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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
83/92

主が走れば運命も走る(人事を尽くして天命を待つ)7

 「よい月だ」


 新円に近くなった月を見上げるのは、その月と同じ色の双眸。

 黄金月の夜《アルタンサルン・ハラム》はもうすぐそこだ。影踏みの歌が高音低音、上手い下手関わりなく大都中に響き、大人も子供も笑って美しい月の夜を祝う。

 

 今頃は、大都で弟も同じ月を見ているだろうか。

 続く言葉は胸中だけに留めた。


 本陣から少し離れた岩場に、自分以外の人影はない。こっそりと天幕《ユルク》を抜け出し、ただ一人で月を見上げている。

 しかし、総大将であり、一太子である自分に全く護衛がつかない、という事はないだろう。

 望郷の想いにとられるような言葉は慎むべきだ。今、アスランの東の果て、カーランの西端にいる誰もが、故郷を遠く離れている。

 

 遊牧の民は、「自分の土地」に対する思い入れが少ない。

 だが、風の匂いすら違う遠く離れた土地にいては、さすがに彼方の故郷を想わずにはいられない。

 将兵をそんな場所に連れ出しているのは自分だ。己がめそめそと望郷を口にしては、士気に関わる。


 アスラン王国とカーラン皇国の東の国境、トルファン地方。

 そこに向かって真カーラン皇国軍が北上を始めた、援軍を願いたいとカーラン皇国側から要請が届いたのは、三月ほど前の事だった。


 身も蓋もない事を言えば、カーランはアスランの同盟国ではない。

 むしろ、建国以来の敵国とも言える。


 そんな関係が変化したのは、トールの父であるモウキの存在が大きい。

 出奔して放浪中、傭兵としてカーラン軍を渡り歩いたモウキは、現カーランの中枢を担う人々と知り合い、交流を持った。

 アスランの一太子とはバレてなかったよ~と父は言うが、その肩書がなくとも目立つおひとである。英傑は英傑を知るというか、類は友を呼ぶと言うか。


 その友達が困っているなら助けたいし、カーランの商人が来なくなるのは困る。

 そんな情と利の二つが重なって、トールが軍を率いて援軍に赴いたのだ。


 それについて否やはない。アスラン王の命令に、大アスランの忠勇な騎士たる自分が逆らうことなど、あり得ない。

だが、それはそれとして、弟に会えないのは辛い。辛いにもほどがある。


 年が明ければ、弟は士官学校に入学する。

 他の生徒のように寮生活になるわけではないから、ずっと帰ってこないというわけではないが、今までのように昼の空いた時間に顔を見に行くことが出来ない。

 弟不足は深刻な問題である。なので、今のうちに十分に摂取せねばならないというのに、遥か東の果てまで遠征に赴いている。


 トールはもともと、戦う事自体が好きではない。

 己を鍛え、強さを求めることは好きだ。しかし、それを用いて戦う事は、厭いはしないが嬉しくもない。

 やらなければいけないからやるが、楽しいと思ったことは一度もなく、弟に会えない寂しさを埋めることなどありえない。


 (何故俺は、弟を常に感じられるとかそういう方面の才能ではなく、人を殺す方向に特化した才能を持って生まれてしまったのだろうなあ)


 月を見上げれば、溜息と共に泣き言が漏れる。


 持って生まれた才は、言われるまでもなく自覚している。

 統率力や戦況を見極める判断力。兵を手足のように動かす指揮能力。

 そして、強大な魔力。


 トールがその気になれば、敵本陣…いや、敵国の玉座の前に転移し、王そのものを殺害することも容易だ。

 そこまでしなくても、広範囲を薙ぎ払う魔導を用いて敵軍を打ち砕くことなど、造作もない。


 しかし、そうした使い方は、父は勿論、祖父にも固く禁じられていた。トール自身も実行するつもりはない。

 やるとすれば、やらなければ軍が壊滅しアスランが滅ぶ。そのぐらいまで追い込まれた時くらいだろう。


 しかし、現状、アスランがそんな事態に陥ることはありえなかった。


 此度の戦も、苦戦してもおかしくはない一戦ではあった。

 救援に赴いた街の太守が裏切っており、真カーラン国と挟撃せんと企んでいたのだから。諜報部隊がその企みを掴んでいなければ、苦戦は必至だっただろう。


 太守軍と真カーラン皇国軍、二軍合わせれば、トール率いる星龍親衛隊とアスラン軍より多かったはず。

 しかし、あくまで合わせれば、だ。そして、挟撃が成功していれば、である。

 

 わかってさえいれば、各個撃破は容易い。挟撃を目論むという事は、両軍の距離は大きく開いている。見破られたからと、速やかに合流できないほどに。

 片方ずつなら数に劣り、練度に劣り、士気に劣る。アスラン軍に抗えるはずもなかった。


 もし、軍を率いていたのがトールではなく、十二狗将の誰かであったとして、も結果は変わらなかっただろう。優れた戦略眼を持つからこそ、トールはそれがわかる。

 だからと言って、自分が嫌なことを人に押し付けるのは申し訳ないので、自分が出陣を命じられて良かったとは思っているのだが。


 (俺の過剰な強さは、何のためにあるのだろうか…)


 もちろん、アスランの為にはトールが強いのは良い事だ。

 絶対に暗殺できない王というのも、とても良い事だ。


 しかし、だからと言って、単騎で一軍…いや、一国を相手にできるほど強い必要はあるのか?


