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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
84/92

幕間 犬は来た道を振り返る 前編

幕間の番外編です。読み飛ばしてもらっても本編に関係はありません。

 自分の事を「ごくありふれた」アスラン人であると、クロムは思っている。


 ユーシンあたりが聞けば、「そんなわけあるか!他のアスラン人に謝れ!!」などと叫ぶだろうが。

 もちろん、主に対する忠誠心や強さに対するこだわりなどが「ありふれている」とは、クロムも思っていない。

 そちらではなく、気質や価値観の方だ。


 すなわち、新しいものが好きで、流行り廃りに敏感。

 特に大都の民は「大都病《アスクウタサ》」と半ばあきれられるほど、顕著だ。


 身に纏う服や、鞄、靴に至るまで、季節ごとに買い替えるのは贅沢でも何でもなく、むしろ、何年も同じ服を着ている方が白い目で見られる。

 冬が終われば春物を買い、冬服は売り払う。夏が来れば春服を売って夏服を…と言った具合に、家の中にはその季節の服しか置かないというのも良くある習慣だ。

 もっとも、春や秋でも突然の寒波に見舞われることはあるから、冬服だけは常に一式置いておくのも、大都の「常識」であるが。


 もっとも、この習慣は流行り廃りとは関係ない。大都の家は狭い事が多いので、使わないものを処分して、部屋を広く使うための工夫でもある。

 古着は大抵そうやって二度三度と持ち主を変え、どう足掻いても襤褸布にしかならなくなると、燃料の材料となり最後まで人々を温め続ける。なので、決して無駄になるわけでもない。


 だから、咎められるような事は何もない。ファンはあまりいい顔をしないが、そもそも、どれだけ古着を貯めこんでも収納できる広い家があるから、そんなことを言えるのだ。そうクロムは反論したい。

 

 と言うか、服についてはファンがおかしい。なんでこの大アスランの二太子ともあろうものが、柄が奇抜すぎて売れ残って値下げされているような肌着を、何年も着ているのか。

 肌着だって、こんなに使われるとは想定外だろう。悲鳴をあげて裂けているのに、何故繕う。成仏させてやれ。

 そして、左右で色も柄も違う靴下を「靴脱がなきゃわかんないし、家の中なら誰も気にしないじゃん」などと抜かして履くのか。

 それも、元々対になっていたわけでもなく、相方がさすがに繕う余地もなくなって廃棄されたもの同士を。お互い、知らない者同士で困っているんじゃないか。相方のもとに送ってやれ。


 流石に式典や公式行事にはちゃんとしたものを身に着けていると信じたいが、なにせファンである。

 「一番汚れるところに絹製のお高いやつ着けるのは勿体ない」と襤褸切れをくっつけていても、さもありなんと納得する。引っ剥がして着せ替える覚悟はできている。

 不敬罪と言うなら、お前のその舐め腐った靴下の方がよっぽど神々に対して不敬だろうが!と反論するつもりだ。


 ファンの事は置いておくとして、とにかく、クロムはそうした意味で、一般的な大都の若者の感性を持っている。

 服は毎年季節ごとに買い替えたいし、それに合わせた鞄や靴も欲しい。

 食べ物もそうだ。カーランのどこそこ地方の菓子が流行っていると聞けば食べたくなり、西方料理が今アツいと雑誌に書いてあれば、見掛ければ買ってしまう。


 買い物自体が好きなわけではないが、服を買うという行為が一切なかったアステリアで暮らした一年は、やはり物足りなかった。

 そもそも、交易と同じくらい紡績と染色、そして縫製を主要産業とするアスランと比較すれば、やはりアステリアに於いて服は高級品だった。

 服、しかも色形もパッとしないクロム曰く「だっせぇ服」を、一月分の食費と引き換えにするのは馬鹿らしい。

 

 ファンは気にせず西方式の服をあろうことか古着で購入していたが、何処の誰とも知れない男が来ていた服を、洗濯したとしても身に纏うのは絶対に厭だ。

 結果、アスランから持って行った僅か五着程度の服と、途中援助物資として届いた服三着を着まわした。

 それで秋から夏の終わりまで過ごしたのだから、褒められても良いだろう。


 その一年を終え、大都に戻ってひと悶着あって。

 絶対に取れと命じられ、家まで送られて突入した休暇。

 家に帰って最初の一日は、両親と過ごした。

 と言うか、お互いの状況を話していたら一日が終わっていた。


 そして二日目にあたる今日。

 クロムは朝と昼の境目くらいまで寝て、遅めの朝食兼早めの昼食を摂った後、ふと気付いた。


 今年の冬服がない。

 

 もちろん、旅の途中で買い求めた服はあるが、当然ながら丈夫さや防寒に重きを置いた実用品であり、街中を歩くのに向いた服ではない。

 去年の冬はアスランにいなかったし、一昨年の冬服はあるが、そんな周回遅れの服を着るのは嫌だ。

 

 ならば、買いに出かけるべきだろう。

 休暇の過ごし方としても、お手本のような行動ではないか。

 

 今年の流行については、ちゃんと確認してある。

 長城で宿泊した宿で雑誌も読んだし、少しばかり空いた時間にニルツェグにも聞いた。

 残念ながら、紅鴉親衛隊《ナランハル・ケシク》で流行の服装について話ができるのは彼女しかいない。


 今年の流行りは、本来着るよりも大きめの服、であるらしい。

 クロムとしては、服は出来るだけ身体に合ったものが良い。動きが妨げられるのも嫌だし、衣擦れの音がするのもうるさい。

 季節一回で買い替えるとは言え、好みに合わない服を態々買うのは、さすがにしないつもりだった。

 流行りが大きい服と言うだけで、別にいつものような服を着ていてもおかしいわけではないのだし。


 しかし、そうニルツェグと話していると「でもさー。うちはでっかめ外套買ったよ」と答えられた。

 ニルツェグは、身体の線がはっきりと出る服を好む。メリハリのある彼女には、確かにそうした服がよく似合う。

 

 「へぇ。ニル姐にしちゃ、珍しいっすね」

 「だってさー。でっかめの外套着てっとさ。暗器とか超しこめんじゃん。ゆめふわ系な服んときとかさあ、得物があわないってコト、あんじゃん?そゆとき、いいよ」


 それを聞いて、なるほど!と手を打った。

 実際、今のクロムは短剣をベルトに仕込んでいる程度で、小刀《ククリ》すら身に着けていない。

 『紅鴉の爪』もファンに預けてあるし、剣は自室に置いてけぼりだ。

 何せ、今日の服装に剣帯が合わない。もちろん、剣はもっと合わない。

 

 大都にはまだ二月近くいるのだし、同じような恰好で街を歩くこともあるだろう。 その時、自分だけならば良いが、ファンが同行するなら丸腰など言語道断だ。

 ファンは間違いなく丸腰のままで歩くので、守護者たる己がしっかりと武装をせねば。


 しかし、どうにも不釣り合いな武装をするのは嫌である。

 アステリアならともかく、ここは大都だ。どこぞかの田舎者に「変な恰好」などと指をさされたら、その指をへし折る。だが、そうするとファンが間違いなく怒る。

 なら、武装してもおかしくない服装にすればいいわけだが、それはそれで、不釣り合いな場所があるのだ。


 例えば、今、こうして歩いているこの通りとか。


 馬車道がない狭い道の両脇にずらりと並ぶ商店。売っているのは様々だが、この通りは特に服飾品が多い。

 店先に吊られている服は、いわゆる高級品《オートクチュール》や名牌品《ブランド》ではなく、既製品…それも大量生産の品だ。

 若者が乏しい給料なり小遣いなりで充分買える値段の、布の質も縫製もちょっとばかり微妙なものである。


 つまりは、金持ちが馬車で乗り付けるようなところではなく、けれど、服は買いたい。そうした層がやってくる場所だ。

 クロムが少々苛立つほど通行人は多く、冬の冷たい空気を跳ねのけるような明るさと活気がある。

 防寒の為ではなくお洒落の為の服を求め、ついでにちょっと外食して美味しいものを食べよう、もしくは、店を冷やかし歩いて、時間を潰そう…そう考えた人々が集まり、そうした人々向けの店が立ち並ぶ場所なのだから、暗くなるはずがない。


 安めの服を扱っていると言っても、それを買う層は「安めの服なら季節ごとに買い替えられる」程度の余裕がある人々なのだ。

 食うに困るような人間が近付く場所ではなく、かといって、物乞いに恵めるほどに金が余っているわけではないから、そうした連中も寄ってこない。

 つまりは、揉め事を起こすような連中がいないので治安が良く、立ち並ぶ店も真っ当な商売をしている区域だ。

 

 実際、クロムの周囲を行き交う人々は小綺麗で、武装しているのは時折すれ違う衛兵くらいなもの。遊牧民となんとなく判る青年ですら、短弓すら身に着けておらず、街中でも浮かない服装をしていた。

