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午後。
太陽も海も、この島で起こっていることとは無関係である。いつもと変わりなくそこにある。燦々と輝き、波を打ちつける。ただ、並木道に吹く風だけはいつもほど心地よくないと思ってしまうのは、それを感じるミア自身が異変の渦中にいるからだろうか。
エンリヒは不在。セントラル・ビルディングにいる。連絡手段はなく、エンリヒに襲撃を知らせることはできない。説明が上手くできないとは思うけれど、それ以前に、ミアたち末席の管理者がセントラル・ビルディングの中へ入る認証はないのだ。管理官たちと連絡を取り合うことはあっても、それは向こうからの受信のみであり、こちらからの連絡は管理官の館にしかできない。事後報告は端末を使わないで直接対面することが義務である。
基本、キメラの捕縛の時間、管理官は館に待機している。不都合が生じたことはない。
本当に、どうしてこんなことになったのだろう。
並木道を皆で歩く。その間もアヒムは端末をいじっていた。エーディトはミアの隣を歩き、ミアの顔を覗き込むようにして言った。
「ねえ、私たちはあまり接する機会もないけど、バルツァー管理官って厳しい方なのよね?」
「うん、まあ」
厳しいのだと思う。他の管理官をよく知らないから、エンリヒが特別なのか、皆あんなものなのかはわからないけれど。
そう、とエーディトはつぶやいた。不安げにミアの腕に腕を絡ませる。
「キメラは生け捕りにしなくちゃいけないのに、昨日……。あのことが管理官に知れたらどうするかしら」
昨日のキメラ、M-57。
翼のある猿のキメラは事切れた後、ケヴィンたちによってその場に埋められた。事実の隠蔽というよりも、ただ見ていたくなかった、それだけの理由であったように思う。ミアたちはキメラには触れなかったけれど、土をかけるのを手伝った。それは早く覆い隠してしまいたいと少なからず思ったからだ。
「あれは非常事態だから」
とりあえず言ったミアの言葉に、その場の何人が納得しただろうか。
「……そうだよな。あのままヤツを放っておいたらどうなってたか。島の外へ逃さなかっただけ褒めてほしいくらいだ」
ヤンが嘆息した。デニスも複雑な面持ちで歩いた。
ほぼ真上の明るい太陽が作る影も小さく、空は晴れ渡っているというのに、この島には拭い去れない暗いものがはびこっている。ミアはそんな風に感じてしまった。
クライン――ミアの唯一の味方だと言う。
では、エーディトたちは味方ではないと言うのか。
クラインの言葉はつかみどころのない靄と同じだ。靄が晴れた時、そこに見える景色はどういったものであるのだろう――。
風に揺れる葉の音が穏やかに耳元を過ぎた。
そうして、エンリヒの館に到達した。その時、ミアは愕然とした。入り口が開いているのである。
普段ならば厳重なセキュリティは、来訪者に害がないと確認されてようやく開く。それが、いつも渋るように重々しく開く扉がパックリと口を開けているのだ。これでは入ってくれと言っているようなもので、セキュリティも何もあったものではない。
「開いてるね。いつもこうなの?」
エーディトが不思議そうにつぶやく。ミアは首がもげそうなほどに激しく横に振った。
「そんなわけない! いつもはしっかり閉まってる!」
「閉め忘れか?」
ヤンが軽く言って頭を掻いた。デニスは眉間に皺を刻んだ。
「そんなはずないだろ。でも、バルツァー管理官が出入りした後ってことか?」
「もしかして、誰もいないんじゃない? セントラルに避難したとか」
違う。
エンリヒは二日前から不在だとクラインが言った。メインコンピューターの不具合のためにセントラル・ビルディングにいると。では何故、キメラはここへ攻め込むのだろう。檻から逃げたはいいけれど、食料がなくなってのことだろうか。
今日、ここを襲うキメラは蛇が主体だと言う。そもそも、キメラは何を食うのだろうか。
思えばミアは詳しく知らない。それに思い当たってぞくりとした。
追い詰められればなんだって食うだろう。小動物や、同じキメラ、そうして人も。
この館にはエンリヒの他にも人がいる。戦うことのできない使用人たちだ。彼らのすべてを連れてエンリヒが出かけたはずもない。彼らはキメラの食料になってしまうかも知れない。
ミアは手元の時計を見た。午後二時五分。――急がなくては。
「行くよ!」
駆け出したミアに、皆は戸惑いながらもついて来る。ミアたちが門を潜っても、閉じる気配はなかった。システムエラーなら、ミアたちにも閉じることはできない。メインコンピューターに次いで管理官の館までもがこの状態だ。このままでは後がないのではないかと不安になる。けれど今は目先の問題から解決しなくてはならない。
バタバタと足音を響かせて敷地の中を走る。いつもならば中庭の噴水が入り口からも見えるのに、水が止まってしまったようだ。それだけでひどく寂れた印象を受ける。主が不在のせいだろうか、活気というものがここにはなかった。
ライトも消えて、館には窓から零れる明かりだけ。玄関先の広間に五人で一度立ち尽くした。薄暗い館の中は不気味であった。けれど、無人ではない。ミアたちの立てた物音に反応して数人の使用人が広間に駆けつけて来たのだ。
一人は女性。ミアたちよりもほんの少し年長で細く儚い。質素な紺のワンピースにエプロンをしている。ひとつにひっつめた黒髪に黒い瞳。
もう一人は十代半ばほどの少年。そばかすが浮いていて、肌が少し黄色い。茶色の髪はあちこち跳ねている。白いシャツに黒いパンツとサスペンダー。そうしてその後ろには幼い子供。気弱そうに少年の陰に隠れている。背も低く、精々八歳くらいだろうか。使用人にしては小さいけれど、この島にいて戦えない以上は仕方ないのだろう。
ミアは怯える彼らに目を向けた。
「バルツァー管理官は? セントラルの方?」
言ってから、自分の物言いは当りが強いのだと気づいた。もっと柔らかく訊ねるべきであった。体を強張らせた三人はとっさに声もなかった。その時、時刻は午後二時十一分。ミアはハッとして振り返った。声とも呼べない何かの音がした。シャー、と擦れるような音。そこに混ざるのは、羽音だ。
「――来た」
小さく舌打ちして、ミアはサーベルを抜いた。その途端に使用人の女性は悲鳴を上げたけれど、ミアはそれに構っているゆとりはなかった。
「みんな、キメラが来るよ!」