 あるに越したことはない、と納得すればいい。

 だが、どうにも心の底から頷くことが出来ない。


 トールの事を、人は開祖クロウハ・カガンの再来、五代ジルチの生まれ変わりと讃える。

 共にその強さが伝承され、今でも崇められている先祖たちは、「強さ」に大きな意味があった。

 劣勢を覆し、強大な敵を討ち破る。その為に、人から逸脱したような「強さ」は確かに必要だった。


 だが、自分はどうか。


 強大な敵など、アスランにはもう存在しない。

 トールが全力を振るわざるを得ないことなど、きっとないだろう。


 ならば何故、自分はこんな力をもって生まれたのか。


 答えなどでないことは理解《わか》っている。だが、それでも、問う事もやめられない。

 贅沢な悩みだ。必要もあり、血を吐くように強さを求めるものは、きっと世界にたくさんいる。

 少なくとも、トールと同じ悩みを抱えるものより、はるかに多いに違いない。

 

 「戻るか」


 ついてきている護衛が身を隠すか、先に戻れるように、次の行動は大きな声で独り言ちた。

 トールの腹心たちは、こういう時についてこない。きっと、自主的に護衛をかって出た騎士らは、真面目でトールに慣れていない者たちだ。


 見つかれば、お互い気まずい思いをする。

 いくら自分の親衛隊騎士とて、人見知りは発動する。挙動不審のトールを見て、主の不興を買ったと落ち込まれるのは申し訳ない。


 敵には気を遣う必要がないので、幾らでも平然とできるが…味方は駄目だ。

 まして、己に身命を預け、忠誠を誓ってくれている騎士たちを、哀しませたり落ち込ませたりしたくない。

 

 (やはり、俺に必要なのは、弟のように誰とでも打ち解け、親しみやすいとか、そういった才能ではなかろうか?つまり、弟はやはりアスランの宝、という事か…)


 己の強さの必然性に答えは出ない。

 ならばとりあえず、今夜の問答は「弟はアスランの至宝である」といういつもの結論で良いだろう。


 りん、と音が鳴った、気がした。 


 「…!!」


 頷いて歩き出していたトールの表情が、一瞬で切り替わる。

 やや口の端を持ち上げた不審な微笑みから、鋭い戦士の眼差しへと。


 (結界…!?)


 やられた、と思ったのは一瞬。

 すぐに思考も神経も、次に来るであろう攻撃に向けて研ぎ澄まされる。


 トールだけでなく、立っていた岩場全体を覆う結界は、おそらく外からは見えない。いや、中にいたとしても、トールほどの魔導士でなければ、囚われたことに気付くのは難しかっただろう。


 空間をすぱりと切り取って、「中」と「外」を完全に分離させている。

 もし、この「中」でトールがどのような攻撃を受けたとしても、「外」にいる護衛の騎士たちは何も見る事ができまい。

 いや、もしかしたら、トールが急に消えたように見えているかもしれない。

 さて、どうしてくれようかと静かな吐息を漏らした、その瞬間。


 空間が、裂けた。

 夜空が、黄金の光を纏う月が、びりびりと裂けていく。


 (…これは…!?)


 転移陣ではないことは、即座に理解できた。

 陣がないのも勿論だが、本質が全く違う。

 転移陣は、「彼方」と「此方」を結ぶもの。空間自体を歪め、裂くものではない。

 

 (あれを呼び寄せた時と、同じような…?!)


 雷帝リューティンの刻印を授かったものだけが行使できる御業、『万軍の主』。

 それは異なる世界から、有能な将の魂を雷帝が召喚し、肉体を纏わせて蘇らせるという奇跡だ。

 その時に感じた感覚に、この裂け目は近い。


 時空を切り裂き、何かが「此処」にやってくる。


 その何かは、まるで夜を割る日の出のように、現れた。

 眩い光を纏い、仄かな熱を放ち、裂け目から降り立つ。

 

 優雅に広げられる翼は、漆黒。いや、全員を覆う何もかもが、艶やかな黒。

 飛竜ほどもある体を支える脚、その右脚の爪一本だけが不自然に長い。

 そして、飾り羽のように伸びる後頭部の羽毛、一筋だけは真紅の色。

 

 「ナ…」


 その姿を見て、名が出ないアスラン人はいない。


 「紅鴉《ナランハル》…!!」


 太陽を導き、その知恵で人を護る、偉大な神獣。

 