 こんなところに剣をぶら下げて入ってくるのは、臆病者か黒歴史生産中と言われても、認める以外に何ができるというのか。

 

 そして、大都の大半はそうした武装の必要がない場所だ。

 よほど夜遅くとか、祭りの後で酔っぱらいが大量生産されているなどでもない限り、大都は非常に安全な都市なのである。

 だが、だからと言って、暗殺者や身の程知らずのクソ共が、主の身に危害を加えないとは限らない。

 徒手空拳でもどうにでもする自信はあるが、相手が武器を持っていたら面倒だ。

 

 せめて、小刀を背にでも装着しておきたい。確かに、大きな外套を羽織れば十分に可能だろう。

 それ以外にも暗器帯を仕込んでもいい。なかなか、使えそうである。


 決して、思った以上に流行っているので、自分の好みを曲げてぶかぶかの服が欲しくなったわけではないのだ。そう、決して。


 約一年ぶりに訪れたこの通りは、ツェヴェル通りと言う。路そのものは名がつくような大通りではない。

 もとは工廠が立ち並び、そこで働く職人向けの寮や住宅が集まったところだったそうだ。

 モウキの治世になってすぐ、工廠は王宮内に移転した。そして代わりに誘致されたのが、若者向きの商店や飲食店である。

 それで、新人《ツェヴェル》の通り、と呼ばれるようになったのだ。


 東西に分かれていて、東は財布の軽い若者向け、西はやや値が張る店が多い。

 今、ぶらぶらとしているのは、もうすぐその境目となる路に入るところだ。

 外套はそこそこちゃんとしたものを買うつもりである。生地が薄いものはやはり防寒性に難があるし、いかにも安っぽく見える。


 それに…と、首巻の下で、クロムは口許を緩ませた。

 「これ、お前の一年間の俸給な」と渡された銀行の口座。それを先ほど確認してみたら、思っていた十倍以上の金が入っていた。

 そのうちのほんの一部を引き出しただけで、財布は過去最高に肥っている。


 もし、守護者は無給だと言われても、別にそれに文句を言うつもりはない。

 だがやはり、自分の働きが評価されるのは嬉しいものだ。その評価が、金と言うどれだけあっても困らないものなら、余計に。


 財布の厚みと欲しいものを考えれば、西側に行く方が良いだろう。そう思いながら、さらに足を進めた。


 居並ぶ店は、古着を扱っている店も多い。

 この辺りの店で売っているのは、本当に一夏一冬越しただけのものばかりだ。もしくは、店員に勧められて買って着てみたけれど、似合っていなかった…と正気に戻って売りに来たものとか。

 かなり質が良いものも、新品で買うより当然安い。視界に入ってきた中に、一昨年買おうか悩んで、諦めた靴を見つけた時は一瞬立ち止まりかけた。


 しかし、どんな足がつっこまれていたかわからない靴は、やはり嫌だ。

 クロムは自分の服を売るのは何とも思わないが、古着や中古品は絶対に身に付けたくない主義である。

 百歩譲って、良く知っている相手…ファンやマシロ、サモンのならば良い。洗濯してあるものなら貸し借りも普通にする。

 一番体形体格が近いのはユーシンだが…奴の服は絶対に匂いが染みついているので、断固拒否する。


 やはり、財布が肥えているのに古着や中古品を買う必要はあるまい。

 古着だって需要があるから売っているのだし、クロムが無理に買い上げて、財布の薄い誰かを泣かすこともないだろう。


 だから足を止めず、速度も緩めず、先へと進んだ。


 境になっている路の方が、ツェヴェル通りよりも広い。馬車道もある。

 しかし、大通りほどではないため、横断するための橋などはなく、 しばし馬車や馬の動きを見なければならない。

 ひっきりなしと言っていい程度には行き交っているが、渡りたい通行人が路の両端に列を作ると、速度を緩め、渡らせてくれるのだ。

 

 まだ、渡り待ちの人垣は薄く、ちらほらと三、四人と言うところ。せめてその三倍はいなければ、驢馬車ですら止まってはくれまい。

 そう判断し、クロムは道の端にある店が並べる、腕輪や耳飾りを見ながら待つことにした。


 凍傷予防に、温熱の陣を仕込んだ耳飾りはしているが、手袋を固定する腕輪も欲しい。

 アステリアに戻った時、金に困ったら売れるよう、魔導具ではないのが良い。

 高価なものでは盗品と疑われるかもしれないので、そこそこの値段で。

 アスランの、しかも大都で売られている意匠《デザイン》が、アステリアで理解されるか不安ではある。だが、まあ、売れないこともないだろう。


 何せ、主の「へそくり」は高価すぎて売るに売れない。

 本人は本気で売れると思って持ってきていたのだから、先に聞いておけばよかった。まったく、本当に育ちが良すぎる。

 庶民が一生働いても、触ることはおろか、見ることもできないようなものに囲まれているから、それがどれだけの高価なものか、理解していない。


 ファンが自分で買ってきたか、后妃《ははおや》が買ってきたもの以外は、基本的に超一級品ばかりである。身分的には当然ではあるが。

 あまりに見るからに高級品だと受け取らないし、使わない。だから、ファンへ贈り物をするときには、本当に安物を贈るか、見た目は地味であまり高価に見えないものを選ぶのが、周囲の共通認識だ。


 アステリアに行く前、「タイ叔父さんから貰ったんだ。買ってみたけど、自分で使うには若すぎるって」と言いながら見せてきた肩掛け鞄は、大通りの超高級店の新作だった。

 見た目はシンプルで装飾もなく、帆布を使用するという、その店の商品としては実に思いきった造りである。

 しかし、その新しさに大都民が飛びつかないわけはなく、買おうと思ってもよほどの伝手がなければ予約すらできない…と言う逸品だ。

 当然ながら値段も高く、金貨二十枚くらいだったと記憶している。雑誌で読んで、欲しいけれど一生買えねーな…と思って諦めた。

 

 お前それって…と言おうと思って口を噤んだ。それまでファンが使っていた鞄は自分で買ってきた安物で、満身創痍で息も絶え絶えという破損具合だ。しかし、ファン的には「まだやれる」状態であるらしい。

 きっと同じことを考えて、宰相は鞄をファンに譲ったのだろう。どんな品かは誤魔化して。


 値段を口にすれば、絶対にファンは使わない。スバタイ宰相に返しに行く可能性すらある。

 そして、その肩掛け鞄は今もファンが使い倒している。アステリアにも持って行って、ごく普段使いにしている。

 クロムが見れば、縫製も材料の帆布も、その染色も全てそこらの量産品とは全然違うが、ファンの身の回りにあるのは同じレベルの品ばかりだ。だから、違いに気付かない。

 安物も愛用しているんだから気付けよ…とは思うが、「丈夫な鞄で嬉しいなあ。良いもの貰ったなあ」程度にしか捉えていないのだ。あの太子様は。


 そんなことを思いつつ品物を眺めていると、ふと旋律が耳をくすぐった。

 やや不明瞭で、少しばかり割れているのは、蓄音の魔導具から流れているからだろう。

 魔晶石に音を取り込み、放つことのできるこの魔導具は、鮮明に再生できれば出来るほど、値段が高い。

 音質からして、下の中くらいのものだ。それでも、一般家庭ではよほどの物好きでなければ買えない程度には高価な品だが。

 大抵は、こうした商店や飲食店で用いられる。

 今、クロムの耳に届いている旋律は、クロムが品を見ている店の向かい側、服屋の中から流れてきていた。

 

 魔晶石には、通常一刻分ほどの歌が取り込める。蓄音機を動かすための魔力はそれ程でもないので、置いてある店は一日中流していることが多い。

 だから、ずっとその店は歌を路上に提供していたはずだ。そうした店は多くある。特にこうした、若者向けの場所では。

 そのため、外国《いなか》からやって来たばかりの者は、あまりにも歌や曲が溢れていて、混乱するらしい。

 

 ヤクモや、あの小娘どもに注意しといてやるか。

 

 そんな…クロムにしては優しい…考えを脳裏によぎらせたのは、拾った曲の前奏が、良く知る歌のものだったからだ。

 さらに言うなら、好きな歌い手の好きな歌で、一曲全て諳んじているほどだったからだ。


 溢れる歌を聞いて「うるさい!」などと言おうものなら、その歌い手が好きな通りすがりに、喧嘩を売りつけることになる。

 少なくとも、クロムなら買う。てめぇの汚ぇ声の方が、百倍うるせぇんだよクソが!と。


 前奏は一瞬の沈黙で終わり、低く、それでいて良く伸びる歌声が、冬の冷たい空気の中を滑っていく。

 大都を出る前。刺青師のもとで、痛みと熱に朦朧としながら聞きまくった曲。


 やっと一人で彫ることを許されたばかりだという若い刺青師は「墨を入れている間、せめて好きな曲をかけてあげるよと」と、小さな蓄音機を自慢げに見せてくれたのだ。

 それで頼んだのが、今、クロムの口許を緩ませている歌である。

 

