2-1
「――間に合ったみたいでよかったね、ミア」
靄の中、ガラスの向こうからクラインの声がする。
そう、ミアは眠っているのだ。
あの衝撃的な出来事の後、結局ミアたちはキメラの死を見届けて宿舎に戻った。
他にどうすることもできなかったのだと自分に言い聞かせながら。
そうしてそのまま夜を迎えた。明日になれば何かが変わるのか、未だに誰も考えられないでいる。
「クライン、本当にあなたが言った通りになった。あなたは何者?」
これは夢だ。それならば、クラインは存在しない。
ミアの夢の中にしか存在しないのなら、クラインはミアの一部と言えるだろう。
そのはずが、違うと感じてしまう。クラインはミアの意識の外にも存在するのだという気がしてならない。
クラインが向こう側で笑った気がした。
「僕は君のきょうだい。すべてを識る者。わかっただろう、僕の言葉が真実だって」
「わかった」
素直にうなずいた。
ああも見事に予知されてしまっては、信じないわけにはいかなかった。特に今は現状が不安定だから尚更心強い味方がほしくなる。
「疑わないで、ミア。僕は君に生きていてほしいから」
生きていてほしいと。そう願ってくれる。
クラインはきょうだいだから。
けれど――。
「クラインはどうしてそんなところにいるの? もっとそばに来ることはできないの?」
ミアとクラインの間にはいつもガラスの隔たりと靄がある。これがなければ、クラインの顔もよく見えるだろう。
そうしたら、現実でクラインを探し出すことができる。
これに対し、クラインは少しだけ悲しそうな声音で告げた。
「ここから先は僕の領域だからね。でも、僕はいつだって君を見守っているから。……そうだね、ミア、明日はエリアB-6だ。エンリヒ・バルツァー管理官の館のすぐそばに――いいや、中だ。中にまで進入する。その時、管理官は館にいない。このシステムの不具合に対応するべく、二日前からセントラル・ビルディングに詰めているからね」
「それは何時頃?」
「午後二時十三分だよ。S-12他数体。黄金色の大蛇の体に蝙蝠の翼。毒を持つから気をつけて」
「うん……」
先にこれをエンリヒに伝えることはできないだろうか。
セントラル・ビルディング――つまり島の中枢にいるのなら、一介の管理者では会うこともままならない。たとえ会えたとしても、あの堅物にクラインの予言を上手く伝える自信がなかった。夢などと口にしたら、まず信じてはくれないだろう。
「ミア、今回は特に複数のキメラがいるからね。一人では駄目だよ。仲間を連れて行かないと」
クラインの言う通りだ。けれど、皆にどう説明すればいいのだろう。昨日のことでさえ、上手く説明はできなかった。
嫌な予感がした、で済ませたけれど、二度もとなればただでさえ不安定になりがちな皆が気味悪がる。考え込んでいると、クラインは重ねて言う。
「大丈夫だよ、ミア。もうしばらくの辛抱だから」
すべてを識る、そうした存在であるクラインがもうしばらくだと言った言葉が一縷の希望の光のように思われた。
ほっと胸を撫で下ろしていると、クラインがうなずいたように感じた。
「頑張って、ミア。生きて――」
このところ、毎日クラインの夢を見る。寝覚めがよいとは言えない。
ただし、クラインがもたらす情報は重要だ。メインコンピューター並みに正確に教えてくれる。
メインコンピューターとアクセスできない今、クラインの夢がミアたちにとって確かなものなのだ。多分今後、キメラが檻を抜け出す頻度は増す。
これまで、管理官の館を襲うことなどなかったのに。この宿舎も安全とは言えなくなってしまうのだろうか。
昨日を境に、今までのような生ぬるい戦いが通用しない、生と死の境界に置かれた。
これまでは管理者たちは優位に立っていたからこそキメラと戦えたのだ。
もう優遇などなく、人も獣も同じ。強い者だけが生き残れる。そういう展開が待っているのだろう。
ミアはベッドの上でぶるりと身震いして肩を抱いた。
その中で生きろと。生き残れとクラインは願う。