 <トール。悪いが、あまり時間がない>


 びくりと身を震わせ、トールは思わず耳を抑えた。

 その<声>は、耳で聞いているのではないとわかっていてなお、身体が反射的に動く。

 魔力を直接叩き込まれたような衝撃。常時無意識に展開する魔力障壁がなければ、気を失っていたかも知れない。


 <すぐに大都に戻り、ファンにこれを埋め込め。負傷した脇腹の傷にだ>

 「弟の身に何が!?」

 <それを説明する時間がない。お前が持たん。後はこのものに聞け>


 閉じていた翼が広げられると、何かがずるりとその間から滑り落ちた。

 それは、人のように見えた。意識を失っているのか、動かない。


 無理もない事だ。何せ、下半身の大部分が喪われているのだから。


 <我が力で、語るべきを語るまでは生きている。それが、このものの願いでもあるゆえに。魂の消滅すら厭わず、お前に告げることを選んだものの意志、無駄にするなよ>

 「紅鴉…!御体が…!」


 まるで霧が風に揺らぐように、紅鴉の巨躯が消えていく。

 

 <灯を護れ>

 「紅鴉!!」


 トールの呼びかけと、紅鴉の消滅、どちらが早かったのだろうか。

 そこに間違いなく存在したはずの巨躯は既に跡形もなく、ただ、実在したという証拠のように。

 倒れ伏す人と、漆黒の小さな羽根が一枚、残っていた。


 「…ええい!結界はまだ消えぬという事は、話とやらを聞けという事か!弟、弟の元に早くいかねばならないのに!!」


 瀕死だろうと知らない人に話しかけるのは怖い。

 だが、瀕死の怪我人を無碍に放り出すことも、トールにはできない。

 何があったか聞くよりもまずは治療だと、肌身離さず持ち歩いている万能薬《エリクサー》の瓶を取り出しながら、倒れ伏す人影へと駆け寄り、抱え起こす。


 「おい!しっかりせよ!今、治療を…!!」

 「あ…星龍…君(わがきみ)」

 

 ウー老師が使いだし、星龍親衛隊の間で広く使われる己への敬称に、トールは目を見開いた。


 「よか、た…生きて、る…よかた…」

 「俺は無事だ。傷一つない。無事でないのはそなただ!無理に…」


 しゃべるな、と言おうとして、トールは言葉を飲み込んだ。

 トールには、生き物の身体を流れる電流が視える。

 それは、言い換えれば生きているものだけがもつ光だ。それが、目の前の者に見えない。


 「なら、んはるを…」

 「それは、弟の事か?」

 

 こくり、と頷かれる。焦点のあっていない目は、微かに微笑んでトールに向けられていたが、おそらくもう、何も見えていないだろう。


 「黄昏の君の眼が、ナランハルに、しこまれて」

 「なに…!?」

 「紅鴉の羽根を埋め込めば、浄化、できる、から…」

 「わかった…!すぐにでも…!」

 「まっ…て。大事な事、伝えなきゃ…」


 伝える。その為だけに、紅鴉によって動く死者。

 だが、間違いなく、それは死者の尊厳を穢すような無体ではない。彼が望んで、己と言う全てを差し出して、叶えられた執念《ねがい》だ。

 

 だからなのだろう。途切れ途切れだった声は滑らかに、「大事な事」を紡いでいく。


 ファンが灯の刻印を受け取ったこと。

 北の地で友人に裏切られ、負傷すること。

 アスランの討伐を逃げ切った南フェリニス王太子は、ファンを依り代に万魔の王、黄昏の君を顕現させること。

 そして、大都の大部分とアスラン王族を喪いながらも、撃退に成功すること。

 

 「マース神の、御業で、時を遡ってきたんです。そんなひどい事、絶対に起きないように」

 「…そうか。大儀だった。よくやってくれたな」


 トールの言葉に、二十代半ばに見える青年は嬉しそうに笑った。血に汚れた顔に見覚えはない。

 おそらく、未来で出会う予定の者なのだ。その時まで、彼の顔を覚えておかなくてはと、トールは内心に誓う。

 

 「えへ、うれしいなあ…。星龍君が、生きてて、褒めてもらえて…」

 「…。そうか、俺は死んだのか」


 何が、過剰に強い、だ。

 肝心な時に、何も守れなかったくせに。


 「灯がないと、魔には勝てないから…灯さえあれば、星龍君が、あんなのに負けたりはしないから」

 「そうか。ならば、次はそれを証明する。俺は決して、何にも敗れない」

 「うん…!絶対、絶対だよ」


 さらさらと、末端から青年の身体が崩れていく。

 紅鴉の力と、本人の強い意志で保たれていた肉体が、いや、魂すらも崩れていく。

 その先に在るのは、完全な消滅だ。


 それでも、彼は伝えることを選んだ。

 そして、生きているトールに遭うことを願った。


 ならばトールにできることは、よくやったと褒めて、覚えておくことだけだ。

 彼の存在は消えない。トールの記憶の中に、トールが生きている限り在り続ける。 

 