 女性にしては低い声は、けれどとても心地いい。同じように店を冷やかしながら、車列が止るのを待っている少女が、ミィアだ、と友人に嬉しそうに話しかけていた。

 龍が人の姿に化けているのだ、と囁かれる歌姫は、大都でも屈指の人気を誇る。

 低音から高音まで自由自在に操って歌い上げ、それだけではなく歌いながら見せる剣舞もまた見事。

 公演に使われるのは大劇場ばかりだが、入場券を買うために抽選に申し込みしなければならないほどだ。


 蓄音機の少し割れた音質が、むしろ彼女の低い声にあっていた。

 そろそろ路は渡れそうなくらい人が集まっているが、一回くらい見送ろう。そう決めて耳を澄ます。


 余韻を残しながら間奏に沈んでいく歌声。 

 しかし、その間奏をぶち抜いて、再び歌声が響き渡る瞬間。

 その時が最高に気持ちがいい。


 周りで聞いている通行人らも、同じだろう。足を止めて聞いている人々は、わくわくとした表情で、身体を揺らしている。

 高価で質のいい蓄音機なら、彼女の息を吸う音まで聞こえるだろう。しかし、その合図がなくても、いつその瞬間が訪れるか、皆わかっていた。

 こうして、路上で、誰も知り合いでもないのに、同じ瞬間を待てる。これはやはり、大都独自の感覚だ。

 

 さあ、いよいよだ。あと、五拍…、四、三、二…


 「ボルノ!!!」

 

 しかし。

 皆が目を輝かせ手待ち望んだ瞬間は、その一声から続く喚き声にかき消された。


 何事かと視線を向ければ、少しばかり後方で、大柄な男三人が声を張り上げていた。

 服装からして、おそらくアスラン人ではない。ファンがいれば瞬時にどこの田舎者か判別できただろうが、クロムには「多分北の方」としか判別がつかなかった。

 喚いている言葉も、豚の鳴き声くらいに意味が分からない。


 「す、すみません…!!」


 男らに喚かれているのは、若い男。こちらはアスラン人だ。服装や背嚢から見るに、お上りさんでもない、大都の住人だろう。


 「お前が急に遅くなるから、ぶつかった!本来ならば、お前のような平民がお会いするにも憚られる御方だぞ!!伏して謝罪しろ!」

 「で、でも、前に人、いたから…」

 「それともお召し物を弁償するか!払えるものならな!!金貨一枚二枚ではすまんぞ!!」


 喚く男は通訳らしく、タタル語を話している。

 真ん中の男が一番偉いようだ。北方人は早めに老けるから年のころはわからないが、三人ともせいぜい二十代半ば程度か。

 

 周囲の人々は、眉をひそめながらも誰も声を出せずにいる。

 それを臆病者と誹るのは酷だろう。北方人らしき三人は帯剣しており、一番偉そうなやつなど、柄に手を掛けてニヤニヤとしていた。

 本気で抜くつもりはないだろうが、騎士でも兵士でもない人々にとっては、充分に恐ろしい。


 「…クソ田舎野郎が」


 この辺り一帯は、武装が不釣り合いだ。

 少しばかり気合を入れた装いをして、楽しく買い物や食事を楽しむ場所だ。

 そこに帯剣してくるだけでも場違い甚だしいというのに、田舎者丸出しのゴテゴテとした飾りばかり多いダサい服に、喚き声。

 さらには。


 「跪けといってるだろうが!!」


 通訳の振り上げた腕に、若者は立ちすくんだ。

 身長は頭一つは軽く違い、横幅も倍近い。熊が襲い掛かってきたようにすら見えたのかもしれない。

 通訳の男は、自分の手が若者の頬を張り倒すことを、欠片ほども疑っていなかっただろう。

 

 なので、その手が空を切った時、勢いを殺しきれずにたたらを踏んで転びかけた。

 それを見ながら、若者の背嚢を握っていた手を放す。


 「おい。今なら路が渡れる。さっさと行け」

 「え、あ…」

 「行け」


 クロムの声に、若者は目を見開き「ありがとう!」と叫んで駆けだした。

 背嚢を掴んで引き寄せた際、少々胸が締まっただろうが、殴られるよりはましだ。少なくとも、走る姿にダメージは見受けられない。

 

 「な、何だお前は!!」

 「豚がいっちょうまえに人間様の言葉で喚くんじゃねぇよ。耳が臭くなるだろうが」

 

 耳を澄ませば、歌声は最後のコーラスに入っている。

 一番好きな部分が、聞こえなかった。


 偉そうなやつに、隣の男が何か言っている。こいつもタタル語が分かるようだ。

 わざわざクロムの罵声を忠実に翻訳したのか、偉そうな男の顏が見る間に朱に染まった。

 己が行いを恥じいって赤面しているのではなく、まさに怒髪天を突くというところか。


 顔を汚い赤に染め、大量の唾を飛ばしながら何か喚きつつ、剣を抜き放つ。

 遠巻きに見ていた人々から悲鳴が上がった。「衛兵!衛兵を!」などと言う声も聞こえる。


 衛兵を呼ばれるのは、困る。

 何せまだ、身の程を弁えさせていない。


 武器を抜いた相手に素手で対応すれば、どれだけ相手に重傷を負わせても御咎めなしだ。そう、アスランの国法で決まっている。

 つまりは、クロムがこの後何をしようと…さすがにぶっ殺すのは拙いくらいの分別はある…問題はない。


 ならば、「人様の楽しむ場所に豚は来てはならない」と覚えさせてやる程度の躾は、してやるべきだ。


 「手早く往くか」


 ここから、一番近い衛兵の詰所はあのあたり。となると、衛兵が駆けつけてくるまで、百を数える間もない。

 負けるなどとは思わないが、たったそれだけの時間で効率よく「躾」するのは、少々骨が折れそうだ。


***


 「で、相手の鼻潰して、膝割っちゃったの…」

 「ほんとは、前歯も全部折ろうかと思ったんすけど、唾が靴に着いたら嫌だったんで」


 しれっと答えるクロムに、マルコは大きく溜息を吐いた。

 紅鴉府にて『重要な』会議も終わり、さてそろそろ帰って寝よ…と固まった身体を伸ばしていると、騎士が一人、のそのそと執務室に入ってきて。

 まったく焦っても驚いてもいない声で、「クロムちゃんからツェヴェル通りで大暴れして、詰所にぶち込まれたから来て♡って手紙きてまっす」と言われて。

 なにそれぇ…と一応慌てて駆けつけてみれば。

 

 取り調べを行う小部屋で、偉そうにふんぞり返っている守護者《スレン》と、思わず背中をさすってあげたくなるくらいに青褪めた衛兵。


 とりあえず詰所に連行されたクロムは、きちんと自分の身分を伝えていた。「紅鴉親衛隊《ナランハル・ケシク》だ」と。

 紅鴉の守護者(ナランハル・スレン)だと名乗らなかったのは、たぶんマルコの考えている通りだろうが。


 小さな詰所でも衛兵隊長は騎士であることが多く、この詰所の隊長も騎士徽章を胸元に輝かしていた。

 四十前後か。経験も積んで、職務を全うしているようだ。クロムからすれば、大先輩になる。


 しかし、親衛隊騎士とそうでない騎士を比べれば、階級でも世間の目でも、親衛隊騎士の方が「偉い」ことになっている。

 連行した若造が親衛隊騎士だと名乗っても説得力はまるでないが、それで嘘と決めつけて粗末に扱ったあげく、真実とわかったならば。

 

