5-4
クラインがそこにいる――。
その部屋は薄暗く、コンピューターに囲まれた金属製の冷たい机が置かれているのみであった。とはいえ、壁にはそれぞれの部屋を映し出すパネルがあり、それぞれの画面から発する薄明かりがまるで月光のようにほの明るい。
コンピューターの前で何かが動いた。確かに、そこに誰かがいる。それを感じてミアは身を固くした。背後のリーンハルトも同様である。そんな二人を笑うかのように、クラインは言った。
「ミア、やっとだね。やっとこれで君に真実を語れるよ」
これがクラインの肉声。けれど、これではまるで――。
ミアは足を一歩進めるのにひどい疲労感を覚えた。それでも、体に鞭打って大型のコンピューターの裏に回る。リーンハルトも同じようについて来た。
クラインは椅子をくるりと回転させ、画面の薄青い光に照らされながら微笑んだ。
幼く可愛らしい顔立ち。くすんだ草色の髪。小さな、手。
「クライン……?」
「その名は仮だと言ったよね。僕にとって名前なんて大した問題じゃない」
あどけない瞳が不意に闇を引き寄せる。その目は幼子のそれとは違った。
「ユリ、アン」
「それもかりそめかな。何も知らない、お優しいエンリヒ様が憐れな僕にくれた名だ」
小さな、ユリアン。
彼が小さき者。
フラスコの中のホムンクルス――。
「最初から喋れたの? どうして喋れない振りをして……。それに、どうしてもっと早く教えてくれなかったの? いくらだって機会はあったはずなのに……」
口の利けない憐れなユリアン。
幼く弱い存在。
そんなものはすべて偽りであったのか。
目の前の子供は、その小さな手の平に島の命運を握り込んでいるのだから。
ユリアンは顔を引きつらせるミアに向け、無邪気に微笑んでみせた。
「順序ってものがあるからね。いきなり僕が君のきょうだいだと言って、そうしたらミアはどうしていた? まずは僕の言葉を信じてもらえるように働きかけたんだよ」
「夢……あれは本当に夢? あたしがユリアンと話していたのは夢の中でのこと?」
「まあね。すべてに説明が必要ならしてあげるけれど、きっと理解は難しいと思うよ。人は昔から、自らの理解の及ばないものを魔術とか名づけてわかったような振りをしたよね。理解できないものは人知を超えた力と結論づけておけばいいんじゃないかな。僕の存在そのものが、世間から見たらそういうものだからね」
あはは、と笑う声は子供のものである。けれど、彼は子供ではない。愕然とするミアの背後で、リーンハルトが感情を抑えた声を発した。
「……君がホムンクルスか。この島をどうするつもりなんだ?」
すると、ユリアンは笑うのをやめた。ひどく冷めた興味の薄い瞳をする。小さな右手をパネルの上に添え、そうして短く息を吐いた。
「さあね。リーンハルト・グレーデン、そんなことよりも、君たちの一族がしていることをちゃんとミアに説明してみせたらどうだい?」
「え?」
ユリアンの言葉に、ミアはリーンハルトを見遣った。その表情の中には戸惑いが垣間見えた。けれど、それを覆い隠すようにリーンハルトは表情を消す。そうしていると、どうしようもなく近寄りがたい。美しい容姿が鉄壁の鎧になる。高貴な、違う世界の人だと思える。事実、そうなのだ。リーンハルトはどんなにそばにいてもミアとは別の世界の人である。
何も答えないリーンハルトに代わり、ユリアンは更に饒舌になって行く。
「可哀想なアヒム。どうして彼は狂ったのかな? ねえ、リーンハルト・グレーデン。ミアに語ってあげてよ。真実をさ」
歌うような声に、リーンハルトはユリアンを鋭く睨むだけであった。そうしたリーンハルトの反応を楽しんでいるのか、ユリアンは笑んでその場で何か操作をした。その途端、壁のパネル一面にエンリヒとアヒムの様子が映し出される。
「アヒム!」
閉じ込められた二人は、互いの肉体だけを武器に戦っていたわけではない。エンリヒはリーンハルト同様に拳銃を仕込んでいた。それを抜き、エンリヒはアヒムの喉を至近距離で撃ち抜く。
――嘘だ。
こんなのは嘘だと否定しようとするのに、ミアはどこかでこの光景が現実と認めていたのかも知れない。体の奥底から感情が煮えたぎるように沸き起こり、それが叫びとなった。
互いに音声は届かない。ミアの叫びも虚しく、倒れたアヒムの体から赤い色が床に広がって行く。それは器から水が零れ落ちたようなものだった。人は血の器に過ぎないのかという気になる。
返り血を浴び、肩で息をしていたエンリヒは、その絶命を確認すると血溜まりの中に膝をついた。疲れ果てたのか、緩慢な動きだった。
手を伸ばすと、見開かれたアヒムのまぶたを無骨な手でそっと降ろしてやった。
管理者たちを嫌っていたのではなかったのか。
殺すことにためらいなどなかったわけではないのか。