 「絶対、負けないでねぃ…星龍君《わがきみ》」

 「約束しよう」


 最後に残ったのは、満足げな笑み。

 そして、澄んだ音を立てて転がった、赤い石。

 飾りだったのだろうか。それは先ほどまで、彼の額で輝いていた。


 小さな羽毛と、小さな石を、トールは慎重に手に取る。


 紅鴉の羽根は、弟を救い、アスランを救う神の力。

 そして、赤い石は。


 「忠心の証、確かに受け取った。その働き、忠節…見事であった」


 しばし瞑目し、呼びかける。


 「オドンナルガ!」


 己の名を呼ぶ声に、トールは結界が消滅していたことを知った。

 駆け寄ってくる騎士らの中に、ラーシュとウー老師…こちらはちっとも走っていなかったが…の顔を見つけ、頷く。


 「俺は今すぐ、大都に戻る!ラス、後を頼む!」

 

 いつでも頼りになる親衛隊長は、僅かに目を見張り…それからすぐに、左胸に拳をつけた。


 「御意!」

 「ありがとう。それから、ウー・グィ!お前はともに帰還だ!」


 名を全うに呼ばれ、ウー老師は片眉を跳ね上げ、それから恭しく拱手と共に頭を下げる。


 「引継ぎは常に万全なれば。今すぐの帰参、問題ございませぬ」

 「よくやった。行くぞ!」


 展開させる転移陣の「彼方」は、無論、大都だ。

 

 「もう決して、俺は負けぬ。たとえ、万魔の王であろうと」


 この瞬間、トールは己の才能の意味を知った。


 弟と灯を護ること。

 そして、不敗であり続ける事。


 名を知ることすらできなかった、忠臣との約束。

 それを守り、違えぬために。


 己は誰よりも強く生まれたのだと。


***


 「誰かあるか!」

 「此処に!」


 転移したと同時に重みを増したホンランを抱えながら、トールは声を張りあげた。

 その呼びかけに応え、駆け寄ってきた騎士たちに、ホンランを預ける。


 「ホンランを連れて御史台に。ココ、そなたも共にだ。何があったか、到着したらすぐに書面に纏めよ」

 「ぎょぎょ、御意に!」


 オツタを抱えたまま、ココチュは力強く返答する。

 ホンランが説明できれば手間はないが、既にその意識はない。画砦の解除が間に合わず、破壊されたのだろう。

 

 騎士三人が御史台に同行し、駆け去って行く。その後ろ姿を確認した後、トールは残った騎士らに向けて口を開いた。


 「俺は宝物庫にて用を済ませた後、すぐにまた出る。出撃準備を整えておいてくれ」

 「御意!しかし、すでに軍師殿が百人隊を三隊出撃させ、竜騎士隊を待機させております」

 「出撃部隊の指揮官は」

 「ラーシュ親衛隊長《イル・ケシク》にございます」

 「わかった。まったく。腹が立つほど使える奴だ」


 トールの愚痴のような誉め言葉に、宝物庫の警備にあたっていた騎士は口許を緩ませた。

 星龍宮の宝物庫の警備を任されるような騎士だ。星龍親衛隊に属して久しく、トールとウー老師とも長い付き合いである。

 いつもは「スットコドッコイ」だの「アンポンタン」だのと軍師を罵っているが、それはトールが「悪口を言えるほど信頼している」証左であることは良く知ってた。

 

 「さらにここに収められている武具が必要になるやもしれん。お前が問題ないと思ったのなら、構わぬ。通せ」

 「御意に」


 星龍宮の宝物庫には、武具だけではなく式典などに使用する装飾品や、代々の一太子へ贈られてきた様々な品が収められている

 それ故に、本来はトールが同行しなければ決して中に入ることはできない。例え親衛隊の千人長であろうと、入ろうとすれば賊と見做される。

 だが、それを許可するとトールは伝えた。尋常ではない事態が起こっているのだと、騎士は改めて息を呑む。

 

 しかし、それで狼狽えるような粗忽者には、宝物庫の番人は務まらない。

 騎士は力強く左胸を叩き、持ち場へ戻った。


 「…俺は本当に、部下に恵まれている」


 宝物庫の扉に手を置き、トールは小さく呟いた。

 魔導で幾重にも施錠された扉は、鍵となるトールの魔力を感知し、おのずと開いていく。

 しばし、その魔導鍵の発動を止めるよう陣を操作した後、トールは足早に中へと進んだ。


 滅多に足を向けることもない宝物庫だが、一応、何処に何があるか程度は把握している。

 まず向かったのは武器が収納された一角だ。

 長柄の武器は壁に掛けられ、そうでないものは長櫃に収められて棚に置かれている。

 

 ざっと一瞥し、手に取ったのは精霊銀で刃が作られている槍と長柄斧だ。どちらも名のある魔技師が最後の仕上げとして、魔力付与がされている。

 精霊銀は鉄よりも軽いが、成人男性の背丈を軽く超える長柄武器は、当然全長に見合った重さである。それをトールは、まるで木の枝でも持つかのように、軽々と片手でまとめて持った。