それは一体何のためなのか、先に待つものを見たくはなかった。
食料は減りつつある。とはいえ、まだ争奪戦とはならず、食欲のない者がちらほらといた。
ケヴィンのチームの面々も食は進んでいない。パンの欠片を手で弄んでいたけれど、その顔は青ざめている。
ミアはケヴィンたちのテーブルには近づかず、デニスたちチームメイトにだけ告げた。
「今日こそバルツァー管理官のところに行く。ついてきてほしい」
すると、エーディトがいかにも不安げに眉を下げた。それも当然ではある。
「昨日あんなことがあったんだし、大丈夫かしら?」
「大丈夫じゃないかもしれないから行くんだ」
「……どういうこと?」
テーブルの向かいで、パネルを操作していたアヒムが顔を上げた。指を止め、前髪の間からじっとミアを凝視する。
「管理官から何か連絡があったの?」
「ないよ。あったらアヒムにもわかるでしょ」
「……」
パネルにはなんの反応もないのだろう。アヒムは押し黙った。
「でもさ、昨日のお前、普通じゃなかったぞ。なんであそこにキメラが出るってわかったんだ?」
ヤンが難しい表情で机をコツリと叩いた。さすがにこんな時まで笑ってはいられない。
「だから、嫌な予感がしたって言ったじゃない」
「予感って、予知だぞ、あれじゃあ!」
場がシンと静まっていて、ヤンの声が食堂に響いた。
ケヴィンのチームの面々もこちらを注意深く見ている。ミアは困惑し、肩を落とすしかなかった。
「わからないよ。そんな気がしたとしか言えない」
すると、エーディトがミアの隣に回り込み、横からミアを抱きしめながらヤンを睨んだ。
「もう、ミアに変な言いがかりつけないでよ。大体、あそこでミアが何も言わなかったらどうなってたと思うの? みんな助かったのはミアのおかげでしょ」
「それはまあ……」
ヤンばかりではなく、皆が黙り込む。
自分でも説得力など少しもないと思う。他の誰かが同じことを言い出したら追求したくなったはずだ。
エーディトは無条件でミアの味方をしようとしてくれるけれど。
ミアはエーディトの腕からそっと抜けた。
「じゃあ、午後になったら出かけよう。皆、よろしく」
「午後から? 今からでもいいけど」
デニスが不思議そうにつぶやいている。ぎこちないと思われたくなくて、そちらに顔を向けなかった。
「いいよ、急がなくて」
クラインが告げた時刻は昼過ぎだ。あまり早く向かってはいけない。
そういえば、毒を持っているキメラだと言っていた。血清がこの状況下で手に入るだろうか。
一応、宿舎の医務室を見ておくべきか。
トーストを齧って朝食を済ませると、ミアは医務室へ向かった。
備えつけのパネルで薬品の在庫をチェックする。医務室には基本的に誰もいない。
重傷者が出た場合はセントラルの方に運ばれるのだから、ここでは応急処置ができる程度の医療器具と薬があるのみだ。
毒に対する血清も常備されている。速やかな処置が望ましいのだから、あって当然か。
血清を持ち出したいけれど、誰が持ち出したのか記録が残ってしまう。
その場合、理由が上手く説明できない。もちろん噛まれないように注意するけれど、もし嚙まれてもここに血清があるのなら、誰かが急いで取りに走れば間に合うと思っておこう。
それにしても、とミアは複雑な心境だった。
エンリヒは自分の館までキメラに侵入されるとは想定していないのだろうか。あの堅物でもさすがにメインコンピューターの不具合には狼狽してそこまで気が回らないのか。
管理官の館にはこれといって重要なものはなく、顧みないだけとも言えるけれど。
まあいい。とにかく、知ってしまった以上は放っておけない。
キメラを檻に戻すことができないのなら、ケヴィンのような手段も必要になってくる。気は進まないけれど、その覚悟も必要だった。
気が進まないのは、作られた生命体のキメラであれ、命を奪うことを罪深いと感じるからではない。
そうではなく、自分が汚れるのが嫌なだけなのかもしれない。