 それで真偽を確認すべく、わざわざ紅鴉府まで問い合わせが来たのだから、ご苦労様と労ってあげても良い。

 クロムもそれを見越して、マルコ宛に書面を書いたのであろうし。


 「ここの衛兵隊長の首、括らせたいわけじゃないってことだね」

 「恨みも何もないんで」

 「ま、賢明だ。でー?おじさんをわざわざご指名にした、他の理由はあ?」

 「…ファンには、黙っててください」


 あ、やっぱりね、と、不貞腐れた顔でやや視線を逸らす若き守護者を、マルコは生温かい視線で見やった。


 呼び出す気安さなら、ニルツェグとジルカミシュの方がマルコに勝る。二人とも、クロムを弟分として見ているし仲もいい。

 いきがった田舎者に大都のお行儀を教えてやったんですと言えば、叱るどころか良くやったと褒めるくらいはしかねない。いや、絶対にする。


 アラカンは最初から候補になかっただろうが、アミールだってせいぜい軽い注意程度だ。

 むしろ、マルコが一番お小言の量が多くなることは、きっとクロムにもわかっていたはず。


 それでもマルコを指名したのは、唯一、「ファンに報告しない」可能性があるからだ。


 「一応聞くけどね?ナランハルに報告をあげない理由は?」

 「休暇中の取るに足りないケンカっす。わざわざ、耳を汚す必要もない」

 「それがねえ…君がいろいろへし折っちゃった御仁、ウロフ王国の侯爵様なのよ」


 そう溜息混じりに伝えると、クロムは眉を顰めた。

 だが、拙い事をしたと恐れ入っているのではなく、「なんか聞いたことあるような…?」と記憶をひっくり返している様子である。


 「…ウロフ…って、あの、北の方の?」


 ようやく出てきたらしい記憶は、実にふわふわしていた。


 「そ。第四夫人ティエリア様の生国。夫人の母方の従弟にあたるね」

 「へー。侯爵って偉いほうでしたよね。あんなクソ狭い国で、そんなご大層な身分っているんすか?領地、便所くらいの広さしかねぇんじゃ」

 「そーゆーこと言わない!」


 叱りつけたものの、実際、かの御仁が領地としているのは小さな町ひとつらしい。

 アスランとの力関係を鑑みれば、むしろクロムを僅かとはいえ傷付けた事で責任を追及される程度のものである。


 しっかり入ったわけではないが、微かに赤くなっている頬。

 その赤みが、おそらく「ファンには黙っていて欲しい」理由だ。


 「別にさ、内緒にしとく必要はないよ?暴漢から民を守った。立派な戦歴だ」

 「…別に、守ろうとか思ったわけじゃねーし…」


 また、子供のように不貞腐れて視線を逸らす。


 クロムに対面する前に、何があったかは当然聞いているし、相手も見たし素性もも確認した。

 本来なら、図体だけの実戦経験もないような連中に、クロムが一撃も食らうはずがない。

 さらに、クロムが連行…と言うか、ちゃんとおとなしく衛兵について行った…のを見た通行人や、最初に庇われた青年は次々と詰所に駆けつけた。

 そして何があったのかを口々に訴えてくれたおかげで、本人が口を割らなくても事態は事細かに把握できている。


 三人相手にクロムは全く危なげなく立ち回り、圧倒していた。

 しかし、それに腹を立てたらしい侯爵が、癇癪を起して剣を投げつけようとしたのである。こともあろうに、周りを囲んでいた人垣に向かって。

 それに気付いた瞬間、クロムは強引に身を捻り、剣を蹴り落とすことには成功したが、振り回された侯爵の手が頬に当たってしまったようだ。

 

 それをファンが聞けば、きっと「よくやったなあ!」と褒める。

 褒めるけれど、「クロムが人助けしてくれるなんて…うんうん。やっぱり、お前は良いやつだよ」とか、そういった感想も付いてくると予想できる。


 まあ、なんとなくわかる。,

 男には「良い人」と言われたくない時期があるものだ。

 それに、クロムからすれば、あの程度の連中にまぐれとは言え一発当てられたこと自体、恥ずかしいのだろう。


 そして、そういう機微を汲み取るのは、マルコしかいない。そう思われての御指名だ。

 悪い気はしないし、頑張ったクロムのご褒美に、一度頷くくらいはしてもいい。


 「わかった。おじさんはナランハルには報告しない。けど、あくまでおじさんは、だし、聞かれたら答えるからね。クロムに口止めされてたことも含めて」

 「マルコさんが言わなきゃ、伝わんないでしょう。十分です」

 

 それはどうかなあ?とは思ったものの、マルコは神妙に頷いておいた。

 詰所にやって来て、連中の横暴とクロムの無実を訴える人々の数を見れば、あっという間に広まりそうなものだけれど。

 それがナランハルの御耳に入らないとは確約できない。

 まして、紅鴉親衛隊と名乗ってしまっているのだし。


 「ちゃんとおとなしく詰所に同行したしね。成長したじゃん」

 「別に、大したことも怒られるようなこともしてないんだから、コソコソするつもりはないってだけです。文句があんなら、俺が何処の誰かわかってねーと言いにも来れないでしょう」

 「文句言いに来られたら、ナランハルにもバレちゃうけどね」

 「…そん時は、そん時っす」


 たぶん。

 一年前のクロムなら、衛兵を殴り飛ばしてでも逃げていた。

 後始末や面倒事に巻き込まれるのは嫌だという、それだけで。

 しかし、今のクロムは、もしそういう事になれば責任を取るつもりでいる。それは、成長だと褒めても良い。


 「あーっと、そういう事だから、この子は正真正銘の紅鴉親衛隊所属の騎士で、聴く限り、アスラン国法に反していることもない。休暇中の騎士が、武器を振り回した暴漢を鎮圧した。それで報告書あげてくれます?」

 「承知いたしました!」

 「すみませんねー。お手数ですが、よろしくです」

 

 ぺこり、と軽く頭を下げると、 衛兵隊長は口を半開きにしてかたまり、それから慌てて首を振る。


 「と、とんでもございません!手間などだとは、決して…!」

 「いや、仕事増えちゃったのは事実だし。でもま、民に怪我がなくてよかった。あ、万が一、報復行為があった場合は、速やかに紅鴉府までお願いします」

 

 相手は侯爵とは言え、「アスランの庇護のもとに成り立つ小国の」が、身分の前に付く。

 クロム本人に何かしようとすれば、周りが必死に止めるだろう。ならばその分、居合わせた人々に八つ当たりを向けるかもしれない。

 何せ、群衆に剣を投げつけるような輩だ。アスランの国法に照らしてみれば、戦うことが出来る騎士より、武器を持たない民を傷付けた方が、罪が重くなるのだが。


 法治を掲げるアスランでさえ人の命に、身分とか家柄なんてものがくっついて、重さを変えてくる。

 貴族と平民の命の重さの差が、鉄と紙ほどある国から来た連中に、民を傷付けた方が重罪だとは理解できまい。

 裁判にかけられ、処刑となったとしても、その前に理不尽に奪われた命や尊厳は戻らないのだ。だから、防ぐしかない。


 衛兵隊長にはああ言ったが。紅鴉府に戻ったら、密偵をしばらくあの連中に張り付けさせよう。

 そう決意し、頭の中で報告書の文面を考えていると。


 「あ、あの、将軍。ひとつ、お伺いしてよろしいでしょうか…?」


 おずおずと衛兵隊長が口を開いた。


 「え?はいどうぞ」

 

 なんだろうと首を傾げながら承諾する。

 しばし躊躇ったのち、衛兵隊長はゴクリと唾を飲み込み、再び口を開いた。


 「わ、我々への処分は、いかほどに…」

 「へあ?処分?」

 「駆けつけるのが遅れ、その…そちらの方に負傷を…」

 「こんなん、負傷じゃない!ちょっと掠っただけだ!」

 「あー…」


 ここらの管轄、確かあの御仁だなあと、マルコは内心に呟いた。


 基本、衛兵隊への配属は、騎士にとっては「はずれ」である。

 やはり、騎士になったのならばいずれは将軍に…と立身出世を夢見るのも、責められる事ではない。

 しかし、その為には武功をあげ、己が才を知らしめなければならないわけで。

 衛兵となって小さな揉め事を幾つ解決しようと、治安を守ろうと、それは華々しい武功とは言えないのだ。


 大都守備隊への配属なら、長城付近に出没する賊や魔獣の討伐などもあるが、衛兵隊にはそれすらない。大虎と化した酔っぱらいを捕まえるくらいなものだ。

 つまりは、衛兵隊へ配属されれば、よほどのことがない限り、出世は頭打ち。

 騎士は基本百人長ではあるが、その百人長を束ねられる…けれど、千人長にはなれない、複数の詰所をまとめる大隊長程度が到達点だ。

 

 安全に安定した生活と収入を得て、そこそこ尊敬されて、穏やかに生きて行きたい…と思う性質なら問題はない。

 だが、ギラギラと出世欲に目を光らせ、しかし本人の実力が伴わず、理不尽だと呻く輩が区域長になると、下の衛兵隊長たちは非常に苦労することになる。

 

 そしてこの地区の区域長は、まさにそんな御仁だったと思い出す。

 士官学校の交流会に出た時、衛兵隊長から親衛隊騎士千人長になれたのは何故かと、延々と絡まれた。


 ああ云う御仁は、何より「部下の失態」に激怒する。

 自分には何の欠点もなく、本来ならもっと評価されてしかるべきなのにそれがない。何故なら、部下が足を引っ張っているからだ…と思い込んでいるからだ。

 万が一にも自分が失敗したのなら、それは部下のせいである…とすら、何の疑問も抱かず信じ込んでいることも多い。

 