 空いた手で長櫃を引き出し、その中に在るものを無造作に掴みだす。


 久しぶりに長櫃の外に出されたのは、アスランではあまり使われない、幅広の剣だ。柄も長く、両手でも片手でも扱えるようになっている。


 「精霊銀のバスタード・ソードなど面白いと思って買い求めてみたが、無駄遣いにならずに済んでよかった…」


 こんな珍しいもの、ぜひ欲しい!と思い、金貨五百枚程度は出して買い求めた逸品だが、冷静になってみると馬上で振るうには短く、降りて振るうには長すぎた。

 買った時は、確か二日くらい徹夜していて、五日くらい馬乳酒だけで生きていた時だった。やはり、睡眠は大切だ。判断が狂う。


 「シドも俺の弟になったわけなのだし、このままシドに譲ろう。うむ。それが良い」


 義弟の役に立つのだと思えば、金貨五百枚も安いものだ。たぶん。

 少なくとも、宝物庫の片隅で眠っているよりは、武器にとっても望ましいだろう。

 

 三振りの武器を転移させ、トールは踵を返し、扉に向かう…のではなく、さらに奥へと歩を進める。

 足を止めたのは、行き止まり。大きく星龍が描かれた壁の前だ。


 指先で陣を描き、龍の爪が掴む星へと押し当てる。

 その魔力の輝きが星に吸い込まれると同時に、足元に転移陣が展開した。


 揺らめく魔力の色は、金。

 トールが発動させた陣は蒼く染まるが、朝日のような金の輝きは、開祖の手がけた陣であることを示していた。

 

 そこに踏み込み、転移した先は、いうなれば真の星龍宮だ。

 とは言え、金銀財宝や魔剣聖槍の類がひしめいているわけではない。


 ここに収められているのは、ただ二つ。


 「長く待たせたな」


 トールの声は、風と鳥の声に紛れ、散らばっていく。

 頭上に広がるのは澄み切って遠い、冬の青空。

 しかし、足元には星の飾り(オドンチメグ)の花が咲き誇り、青草の上には鮮やかに色付いた紅葉が散っている。

 若葉を茂らせる大木の枝では小鳥が雛を育て、その賑やかな親子の語らいの下では、鹿が恋の歌を物悲し気に吠えていた。


 春夏秋冬。すべてがこの場所に同時に存在し、廻っている。

 時を司り、季節を巡らせる星龍《オドンナルガ》の力が強く作用するこの場所は、尽きぬ山(ヘルムジ)の山頂付近にあった。

 

 本来なら、決してやまない吹雪が荒れ狂う、空など百年に一度も見えない場所である。

 しかし、星龍の力がこの場所を覆う限り、吹雪が襲い来る事は決してない。

 いや、むしろ吹雪も息を吸い込むだけで肺が凍りつく極寒も、この場所を護るために在るのではないかと、トールは思っていた。


 アスランが建国されるよりも遥かに前。

 星龍はこの地を己の塒と定めた。

 とは言え、この場所にその体を横たえるのは百年に一度もないらしい。悠久の時を過ごす神獣にとっては、百年など一日にも満たない時間なのかもしれない。


 代わってこの地に在り、星龍の寝床を護るのは、ゆっくりとトールに歩み寄ってくる一頭の獣だ。

 長い四足の先には二つに別れた蹄があり、全体の印象は鹿に似ている。

 しかし、鹿には風に揺れる白金の長い毛はなく、鱗をはやした胴体と同じ長さの太い尾もない。

 まして、螺旋を描きながら天に向かって伸びる角も持ち合わせていなかった。


 <ついにあなたのうんめいが、やってきたのですか>

 「ああ、そうだ。守護者《スレン》どの」

 

 守護者と呼ばれた獣は、微かに長く垂れた耳を揺らした。

 

 <そうですか。しかし、どうぞしなぬように。あるじさまは、あなたにあうのを、たのしみにしておられますから>

 「問題ない。俺はもう、決して負けない」

 <ならば、あんしんですね>


 守護獣は、ふふ、と長い毛で覆われた口許を綻ばせた。そして、くるりと向きなおる。

 そのまま歩き出す脚を、トールは追った。四つの蹄は草の上に置かれているが、草は折れることもなく、小さな花も、その蜜を貪る虫も、傷付いた様子すらない。

 トールも魔力を具現化し、空中を歩んだ。この地に生きるもの全て…小虫一匹、草の芽一本にいたるまで、星龍の所有物だ。

 中に生きる生き物同士で食いあい、その命を繋げることは許されているが、トールは余所者である。許可はない。

 

 守護獣が足を止めたのは、一際巨大な樹の前だった。

 生い茂る葉は、ざっと見ただけで三つ四つは形が違う。

 弟を連れてきてやれば、どれだけ喜ぶかと思うが、残念ながら自分の魔力だけで、あの転移陣を展開させられる「一太子《オドンナルガ》」にしか、この場所を訪れる資格はない。

 つまりは、トールの前にこの地に入れたのは開祖クロウハ・カガンだけだ。

 

