅鴉府が見えてくるあたりまで到達した。
そろそろ、日勤の武官や文官たちが帰宅する頃合いだ。通行人は多く、皆、今日の疲れを顔に乗せながらも、開放感を漂わせている。
紅鴉府を出る前のマルコなら、その解放感に「羨まし…くない!」などと内心で抗っただろうが、馬車の中でぐっすり寝た今は、穏やかに見送ることが出来た。
「あ…」
その人々の群れの先。紅鴉府の前。
纏っているのは、三年ほど前に流行った型の外套。毛皮の帽子は古ぼけ、外套の裾から覗く長靴は泥にまみれている。
道行く人々は、誰も彼を気にしない。紅鴉府から私服に着替えて退勤する騎士程度と思っているか、軍馬を売りに来た遊牧民と見ているのだろう。
「何やってるんです?寒いでしょう」
「マルコを待っていたんだよ。行き違いになるといけないと思って。まだ中で仕事するか?」
ファンに問いかけられ、マルコはしばし考えた後、頷いた。
まあ、マルコを呼びに来た騎士が、ファンに報告しないわけはない。
「じゃあ、中へ入ろう。確かに寒い」
「はーい」
マルコの執務室は、紅鴉府の二階にある。当たり前のようにそこへ向かうファンに、古参の騎士や文官らは「お疲れ様っス!」と笑顔で挨拶して帰路に就いていた。しかし、そこまで染まっていない新人たちは、直立不動で礼をとる。
いくらこんな恰好をしていても、さすがに紅鴉親衛隊に属するものは顔で見分けがつく。慣れ染まっていないうちは、肝を冷やし驚くのも仕方がない。
この国の王族の方々は、「如何にも!」と言う恰好でいてくれる方が少ないのだ。
諦めて、慣れて欲しいものである。
「で、クロムは?」
執務室に入ると、その途端に予想していた問いが発せられた。
「別に悪さをしてはいませんよ。ちょっとばかり頬に掠ってしまって、ぶすくれてましたけど」
「暴れたウロフの侯爵を取り押さえたんだろ?別に内緒にする必要もないと思うんだけど。何か、隠してたりする?」
「ナランハル。いいですか?クロムはへそ曲がりで面倒くさい性格です。貴方以外を身を挺して守ったことで褒められるの、照れくさいんですよ。ほら、若い頃って、闇とか影とか、ちょい悪の方が格好いいって思ったりするでしょ?アレがまだ、終わっていないんです」
「ふーん…」
そういうもんかあ?と首を捻るファンに、そう言うもんですと頷いておく。
「さて。ナランハル。四夫人方面から文句が来た場合は?」
「武器を持って往来で暴れた罪は、連座に値するっていってやれ」
「御意に」
あっさりと切り捨てた一言に、マルコは恭しく一礼した。
この方は、こういう時に本当に迷わない。
もし、四夫人と揉めれば、先日の元二夫人の件も合わせて、ご自身を攻撃する材料にされるかもしれない。
だが、それがどうしたと気にも留めずに判断する。
もし、その懸念が事実になったところで、まっすぐにクロムは成すべきことを為しただけだと御答えになるだろう。
それが口角を持ち上げるほど嬉しいのだから、マルコはクロムを笑えないなと自嘲した。
「あ、そうだ。マルコ。ガラテアさんに部屋で使ってもらう食器とか、茶器とかさ。注文したんだよ」
「おや、ナランハルにしては手早い」
「ばあやにせっつかれて」
「女官長殿、ものっ凄い張り切っておいででしょうなあ」
「うん。それでさ。ばあやがここのが良いって言ってきた店はね、モンフ商会って言うんだ」
「おや」
繁盛していると聞いていたが、王宮で使うものまで…まして、二太子夫人と言う、今一番旬の御方が使用するものを任せられるとは。
ファンが推したのではなく、女官長が決めたのであれば、実力だ。この話が大都に広まれば、予約必須の超人気店になるのは決定したようなものである。
スフバ商会の目利きは大したものだ。
今後、「同じような見た目で安いもの」がスフバ商会のあちこちの店で扱われるようになり、それらは大きな利益になるに違いない。
「あの時、床に倒れているマルコを見た時さ、心臓が口から出るかと思ったよ」
「出さないでいてくれてよかったですよ~。おじさん、危機一髪でしたからね」
「本当、生きててくれてよかった」
「あれほど痛い思いしたことはありませんが、でもねえ。衛兵隊長時代の十倍はお給料頂いてますし、まあ、それに」
何万回振り返っても。
きっと、自分は同じものを見るだろう。
震える手で、黒と赤の騎士服を纏い、鴉を象る徽章を胸に飾る自分を。
「今、生きてて楽しいですからね」
マルコの言葉に、その楽しさを与えてくれた主は。
あの頃と変わらない満月色の双眸で、笑った。