 顔色を青褪めさせる衛兵隊長も、今までさんざん、そうして怒鳴られ、失態失敗を押し付けられてきたのだろう。

 しかも今回は、本当に失態と言えば失態である。

 他国の侯爵と言う要人が来ていることに気付かず、放置した末の結果と言えなくもない。

 それらも全部ひっくるめて、マルコの感想は「運が悪かったねえ」程度で、叱責するような事ではないが。


 「本人もこう言っているし、実際、こんな擦り傷で被害者面したら、うちのじっさまに、負傷ってどういうことか『わからせ』られちゃいますからねえ…。お気になさらず」

 「じっさま…?」

 「アラカンお爺ちゃん。名前くらいは知ってますかね?」

 「な、長腕のアラカン将軍ですね!勿論です!」

 「そちらも大変ですねえ。まあ、俺も衛兵隊長だったころ、いろいろあったから。けど、ツェヴェル通りが賑わっているのも、民がすぐに衛兵を呼ぼうって思うくらい信用されているのも、皆さんの日々の積み重ねですからね」


 衛兵隊長は、また口を半開きにしてマルコを見ている。

 もしかして、褒められたり労われたりしたこともないのかもしれない。

 それは、マルコにとっても覚えがある、懐かしい感覚だ。


 「なので、今後も頑張ってください。あんまりにも上官がアレなら、個人的に相談にも乗るんで」

 「あ、ありがとうございます!!」


 跪礼しそうな衛兵隊長を押しとどめ、マルコはクロムを伴って詰所を出た。

 流石に詰めかけてきた人々は解散させられている。ここで騒がれると、またクロムが臍を曲げそうで面倒くさい。

 良かったと顔に出さずに胸を撫でおろしていると、その面倒くさいクロムが口を開き、誤差かなと思う単位で身体を曲げた。


 「マルコさん、あの…あざっした」

 「はいはい。さっきも言ったけど、クロムの行動は正しかったから。俺を呼んだことも含めてね。けど」


 お説教が来るかと思ったのか、クロムの視線が一瞬揺らぎ、しかし、すぐにまっすぐにマルコを見つめてきた。

 その鋼青の双眸は「俺、間違ったことしてねぇなら、説教は聞かないんで!」と宣言している。

 

 「はい、これ。塗っておけば、家に着くまでには治るよ」

 

 だが、マルコも説教したいわけではない。腰の帯につけている鞄から取り出したのは、小さな小瓶。中身は回復薬である。

 

 「そんな顔で帰ったら、ご両親に心配させるっしょ。んじゃ、おじさんは帰って寝ます」

 「そいや、なんか顔色悪いっすね」

 「昨日、ほぼ徹夜で呑んで騒いだからね~。まあ、めでたいのは良い事…って、クロム知らないか」

 「何をっすか?」


 首を傾げるクロムに、言うべきかどうしようか悩む。

 午前中、お前さんをどう迎えに行くかとかも、会議してたんだよ~っとばらすかどうかも含めて、脳内で決を採ることしばし。


 「ナランハル、ガラテア様に求婚しました」

 「は…?」

 

 目をまん丸くして戸惑っている顔は、それなりに付き合いの長いマルコも、初めて見る表情だ。

 

 「意外?」

 「いや、ガラテアが夜這い仕掛けたとかなら予想の範囲内だったんすけど、ファンから行ったか…。会ったら褒めてやらねーと…」

 「マシロ君が映像とってたよん」 

 「そっすか」


 にんまりと悪い笑みを浮かべているが、主の慶事は喜ばしいようだ。旅の途中、それなりにやきもきしていたのかも知れない。

 

 「あんまりナランハルを揶揄わないようにね。それで恥ずかしくなっちゃって、婚約者のまま十年とかになったら困っちゃう」

 「さすがにそりゃないっすよ。アイツ、なんだかんだでヤルクトの男です」

 「ならいいんだけどね~。あと、わかってると思うけど、今日は買い物あきらめるか、別のとこでお買いなさい」

 「わかってますよ。明日、大回廊市場《バザール》にでも行ってきます」


 ぼったくりで有名な大回廊市場だが、奥まで進めばちゃんと適正価格で商う店ばかりになる。

 ただ、その「奥まで進む」のが、大都の民以外には難しいのだが。


 「そうしときな~。じゃ、また明後日に」

 「っす。お疲れ様でした」


 クロムと別れ、マルコは馬車溜まりまで足を運んだ。

 ここから王宮前広場まで馬車を使うと、結構なお値段にはなる。が、全身を覆う疲労はいかんともしがたく、鉄道馬車を乗り継ぐ気力は残っていない。


 来るときは急いでいたので、紅鴉府にもいくつか作ってもらった転移陣を使用した。

 一番近い陣まで転移して、そこから流しの馬車を拾ったので、お値段はさほどでもなかったが…その陣の場所を説明する気力すら怪しい。

 

 幸い、まだ日は落ちておらず、世の人々は勤労に励んでいる時刻である。

 客待ちの馬車はすぐに見つかり、客車で足を延ばすことが出来た。


 馭者は思いがけない上客にほくほく顔だ。

 王宮前まで行く親衛騎士服を纏った客が、運賃を踏み倒すわけもない。流しの馬車にも縄張りがあるが、客を降ろした先で「たまたま」新しい客を乗せることは許されている。

 今から王宮前へ行けば、ちょうど帰宅する文官武官が馬車を待っている頃合いになる。往復だけで、彼が今晩稼がなくてはならない金額になるだろう。


 それだけに、「ゆっくり行ってね」というマルコの要望にも「はいなっ!」と愛想よく応じてくれた。

 要望通りのんびりと走り出した馬車の中で、マルコは重くなってきた瞼にあらがう事を辞めた。


 (それにしても…)


 ぼやけていく意識の中、浮かんでくるのはずいぶんと懐かしい記憶。


 (似たもの主従だよねえ…あの二人…)


 そう内心に呟くと、夢と記憶が入り混じったものが、閉じた瞼の内側にあふれ出てくる。

 それを振り払う事もなく、口許を緩めて。


 安らかな寝息が零れるのに、そう時間は立たなかった。


***


 「で、相手の鼻潰して、関節外しちゃったの…」

 「本当は、関節外すだけにしたかったんですけど…」


 衛兵隊詰所の取調室。マルコの前には、まだ成人前の少年がちんまりと座っている。


 この詰所が担当する一帯は、本屋や文房具店が多く、活気とは無縁だが犯罪とも縁遠い。

 「学者《チガラチ》通り」と呼ばれるだけあって、歩いているのは、知識量と健康な肉体を等価交換したような人々が九割を占める。

 お互いの肩がぶつかれば「…スミマセン」「…コチラコソ…」とそよ風のような謝罪をし、一回も視線を合わせることなく消えていくような、そんな通行人ばかりだ。


 目の前の少年は、残りの一割に該当する。

 座っているからわかりにくいが立てば、長身の部類に入るマルコの肩くらいまではあった。あと数年もすれば見下ろされるようになりそうだ。

 夏用の袖なし上着から覗く腕は、成長途中の筋肉がしなやかに育っている。よく日に焼けた肌といい、間違いなく健康そのものだ。


 つばのない丸い帽子《マルガェ》を被り、半袖の胡服《デール》を纏い、泥に汚れた長靴《ゴタル》を履いている。

 典型的な遊牧民の少年。

 それが、マルコの彼を見た第一印象だった。


 マルコは、士官学校を卒業して五年の騎士である。 

 出身は大運河沿いの小さな町で、そこでは武芸勉学共に長け、神童の誉れも高かった。

 それで町長に推薦されて、意気揚々と士官学校の入学試験に挑んでみれば。


 自分は、確かにできる方だが、すごくできる方ではない。そう思い知らされた。

 武芸も、勉学も。ひそかに遊牧民にも負けないと自負していた乗馬でさえ、士官学校の試験に挑まんとする中では、なんとか合格圏にしがみ付いていられる程度でしかなかった。


 入学すればますますその思いは強くなり、「あー、うん」となんだか納得しているうちに二年が終わって、発表された配属先は、大都の衛兵詰所。

 同じように衛兵詰所に配属となった同期生は嘆いていたが、マルコは「あ、俺にちょうどいい」としか思わず。

 実践訓練で世話になったアラカン将軍に伝えると、「お前はそれがなければな」と、何故か怒られた。

 

 しかし、実際に着任して見れば、やっぱり自分は「このくらいがちょうどいい」と感じる。


 身分は衛兵隊長ではあるが、別に偉くはない。経験豊富な古参の衛兵の方が仕事もできるし、顔も効く。

 身分だけは高い若造の言うことなど聞くものか、という衛兵もいたが、むしろマルコにどんな命令が出せるというのか。それこそ、何をしていいかも判らないのだから。


 なので、マルコはごく普通に、そうした衛兵たちに頭を下げ、仕事を教わり、礼を言い、少しは役に立てそうな書類仕事を頑張った。

 そうしていると、少しずつ古参の衛兵たちもマルコに対する態度が柔らかくなり、ますます居心地は良く感じる。

 担当区域の皆様方にも顔を覚えてもらって、挨拶なども気軽にしてもらえるようになると、むしろもう、これが天職なのでは…とすら思えた。

 