 <どうぞ>

 「ありがとう。守護者殿」


 守護獣の横にトールが立つと、大木の幹が動く。

 ゆっくりと開いていく洞こそ、真の星龍宮、その宝物庫。


 ぽっかりと開いた洞の中に、トールは両手を差し込み、目当てのものを慎重に持ち上げた。


 冬の陽ざしを浴びて、静かに輝くのは、対の腕輪。

 艶やかな絹糸を束ねたように見えるそれは、アスラン建国の際に、星龍より守護の証として贈られたものである。


 『星龍の翼(オドンナルガ・リーン)』。

 星龍の鬣で編まれた、無双の宝具。

 

 洞から出された『星龍の翼』は、生き物のように動き、トールの手首に巻き付く。

 その瞬間、視界が揺らぎ、立ち眩みを起こすほどの魔力が吸い取られた。


 <いきていますか>

 「問題ない。この地に満ちる魔力が、すぐに俺を満たしてくれる」


 トールの言葉は、強がりではない。この星龍の塒には常に高濃度の魔力が満ちている。

 そしてその魔力は、トールに非常に馴染むのだ。

 いうならば、常に魔力回復薬を飲み続けているようなものである。 

 この地にいれば、トールはどれほど強大な魔導であっても使いこなせるだろう。不老不死さえ、酔っぱらいの戯言ではなくなる。

 

 しかし、この地に籠り、星龍のものになるわけにはいかない。

 戻らなくてはならない。今度こそ、守るために。

 弟を。約束を。


 もう一つの宝物を、トールは再び洞に手を差し込んで取り出した。

 掌で輝くそれは、赤い石。


 「…今度こそ」


 額飾りだと、思っていた。

 抜けてしまっているが、かつてはかなり強い魔力を内包していたのだとわかる。

 ほとんど空になった今でさえ、その残滓を感じ取れるほどに。


 何故、これが残ったのかはわからない。

 彼にとってはとても大切なもので、それ故に想いが強く残り、消滅しなかったのかもしれない…などと考えていた。


 そうではなく、もしや…と考えたのは、アステリアにいるファンから受け取った手紙を読んでからだ。

 そこには、新しく仲間が増えた事、シラミネ人のヤクモと言う少年だという事と、シラミネ人についての記述があった。

 シラミネ人は、額に角が生えることがあり、角には強い魔力が宿ると、ナントカ博士の論文に記載されていたよ…と、つらつらと二十枚ほどにわたってシラミネ王国がどこにあるか、文化風習、ヒタカミとの関係についてが書き記されていた。


 その手紙を三十三回涙ながらに読み返していた時、不意に閃いたのだ。

 あの石は、額当ての飾りではなく、角ではないのか?と。


 弟が聞いていた通り南フェリニスで襲われた後、未来を変えるために討伐軍は出さなかった。

 ファンが生きている限り、何時己の罪が問われるのかと、当然ながら南フェリニス王太子は落ち着くまい。ならば、暗殺者を必ず差し向ける。

 無論、大都にいれば防ぎきることは容易だが、当のファンが匿われ、隠される生活を拒否した。

 それならしばらく、身を隠すね!とアステリアに行ってしまい、この時点で未来は大きく変わっている。


 ファンが助けた少年は、人買いに売られるところだったという。

 偶然そこに、ファンが居合わせたことで、彼の運命も未来も、大きく変わった。


 もしかしたら。

 ファンが、アステリアに行かなかった未来では、少年は売られアスランに流れ着いたのではないだろうか。


 そして、その未来では、彼を助けたのは…自分《トール》だったのではないか? 


 トールはその時も星龍の塒に赴き、この石を取り出した。 

 思い付きにすぎない推測を調べるには、この石が絶対に必要だ。


 そしてシラミネについてこっそりと調べはじめ、多少の誤算や失敗はあったものの、己の推測は間違ていないと確信に至る。

 上空からシラミネの様子を見てみようとムカリを駆って近付いたとき、嵐に遭って一時避難したシラミネ山中で、ヤクモの姉と出会ったこと…それはもう、絶対にしろには言えない。

 アスラン以外では、高貴な身分の男女は、顔を合わせるのさえ憚られるのだという。それではおちおち街にも行けないではないか、と驚いたら、ふつーは行かねぇっすわ、と呆れられたが。

 

 人を使わず…ウー老師とマルトにさえ内密に事を進めたのは、弟の友人になった少年に執心していると言われる事。それを避けたかったからだ。

 あの二人が、トールを不快にさせるような真似をするわけがない。が、人を使えば秘密は漏れるもの。 

 まだ妻を娶っていないという事は…と邪推されて、あちこちの年若い令息が送り込まれるような事態は絶対にごめんだ。


 もちろん、送り込まれたらそういう事なのかと思ったと、厳しい事で有名な星龍親衛隊の訓練か、「墨の渇く暇」がないと言われる書記官の補佐に、叩き込むつもりではある。

 しかし、事態そのものがない方が良いに決まっている。


 「では、俺は戻る。守護獣どの」

 <つぎはもっとゆっくりしていきなさい>

 「ああ。俺の推薦する甘味も持ってくる」

 <それはたのしみですね。きたいしていますよ>

 「任せてくれ」


 守護獣がニコリと目を細めた瞬間、視界が歪む。

 その歪みが消えたトールの前で、自分の後ろ姿が消えて行った。


 時を司る星龍の塒からは、赴いた後の指定した時間へと戻れる。

 「来た瞬間」へと戻ったのだが、自分を見るというのは少々不思議な気分だ。


 「次は…」


 足元に広がる陣は、蒼い魔力。繋ぐのは己の執務室である。

 ウー老師の指示に問題はない。しかし、情報は共有すべきだ。常に、どんな時でも。


 「戻った!すぐに出るが、何が起こっているかを説明する!」

 「それでヤクモ様はご無事何すか!!」


 応答は、ウー老師ではなかった。

 声と共にしろが飛びかかり、トールの腕を掴む。

 その顔には、はっきりと「喪う恐怖」が刻まれていた。

 