エンリヒはアヒムを憐れんでいる。少なくともそれを感じる動きであった。軽蔑にも似た感情を向けるかと思えば、慈悲を見せることもある。エンリヒの心はミアにはまるでわからない。
ミアがそう感じたことを見透かすのか、ユリアンはつぶやいた。
「エンリヒ様は常に罪悪感と戦っているんだ。ああいう人はこの島には向かない。可哀想にね」
「罪悪感?」
「そうだよ。モルモットを憐れむような人間は研究者には向かないよ。自分の子供すら研究に差し出す僕たちの父さんは、根っからの研究者だったけれど」
クス、クス、と切れ切れに笑ってみせる。
「この館の使用人たちは不具者ばかりだ。エンリヒ様は本来、失敗作と打ち捨てられる者を憐れんで庇護した。僕はその中に紛れさせてもらっただけさ」
失敗作とは何を示すのか。その先を、ミアは怯えながら聞いていた。けれど、ミアの救いはどこにあるのかがもうわからない。
「ねえ、ミア。おかしいと思ったことはない? キメラを生かさず殺さず管理している島で、けれどよく逃げ出すキメラたち。そもそも、どうして不要なキメラたちを島に押し込めていたのか」
「そ、それは、もう一度作り直すよりは維持しておいた方が経済的に――」
「本当にそんな言い分を信じていたの? ミアは可愛いね」
そっと微笑んだかと思うと、ユリアンはリーンハルトに一度だけ視線を向け、そうして語り出した。この島のことを――。
「この島はキメラの研究施設だ。そうして、ミア、君が共に過ごしていた管理者と呼ばれていた人間たちは――」
「やめろ!」
いつになくリーンハルトが声を荒らげた。背後から飛んだその声にミアは思わず身をすくめた。
けれどユリアンは、幼い容姿には不釣り合いの冷めた目をするだけだった。
「自分たちのして来たことをミアに知られたくないのかな? でも、そんなの今更だ。それから、ミアは特別だよ。僕が護った唯一の例外だ」
自分のことだというのに、置き去りにされた気分だった。ミアを間に挟み、二人は言い合う。もう、耐えられなかった。ミアは頭を抱えながら叫んだ。
「もういい! ちゃんと話して! どんな内容でも聞くから!」
すると、ユリアンはそんなミアに向け、また可哀想にとつぶやいた。
「教えてあげるよ、ミア。君のチームメイトもすべて、キメラなんだ。遺伝子操作された人型のキメラだ。回復力に優れた強靭な人間を作り出すための研究をこの島では進めて来た。動物のキメラはそのための道具だ。管理者たちの戦闘データを取るためのね」
人のキメラ。エーディト、アヒム、ヤン、デニス。ケヴィンも――みんながそうだと。
キメラを捕える役割であったはずが、管理されていたのはこちらの方だった。
「それで、定期的に検査しないと、加えた遺伝子が暴走することがあって、急に暴力的になったり、残虐になったりする。でも、もっと悲惨なのは成功例にも入れてもらえず、合わない遺伝子が不具合となって表れたケース。そう、この家の使用人たちがそれだね。本来廃棄処分だけど、エンリヒ様は目についただけ引き取った。エンリヒ様はそんな底辺を知るから、管理者たちは必要とされる成功者だと思ってたのかも。扱いにちょっと差があったなぁ」
その口調は少し呆れている風だった。
「でもさ、どっちも本当は大差ないんだよ。どれも大した成果は発揮していなかっただろう? あっさりとすべて死に絶えたのがその結果さ。そうだろう、リーンハルト・グレーデン?」
「君が……殺したんだろう」
答えたリーンハルトの声はかすれていた。小さな、あどけない子供の顔をした彼は、それでもただの子供ではない。すべてを識るホムンクルス。
ユリアンは小さく笑った。
「遅かれ早かれこうなったんだよ。本国からキメラの殺処分を検討するようにという通知が来ていたからね」
「え――」
「君は知らないだろう。僕が握り潰し、君に成りすまして返信をしておいたから」
「そんな……」
「成果の出ない研究は一度リセットしないと。費用がかさむばかりで役には立たない。新たな種で作り直したいみたいだね。研究者というのは身勝手だな」
リーンハルトはユリアンの言葉に心臓を貫かれたように呆然と動かなかった。そんな彼をユリアンは嘲笑い、見つめている。
ミアは二人のやり取りの間で圧倒されつつ、それでもようやく言葉を探した。ユリアンの望みを、ミアは本当の意味では何も知らないままだ。
「ねえ、あの日、カルラがキメラに攫われるのを、あなたなら本当は避けられたんじゃないの?」
先の出来事を正確に予知していたクライン。だからミアに外に出るなと告げた。それならば、カルラにも同じように告げていたなら、カルラやエーディトたちは死ななかった。
すると、ユリアンはあっさりとうなずいたのだった。
「まあね。でも、それじゃいけないから」