 どうも、そうして喜んで衛兵隊長をやっている騎士は少なく、士官学校を出たばかりの若い騎士ともなると、さらに珍重されるようだ。

 どうにかしてなにか手柄をたて、衛兵詰所からどこぞかの軍に転属したい、と考える騎士は多く、治安が悪く出動が多い場所ほど人気がある。

 つまり、出世をそもそも望まず、活躍も手柄もいらない、けれど衛兵たちとうまくやれる…というマルコは、毎年のように配属が変わった。

 そして、ついにはこの犯罪が起きそうもない、見回りすらただの散歩にしかならないという学者通りが、マルコの戦場となったのだ。


 馴染んだ衛兵と配属替えで別れるのが辛いんですよ…と嘆いたマルコに、この詰所に勤めて三十年と言う老衛兵は、「だいじょうぶ。こっからはどこにも行きゃしませんよ」と、歯の抜けた口を開けて笑った。

 今年で七十になるという彼を筆頭に、十人いる衛兵は皆平均年齢が高い。マルコが来るまで最年少だった衛兵が、五十六歳である。


 刺激もないが危険もなく、主な任務は、子供たちをちょっと遠い学校まで送迎する…という学者通りのお勤めは、実に穏やかに過ぎて行った。


 よく考えなくても、戦場と言うのはとても危険で、辛く、しんどい場所である。

 命の危険はすぐそこにあり、誰かを殺すという辛い作業を避けるわけにはいかない。

 そしてマルコは、そこまでしんどい思いをして立身出世を果たすより、安定した生活をして、結婚して子供を育て、そのうち騎士引退して郷里に戻り、実家の商店を継ぎたい…そう思う人間だった。

 将軍と呼ばれて豪奢なマントを翻し、名馬に跨って颯爽と駆ける自分より、実家の店で酒を売っている自分の方が、はるかにくっきりと想像できる。

 

 そんなふうに、穏やかに…完全に無風とはいかなかったが、泥棒だ人殺しだと駆り出されることもなく、のほほんとぬるま湯に浸りきっていた矢先のことである。


 突然、一人の男が棒を振り回し、下校中の子供たちに襲い掛かったという一報が齎された。


 その日、子供たちの付き添いをしていたのは、今年六十九歳の衛兵だった。取り押さえようとはしたものの、当然のように敵わない。殴られて動けず、逃げなさいと叫ぶことしかできない。

 護衛のいなくなった子供たちに男が襲い掛かった時、通りすがりの遊牧民の少年が立ち塞がり、見事に返り討ちにしたのだという。


 男には連れが三人ほどいたが、あろうことか凶行を止めることなく、少年が立ち向かうと、男に加勢した。

 つまりは一対四で立ち回り、少年はかなり殴られはしたものの、全員殴り倒して勝利したのだ。

 

 マルコが駆けつけた時には、倒れて呻く男四人を見下ろし、鼻血を拳で拭う少年が立っているだけだった。

 子供たちに怪我はなく、殴られた老衛兵は肩の骨を折る重傷だが、命に別状はない。

 

 「俺、そんなに強くないんで、四対一だと、難しくて…」

 「いやあ、充分強いでしょう。大の大人相手に。お手柄だったけど、君もまだ子供だ。衛兵が来るまで、逃げて欲しかったよ。痛いでしょう?遅くなってほんと、ごめんね」


 一応、使用期限内である回復薬を進めると、少年は少し困ったように笑った。

 まだふっくらとしている唇が切れているのは痛々しいが、本人はあまり気にしていないようだ。このくらいの怪我は、慣れているらしい。

 凶器付きの男どもを相手取って勝っているのだし、おそらくなにかしら武術を習っているのだろう。稽古に怪我は付き物だ。

 

 しかし、今は興奮して痛くないだけと言う可能性も捨てきれない。

 痛み出す前に治してしまえば、夜中に熱を出して呻くこともないよね。そう言って、更に進めると、おずおずと少年は瓶に手を伸ばした。


 「えーっと、ここの詰所だと、こういう備品も少ないんじゃないかなって。貰っちゃうのは悪いんじゃ…」

 「子供がそんな事気にしないの。っていうか、詳しいね?ご家族に衛兵いるの?」

 「あー…衛兵って言うか、父と兄が、軍に…」

 「へえ~。じゃあ、君も大きくなったら軍に入るの?」

 「俺は、博物学者になりたいんです。今日も、予約していた図鑑を買いにきたところだったんですよ」


 そう言って、にこっと笑う。明るい光を湛えた双眸が金の色をしていることに、マルコはようやく気付いた。


 金の眼は、ヤルクト氏族特有の瞳の色だ。

 ヤルクト氏族は王の氏族だが、遊牧の暮らしを守り、長城の内側をめぐっている。 

 そして、いざと言う時は氏族全員がアスラン軍に入り、アスランの為に戦うことになっていると聞く。

 

 そんな氏族に生まれて、学者を目指しているとは中々奇特な少年だ。

 図鑑は高価なものだから、子供のお小遣いでは買えない。きっと、両親や他の親族も、少年の夢を応援しているのだろう。

 少年の買ってきた図鑑を幕屋《ユルク》の中、家族みんなで見ている様子を思い浮かべると、なおさら傷を治すべきだと思う。

 ちゃんとご両親に、少年を危険に晒してしまったことをお詫びするつもりだが、怪我をした愛息子を見て、心労を掛けさせてしまうのはよろしくない。


 「ほら、ぐっと」

 「んー…それじゃあ」


 蓋を外し、ぐい、と呷る。見る間に、唇の裂傷が復元されていった。

 微妙な顔をしているのは、味のせいと治癒に伴うむず痒い痛みのせいだろう。


 「さて、それじゃあ、調書を取らせてもらうね。君が罪に問われることはないから、安心して」

 「あのー…できれば、そういうのなしって…」

 「悪いけど、駄目。うちの詰所でとる十年ぶりの調書らしいし」

 「うー…家族には、内緒にしてたくて…」

 「大丈夫。俺がちゃんと、お詫びに行くから」

 「いやー…うちの兄と、その、親戚…的な人が、すっごく過保護で…大事になりそうなんで…。いや、あなたに何かしたりは、絶対しないですけど…」


 お兄さんは軍人であるらしいし、少年が本当にヤルクト氏族なら、親戚同士の結束は固い。

 暴漢を止めて負傷したなどと知れば、その暴漢に暴行を加えようと一族総出で乗り込んでくる…のかもしれない。

 ヤルクト氏族は王の氏族ではあるが、貴族として法をおかしても優遇されるなどという事は一切ない。それは、王の氏族としての誇りでもあるのだそうだ。

 となると、少年の怪我をきっかけに逮捕者続出になってしまうのを、危惧しているのだろう。


 「そっちもたぶん、大丈夫。あの棒男、ちょっと大きい商会のドラ息子でねえ。殴り込むのは難しいよ」

 「そうなんですか。うーん…でも、なあ…。けど、棒もってお年寄りや子供を躊躇なく殴れるような奴だし…いいか」

 「え?なんか言った?」

 「いえ、何も」

 

 何か、とんでもなく不穏な事を呟いた気がしたが、深く追求してあまり時間を取らせるのも悪い。

 そう考えて、マルコは調書の欄を埋めていくことを優先させた。


 「えーと、まず、君のお名前は…」

 「…ファ…あー…いっか。ファン、です」

 「ファン…ナランハルと同じだね」

 「いやー…あはは」


 一太子と二太子にあやかって、トールとファンと言う名の兄弟は、アスランにとても多い。

 王を中心に結束するヤルクト氏族ならなおさらだろう。遊牧民には、尊敬する人や氏族の位の高い人の名を、子供につける習慣がある。

 そう思って口元をほころばせ、待てよ、と思い至った。


 現在、一太子は十八歳、二太子は十三歳である。

 そして、八代大王に王位が引き継がれ、モウキ陛下が大都に家族と共に戻ったのが、三年前。

 アスランにトールとファンと言う名の兄弟が増えたのは、それから一年後である。つまり、今、あやかって名付けられたファン君は、一番年上でもおむつが取れていない。


 いや、ヤルクト氏族なら、その名を知っていてもおかしくはないが、よくよく考えれば、王家に対する忠誠心で知られるヤルクト氏族が、王族の…それも太子の名を、我が子に付けるだろうか。