 しろは、元々ヤクモの乳兄弟であり、共に育てば護衛になるはずだったのだという。

 ヤクモが二度目の失踪を遂げた時、僅かな手掛かりを追って大都にやって来て、トールと出会った。

 弟が保護していること、楽しく過ごしていることを説明し、実際におのれの目で見せて、しろはずっと己を縛っていた、「守れなかった」という呵責から解放されたようだ。

 しかし、その重く冷たい鎖は、消えてなくなったわけではない。


 「案ずるな。無事だ。だが、援けがいるやもしれん」

 「どういう事っすか!」

 「俺はシラミネについてほぼ知識がない。ゆえに、お前の手助けが必要となる可能性がある」

 

 言いながら差し出したのは、光を失った赤い石。

 

 それが何であるか、しろにはすぐ分かったのだろう。

 石が跳ね飛ぶのではないかと思うほどに凝視し、唇を震わせる。


 「これは、とある恩人より預かった。もしかしたら、ヤクモに必要になる…かどうかは、まったくあてにはならないが、まあ、必要になった時にないと困るからな」

 「さっぱりわかんねーっす!!ハッキリするっす!」

 「ええい、だから、俺にもわからんのだ!スットコドッコイ!」

 「はい、此方に」


 恭しく拱手するウー老師に、トールはしろに揺すられたまま視線を向けた。


 「手配はよくやった!しかし、弟の御業を受けねば、被害者が増える一方になろう。すぐに伝令を出せ!シミ通り一帯から、民を避難させよ!これ以上、誰一人としてアスランの民を犠牲にはさせぬ!」

 「御意に。すでにそのように、ラーシュ殿には伝えておりますれば」

 「そうか」

 「クロムが召喚されたとなると、若君の御意にございましょう。それに加えて、星龍君の武具まで召喚されたとなると、最悪の札を引いたと見做すべきかと」 

 「まこと、腹が立つほど役にたつ」

 「お褒めにあずかり、光栄の至り。俸禄に反映くだすってもよろしいですぞ?」

 「再来年の予算として、考えておこう」


 トールの返答に、ウー老師はわざとらしく片眉を上げて見せた。

 しかし、そんな顔をしているが、この程度の采配で高く評価をされることを、この胡散臭い軍師は寧ろ恥と捉える。それをトールにはわかっている。

 となると、無事に一人も犠牲者を出さずに討伐が完了した際には、数日の休暇と慰労金あたりが妥当か。


 「行くぞ、しろ」

 「転移陣じゃないんで?」


 なおも揺すろうとしたしろをそのまま肩に担ぎ上げ、トールは廊下へと続く扉へと向き直った。


 「すでに、目的地は交戦地帯となっているだろう。不用意な転移はできん」

 「アンタなら、どうにかなるんじゃ…」

 「万が一、転移に失敗すれば取り返しがつかん。それなら、次に早い手段を使うべきだ」


 しろはすぐにでもヤクモの側に行きたいのだろう。

 しかし、強い魔力を放つモノがおり、一瞬で「何もない空間」から「人や物が存在する場所」になる地に、転移するのは大変に危険だ。

 魔力干渉を受けることもあるが、転移した瞬間に陣の上に障害物があると、互いに無事では済まない。


 それでも、百回に九十九回は成功させる自信はある。

 だが、もし、その一回が今回の一回であれば。


 (弟の、判断が無駄になる…!)


 ファンがトールを戦闘から外そうとしたのは、敵に蓄電させないため…というのは大きな理由のひとつだ。

 しかし、トールが操るのは敵を討つための魔導だけではない。

 転移陣により緊急退避が出来るのは勿論、強化魔導も心得ている。

 少なくとも、「魔」との一戦に於いて、魔導師を外すのは得策ではないだろう。


 それでも、ファンはトールを外そうとした。ジャスワン将軍もそれに賛同した。

 クロムとガラテアは本心で言っていた可能性が高いが、それは良しとして。


 トールを遠ざけた理由。戦力を大きく削ぐことになっても、強行した理由。

 それは、もしも一太子と二太子が同時に命を落とせば、アスランは成人済みの王位継承者を喪うことになるからだ。


 宰相のスバタイも継承権を持つが、モウキと年齢は二つしか違わない。なにより、本人も認めないだろう。

 そうなると、王位は三太子《ダヤン》か四太子《テムル》という事になる。


 それは、派閥同士の諍いに発展する火種だ。

 元第二夫人《トラキナ》に第三夫人《ルシアラ》は擦り寄っていたが、だからと言って我が子の王位継承を諦めて、ダヤンに譲るなどという真似はしないだろう。

 ダヤンの後ろ楯だったトラキナとその実家は潰されたが、繋がっていた貴族全員が族滅されたわけではない。


 なんにせよ、欲と権勢に目の眩んだ連中は、互いの咽喉を咬み千切らんと争い、弟たちの意志や心を踏みにじり、アスランの平和を脅かすのは目に見えていた。


 そうでなく、トールだけが戦死したとしてもだ。

 ファンももう、王位継承権は高いが、絶対に王位は回ってこないなどと気楽にしていられない。

 アスランの王太子という立場は強力な武器にもなるが、身軽に動くことのできない枷にもなる。

 そうなれば、ファンが身動きを取れないうちに、万魔の眼が蠢くかもしれない。 

 

 (だが、お前にもしもがあれば…灯が消えれば、世界は魔の侵攻にあらがう術を喪うのだぞ…!)


 だから、アスランの為に命を使うなと、モウスルの町の外れで言い聞かせた。

 それでも染みついた思想は、一瞬の判断の方向を決めさせてしまう。


 「どーでもいいっすけど、そろそろ降ろしてほしいっすわ」

 「あ、すまん。考え事をしていた」

 「どうせ、若ンことっしょ」

 「それは、まあ、そうだが」


 ぱっと手を緩めると、猫のように身軽に、しろはトールの肩から脱出した。そのまま、足を緩めず駆けるトールについてくる。


 「…ヤクモ様、ご無事なんすよね?」

 「俺にもよくわからなかったが、弟が、弟!が!ヤクモに掛けられていた呪いを祓ったようだ」

 「若様が!?」

 「アスラン歴代王の御力をお借りできるようだ。さすが弟である。素晴らしい」

 「なんにせよ、あとで感謝するっすわ」

 「うむ。心の底から、否!魂の奥底より褒めたたえよ!!」

 「絶対、ドン引くと思うっすわ…」


 すでに引いているしろだったが、速度は緩めない。廊下を駆け、階段を駆け上り、トールから遅れることなく、最後の扉を潜り抜けた。


 「オドンナルガ!蒼風竜騎士隊《フーサルン・ロゥバアトル》、出撃準備は完了しております!」

 「うむ。お前らは俺と共に敵と交戦する!覚悟を決めよ!」

 「是!!」


 屋上でトールたちを待っていたのは、相棒の背に跨る竜騎士たち。

 ほとんど男性で構成される星龍親衛隊に於いて、唯一の女性が集まる部隊である。


 「兄から、さきほど伝声が来ました!すでにシミ通り近くまで到達し、近隣の衛兵たちに伝令を飛ばして封鎖を始めたと!」

 「わかった。さすがラーシュだ。任せておいて問題はない。では、行くぞ、リディア!」

 「御意!全員、飛翔の準備に!」

 「是!」


 竜騎士たちを率いる隊長であるリディアは、ラーシュの妹である。

 そして、星龍親衛隊の中で唯一、マルダレス山の決戦に関わったものだ。

 眷族と化したドノヴァン大司祭とは戦っていないが、その気配を、魔の眷属が放つ邪気を、経験している。

 それはけっして、軽視できるものではない。


 ずしずしと足音を立ててやってきたムカリの頭を、トールは優しく撫でる。

 頼もしい相棒は目を細めて身を低くした。背にはすでに、鞍が乗せられている。


 「また、無茶をさせるが、必ず共に戻ろう。ベンケが怒る」

 「グゥ」


 今日は守護者の儀式があったため、朝食の時から母に預けていた。今頃は、マンマルと共に昼寝に勤しんでいるだろう。

 

 鞍に登り、しろを差し招く。本来なら鞍には二人乗れるが、ベルトで固定してしまうと分離が難しい。

 自分にも鞍へ固定するベルトをつけず、トールの前に陣取ったしろにも、同じくベルトを渡さなかった。

 一年にもみたない付き合いではあるが、低空飛行ごときでしろが振り落とされるはずがないと、判断している。


 だから、竜騎士たちが見たら悲鳴を上げそうな体制のまま、ムカリに「飛翔」を指示した。

 風が渦巻く。急速な浮遊感…いや、実際、かなり浮いていた…を堪えながら、トールは目指す方向を見据える。

 

 「…あの日告げた言葉が嘘偽りでない事、 まずはこの一戦で証明しよう」


 トールの言葉は、風に飛ばされて誰の耳にも届かない。

 いや、それでいい。向ける相手は、この世界にはいないのだから。


 それでも、誓いは誓いだ。 

 相手がいないからと言って反故にするなど、赦される事ではない。


 「黄金の血統(アルタン・ウルク)の前にあるは、勝利のみ…!」

 

 それが決して嘘偽りでない事。

 魔の眷属相手であっても変わりない事を。


 「俺は必ず、お前に証明してみせよう…!」

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