 いうなら、雷帝神官が我が子にリューティンと名付けるようなものである。

 いくら尊敬する人の名をつけると言っても、限度がある…気もする。


 マルコの懸念は、しっかり顔に出ていたらしい。

 「ファン」少年は、曖昧な笑みを浮かべ、視線を机の上に這わせた。


 「あのお…不躾な質問で申し訳ないのですが…」

 「はは…」

 「もしかしまして、ファン・ナランハル・アスラン様と仰います?」

 「ええ、まあ…」


 観念したように、ファンの手が帽子に伸びる。

 毛糸で編まれた帽子を取り払うと、淡い金の髪があふれ出た。


 朝日の髪と満月の瞳。

 アスラン王家だけに現れるという、特徴。


 「あー!!伏礼しないでください!!」

 「いやでもですねっ!?しないわけにはいかないって言うか、するですよ!!」

 「今、俺はナランハルとしてここにいるわけではないので!!無理に伏礼するなら、俺もしますよ!!」

 「ひいい!!なんでそんなことするんです!?っていうか、もっと、下々に接する感じでお話くださいいいい!!」

 「だって、あなたの方が、俺よりもよほど偉いから!」


 椅子から発射されるように床に飛び込んだマルコを、ファンが必死に起き上がらせる。

 間近で見たその双眸は、まさに夜空を照らす月のようで。

 それでいて、儚げではない。強い光が宿り、また無条件に伏してしまいたくなる。

 なるほどこれが、王の目かと…ちょっと現実逃避しかけた頭の中で呟いた。


 「いいですか!あなたが現れた途端、子供たちも、その子たちを守って震えていた人たちも、皆すごく、安心していた!それは、あなたが普段からこの通りの人々から信頼されているからでしょう!」

 「え、いや、大したことは…」

 「それに、対応も的確だった!医者を呼びながらアイツらはしっかり拘束して、他の衛兵さんたちへしていた指示も、冷静で申し分なかったですし!俺はまだ、アスランに対して何の役にも立っていない。あなたの方が、ずっと偉いです!」


 力説されて、なんだかすごく褒められていることは判るが、知能は既に理解することを拒否し、お花畑でちょうちょさんと戯れている。

 いや、それではいかん!と意識を取り戻すまでにやや時間は要したが、一応、失礼には当たらない程度だったようだ。

 二太子は気分を害したふうもなく、むしろマルコを心配そうに見ている。


 「ええと、そのですね、ナランハル」

 「はい」

 「あのお、御身を傷付けたとあっては、そのお…下手すると、族滅…ですよね?」

 「残念ながら…」


 アスランに於いて、最も重い罪は叛乱である。

 兵を集めて蜂起する以外にも、王族を騙る、暗殺を企てるなども叛乱罪として裁かれ、一番軽くて首謀者は牛裂き、共犯と見做されたものは軽くて斬首と決まっていた。

 

 今回、間違いなく、二太子を狙って暴れたわけではない。

 たまたま…それとも、雷帝がそんな非道を許さなかったのか、子供相手に暴力を振るおうとしたところ、二太子がおわしただけである。


 しかし。

 

 本当にそうか。気狂いを演じ、二太子が止めに入るのを見越して、そのお命を狙ったのではないか。


 二太子が被害に遭われたのなら、調査は御史台の断事官が任命される。

 それだけでなく、大都守備にあたる十二狗将の誰か…おそらくは、一太子二太子の後見人でもあるヤルトネリ将軍が、額の血管を浮き上がらせつつ犯人捜しを命じるはずだ。


 本当に偶然か。それとも。

 偶然にしては出来過ぎている。二太子が図鑑の引き取りに来ることは、調べれば掴めたかもしれない。ならば、そこを狙う事も可能だったはずだ。


 ならばどう追及するか。簡単な事だ。犯人を拷問にかけ、狙いを吐かせる。

 犯人だけでは心もとないのなら、その親族を引き立て、同じように「おしゃべり」させればいい。


 何も出てこなければ、なるほど、偶然狂人と二太子が接近してしまっただけのようだ。

 しかし、だからと言って、二太子の御身を傷付けたことは許されない。

 犯人である商会長の息子は牛裂き、一緒に二太子を殴った三人は箱刑、不行き届きで両親は斬首…が、妥当なところだろう。

 場合によっては、連座はさらに増える。当然ながら、商会は再起不能だ。

 従業員は路頭に迷い、連座しなかった親族は、「二太子を襲った極悪人の一族」と罵られ、石を投げられる立場まで堕ちる。


 「その…大変に恐縮なのですが、最初にナランハルがご提案された、『そういうのなし』にしていただけませんでしょうか…」

 「え、俺としてはありがたいですけど…良いんですか?」

 「あの商会、ボヒル商会と言うのですが、ドラ息子と父親の商会長、その母親はろくでもないんです。でも…ドラ息子のお兄さんと、そのお母さんは真っ当な人なんですよ…」


 この学者通りから少し離れた賑やかな通りにあるボヒル商会は、主に食器類を扱う商会だ。

 もとは、犯人から見て曽祖父に当たる人物が、小さな店から身を起こし、いくつもの店を束ね、買収し、商会と名乗れるまでに成長させたのである。


 立身出世を成し遂げ、金も名誉も手に入ると、曽祖父はともに切り盛りし苦労してきた妻を追い出し、若く美しい妻を迎えた。

 その妻が産んだ娘を、曽祖父は溺愛した。先妻の子ですでに商売の一角を担っていた息子も追い出し、娘の婿に後を継がせてしまったのである。


 幸いなことに、この婿は真面目に商売に励んだ。商才もあり、人柄も良かった。

 娘はと言えば、贅沢三昧我儘三昧ではあったが、商売に興味なく、邪魔もしなかった。

 そうでなければ、いくら婿が汗水たらし頭を下げたところで、ボヒル商会は分解していただろう。


 「その我儘娘の一人息子が、今の商会長で…ただ、この商会長、二人奥さんがいましてね。一人は、別の商会の娘さん。実質、ボヒル商会はこの人が仕切っています。この人が産んだのが、お兄さんですね。お兄さんも商才がありますし、好青年です。真面目だったお祖父さんの血が濃いんでしょう」

 「犯人とは、異母兄弟なんですか」

 「ええ。ドラ息子の母親は貴族のお嬢様で、もう亡くなっています。で、こいつは祖母と父親にそっくり、と」

 「そうだ。なんで、子供を棒もって襲うなんて言う凶行にでたんです?何かわかりましたか?」

 「ええ、まあ…一応」


 近くの医院に運ばれた犯人は喋れる状態ではなかったが、取り巻きの一人は関節が逆に曲がった程度で、何処の誰かと喚くことが出来た。

 それで、金の心配はなさそうだと、高級回復薬が私用されて怪我は治っている。


 何故あんなことを…と問われ、犯人は悪びれもせず、応えた。

 「なんか、むしゃくしゃしてたからだ」と。


 今までは兄や使用人を殴っていたが、あまり血も出ないし、死なない。 

 なら、子供ならすぐ死ぬ。それで俺が強い事も証明できる。


 それが、犯人の語った「動機」だった。


 動機を聞きに行ったのは、ボヒル商会がある区域の衛兵だ。学者通りの衛兵と違って、それなりに修羅場も潜ってきている。

 なのに彼は、厳つい顔を歪めて吐きそうな顔をしていた。


 あれはもう、どうしようもありません。さっさと斬首なりに持って行けなければ、次は必ず子供を殺しますよ。


 そう、呻きながら報告書をまわしてくれたのを思い出す。


 それをどこまで話すべきか。

 当事者とは言え、まだ成人前の子供だ。二太子《ナランハル》だろうと、子供なのだ。


 「その…特に理由は、なかったようです」


 逡巡の末、マルコはそう答えた。真実そのものではないけれど、本質はあっている。

 だが、やはり納得できない答えだったのだろう。二太子の眉間に皺が寄った。


 「…理由もなく、子供を、か」

 「はい。ボヒル商会には、くれぐれもこの外道を外に出さないように、今回の事が公になればどうなるか、外道を放置すればどうなるか、よおく言っておきます。本来なら鉱山奴隷行きが妥当でしょうが、それは金積んで回避するでしょうからね」

 「俺が目当てって事にした方が確実ですけど、それでお兄さんとそのお母さんが連座するのは…。うーん、あまりにも理不尽ですもんねえ…」


 普段から素行の悪い次男の事は、二人とも大いに頭を悩ませていた。

 祖母と父の寵愛をいいことに好き放題する次男の、最大の被害者はこの二人と言ってもいい。今まで散々に迷惑を掛けられ、殴られ、尻拭いをしてきた。

 それが最期は連座により斬首では、何のために生まれてきたのかと、天を呪いたくもなる。


 「わかりました。俺は博物学者を志すただの遊牧民って事にしてください」

 「申し訳ございません…ナランハルに、偽証をさせるような真似を…」

 「いえ、最初に俺が提案したことですからね」


 明るく笑って、帽子を被りなおす。

 

 「今日は流石に、図鑑取りに行けないな。明日もさすがにかなあ。三日くらい開けて取りに行きますね」

 「そうしていただければ。御一人ではなく…いや、できれば、別の方に取りに行ってもらってくださいませ。って言うか、護衛もなしに…」

 「いや、いますよ。俺が負けそうとか、もっと酷い怪我しそうになったら、手を出してましたよ。問題ないって判断されたみたいです。口止めしとかないとなー」


 その護衛の胆力に、マルコは素直に感心した。自分なら、護衛対象…しかも、二太子が殴られていたら、その瞬間飛び出している。


 「手に負えないこと以外は、まずは任せて欲しいって頼んであるんです。それが我が家の方針ですしね。いずれ、手に負えない事でも…全力振り絞ってどうにかしなきゃいけないんだし」

 

 いずれは、王族として。

 その、まだ幼さを残す手が大きくなっても、手に余る事態はいくらでもやってくるだろう。

 誰かの援けを求めるのではなく、自分で立ち向かわなくてはならない。


 その時、きっと二太子《ナランハル》は。

 弱音も泣き言も恐怖も苦痛も全部しまいこんで、今と同じ明るい笑顔を作って、真正面から立ち向かう。そんな気がした。


 その時。

 その時、自分も、何かの役に立てたなら。


 沸き上がる衝動は、今まで経験したことのない温度をしていて、マルコは大いに戸惑った。

 己は、立身出世よりも安寧と安穏を求め、町の衛兵さんを勤め上げるのがお似合いな人間だ。

 二太子のお役に立ちたいなど、おこがましいにもほどがある。

 王族の私兵であり、その盾となり槍となる親衛隊は、精鋭中の精鋭。己など、一次選考にもひっかるはずもなく、推薦人に心当たりも全くない。


 「隊長さん?」

 「あ、いえ。自分ごときが出過ぎたことを言いました」

 「そんなことないです。普通、そう思いますよね。えっと、それじゃ、俺は…」

 「あ、こちらに。裏門からお帰りください。正門は、見張られているかもしれないですからね」

 「心配してくれて、ありがとう」


 取り繕うでも嫌味でもない、素直な御礼の言葉は、またマルコの胸中を先ほどの温度で満たした。

 

 (でもまあ…やっぱり、住む世界が違うよな)


 その温度を冷ますように、内心に呟く。

 それに、大都の平穏を守ることだって、二太子のお役に立っているはずだ。

 勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれないが、二太子は戦で領土を広げるよりも、アスランの平和と繁栄を喜ぶ御人であると、この短い時間の中で察せられた。


 なら、そのお役に立とう。マルコが特に何もしなくても、この学者通りは平穏ではあるけれど。

 二太子が、こっそりと図鑑を買いに来れるくらい平穏なままであるように努めよう。

 

 マルコが勤務する詰所は、入ってすぐの常に三人以上の衛兵が待機する部屋と、先ほどまで二人がいた取調室兼事務室、そして仮眠を取ったり、具合が悪くなった人を寝かせておく休憩室の三部屋で出来ている。

 

 最初の待機室から奥へと続く扉を開けると、短い廊下が申し訳程度に在り、その両脇が取調室と休憩室だ。

 マルコの言う裏口は、短い廊下の突き当りにある扉、そこになる。


 鍵は内側からしか施錠、解錠が出来ない。そういうと大層な仕掛けのようだが、単純に閂が嵌っているだけだ。

 その年代物の閂を外し、扉を開く。その先には、これまだ申し訳程度の庭があり、覗き見が厳しいくらいには高い塀が詰所の敷地を囲んでいる。

 塀にも扉がついているが、基本的にこちらは常に開けっぱなしだ。少なくとも、マルコが赴任してから閉まっているのを見たことがない。


 「お気をつけてくださいね」

 「ありがとう。でも、ほら、さすがにもう一人にしてくれないから」


 苦笑しながら示した先には、遊牧民風の青年が二人いた。

 見た限り武装などはしておらず、マルコを見て軽く会釈をしてくる。


 「それじゃあ、いろいろとお世話になりました。あなたも、逆恨みにお気をつけて。怪我したりしたら、アスランの損失だ」

 「俺なんぞに、もったいないお言葉です」

 「うーん…ちょっと、自分を卑下しすぎじゃないかなあ。本当に、あなたの指示や動きは良かったですよ?」

 「買いかぶりすぎでございますですよ!!」

 「そうかなあ…」


 うーん、と二太子は首を捻り、それから、にこりと笑った。


 「いつか、あなたが自分の価値に気付くよう。紅鴉の導きがありますように!」


 これ以上、謙遜…マルコ的には、正しい自己評価…を聞かない!とばかりに、二太子は護衛二人の元へと駆け去った。

 なんとか異論を唱えようとした口は途中で止まり、マルコはただ、左胸に右拳をつけ、背を正して後ろ姿を見送る。

 

 もう一度振り向いて手を振って。

 二太子の姿は、角を曲がって見えなくなった。


 「…はー…すっごい御方に、会っちゃったし話しちゃったなあ」

 

 哀しいかな、この経験を誰かに自慢することはできない。

 暴漢四人を叩きのめしたのは二太子ではなく、遊牧民の勇敢な少年であったのだから。


 「さて、報告書を書きますかね」

 

 その一点だけ誤魔化せれば、後はあったことを書いていくだけだ。

 しばらくは見回りを強化して、住人たちの不安解消に勤めよう…そう思いながら、先ほどまでいた取調室兼事務室へと戻る。


 しばし、紙に文字を増やす作業をもくもくと行っていると、扉が開いた。

 布ではなく、ちゃんと木の扉で隔てられているのは、一応、この建物が衛兵詰所であるからだ。

 連行した酔っぱらいを、ちゃんと閉じ込められるように出来ている。

 とても平和な学者通りではあるが、マルコが赴任してから二人ほど、大声で歌いながら脱ぎだす酔っぱらいをご招待したことがあった。


 「隊長」

 「なんですか?あ、ヨザ爺さんは…」

 「一月は休ませるようにと、お医者が仰ってましたが、はて、守るかどうか…」

 「あはは…奥さんにも言っておかないとなあ」

 「まあ、来ちまったら奥で寝かしますよ。あまり家においといちゃあ、かかあがイラついて砕けた肩に鍋を振り下ろすかもしれねぇ」

 

 そう言って、最年長の老衛兵は肩を竦めた。

 この詰所の衛兵たちは、死ぬまで働くと常に豪語している。半分以上趣味のようなものだ。

 それはお元気で良いけれど、肩を折られているのだし、少しは大人しくしていて欲しいと切実に思う。


 「ヨザの野郎は良いとして、報告書を書き上げたら大所まで持ってこいとの御命令ですぜ」

 「まあ、そうなるよねえ」

 

 衛兵の拠点は大都のあちこちにある。歓楽街や繁華街、大通りを担当し、百人以上が勤務する都市衙から、マルコ達が務める小さな詰所まで様々だ。

 そして、アスランの他の組織がそうであるように、独立していることはない。詰所は規模によって三つから五つばかりに纏められ、統合する大所があった。


 今回のように、複数の詰所の管轄が重なる場合は、大所で犯人の拘束や調査を行う。

 そもそも、ここの詰所には犯人を入れておく牢などもない。今回の暴漢も、医者の所から大所へ連行されたはずだ。


 「しかし、お気をつけて。ボヒル商会、大隊長殿の懐をずっしり重たくさせています。どんな難癖付けてくるか」

 「残念ながら、罪に相応しい罰を与えるのは難しいだろうね」


 仮に、の話だ。考えたくもないけれど。

 ボヒル商会の馬鹿息子が。

 子供に襲い掛かって、本当に子供が怪我をしたり、亡くなったりしていれば。

 間違いなく、罪に相応しい罰が与えられた。


 どれだけ大隊長が賄賂に見合った働きをしようと、さらに上の御史台が乗り出してくる。

 断事官まで乗り出してくるかは、殺された子供の人数によるだろうが…すくなくとも、賄賂が通用する相手ではなくなり、馬鹿息子は処刑か棒打ちの上、奴隷落ちだっただろう。


 しかし、今回、その凶行は防がれた。

 無理を通せば、若者同士の喧嘩くらいにまで矮小化できる。


 それはマルコも予想していた。だが、ボヒル商会としても、もう馬鹿息子を野放しにはできない。

 ボヒル商会は儲かっているが、大商会とはお世辞にも言えない規模だ。

 子供を襲った極悪人の息子を野放しにして、再び凶行を起こさせた…などと言う話が広まれば、あっという間に商売相手は手を引く。

 商売敵も、ここぞとばかりに噂を盛りつけする努力を惜しむまい。


 「俺も、あのドラ息子を罪に問うより、大人しくさせる方で話を持っていく。そんなに、大隊長殿の思惑と変わんないでしょ」

 「…こりゃあ、ジジイの戯言ですがね」


 伸びをしながら苦笑を浮かべるマルコに、しかし、老衛兵はニコリとも笑わなかった。

 眉間の皺はますます深くなり、口がへの字に曲がる。


 「馬鹿っちゅうんは、取り返しがつかなくなってから、失敗したことに気付くから…馬鹿なんでさ」

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