「いけない?」
「カルラはああならなくちゃ物事が上手く運ばなかったから」
カルラは目が不自由ながらに、それでも一生懸命だった。口の利けない子供だと思い込んでいたユリアンの面倒もよく見ていた。それなのに、あっさりとユリアンは彼女を見捨てた。
「なんでよ? 仲良くしてたじゃない! カルラを助けたくなかったの!? それに、バルツァー管理官だって可愛がってくれていたんでしょ? なんでこんなひどい仕打ちをするのよ!」
いるのが当たり前過ぎて、失うまで仲間たちの大切さに気づかなかった。そんなミアだけれど、ユリアンはそれとは明らかに違う。失っても、自らが消し去っても何も感じていない。それを瞳が語っている。
「ミア」
そう、ため息交じりにユリアンはつぶやいた。
「僕はすべてを識る者。僕にとって意味のあることはとても少ないんだよ」
トン、とユリアンの指先がパネルに触れる。すると、エンリヒとアヒムの亡骸が閉じ込められた部屋の扉が開いた。エンリヒはほっとした様子で外へと抜ける。靴底についたアヒムの血が、エンリヒの進んだ跡に残った。画像が一旦切れ、再び映し出された時、エンリヒのいる場所は廊下へ移っていた。手には拳銃を持ったまま、警戒を解かずにいる。
その時、エンリヒが急に拳銃を構えた。その先にいたのはディートリンデだ。それに気づいたエンリヒは息をついて拳銃を下した。そうして、そこからひと言ふた言声をかけた。音声は伝わらない。けれど、表情は彼女を気遣っているように見えた。ミアには見せたことのないような表情である。
ディートリンデも不安に怯えていたのか、一直線にエンリヒのもとへと駆け寄り、そうしてその広い胸に飛び込んでいた。優しく、蔑まれるはずの自分たちを包み込んでくれた主。
エンリヒは戸惑いつつも邪険に振り払うことはせず、そっとディートリンデの肩に手を添えた。そうして、赤い血がエンリヒばかりかディートリンデもを汚した。それはアヒムのものとは違う、更なる鮮血であった。
「エンリヒ!」
リーンハルトはとっさにコントロールルームを出て行こうとしたけれど、扉はいつの間にか閉じていて、彼を外へは出さなかった。
エンリヒから体を離したディートリンデ。その手には血に濡れたペティナイフが握られている。ディートリンデはそっと微笑み、脂汗を浮かべて膝をついたエンリヒの心臓に向け、その刃を再び突き立てたのだった。エンリヒの逞しい体に身を沈め、ディートリンデは恍惚の表情で瞼を閉じる。
そうして再び身を起こした時、ディートリンデは自らの喉を掻き切り、果てた。エンリヒの血とディートリンデの血が混ざり合う。ディートリンデは愛しいエンリヒとひとつになれて本望だろうか。
これで――これが、望みだとするのなら。
ディートリンデから遅れて来て、その惨状を目の当たりにした使用人の少年二人は、血溜まりを前にハッと足を止めた。絶叫したのだと思う。けれど、パネルから音声はやはり届かない。二人はパニックに陥り、我先にと逃げ出した。キメラがうろつく外へ出ては危ないというのに、制止するための言葉を届けることはできず、二人を止められない。
駆け去る二人のことなどユリアンはどうでもよかったのだろう。
――これが、現実か。ミアは何も信じたくない気持ちになった。
そんなミアにユリアンは言う。
「エンリヒ様は本土に夫人を残して来ている。ディーは知らなかったみたいでさ、可哀想だから気がつくようにムービーレターを再生しておいてあげたんだ。どんなに優しくしてくれても、それは所詮憐み。勘違いしちゃいけないよね」
トン、とユリアンの指先がパネルを叩く。すると、画面が消えた。けれど、あれは現実に起こったことで、画面が消えたからといって、なかったことにはならないのだろう。
「どうしてこういうことを平気でするの!?」
ミアがどれだけ悲痛に叫んでも、ユリアンは悲しげな面持ちにはならなかった。その心には波風すら起こらないのか、平然と言い放つ。
「今のところ、僕にとって意味があるのは、ミアを護るってことだけ」
少しも嬉しくはない。なのに、ユリアンはそれをわかっていない。
「護るって何? あたしはこんなの望んでない!」
「――もうすぐ、セントラル・ビルディングは消し飛ぶよ。仕掛けは終わったから」
ユリアンは顔色ひとつ変えずにそう言った。楽しげですらない、淡々とした口調であった。
「そんな……」
愕然としたミアの背後で、カチリと小さく音が鳴った。振り返ると、リーンハルトが銃口をユリアンに向けて斜に銃を構えている。
「リーン!」
「爆破を止めろ。でなければ撃つ」
親指が撃鉄を起こす。引き金にかかった指をこするように動かしてみせた。その目は鋭く標的を見据えている。けれど、ユリアンはそんな彼を嘲笑った。
「茶番だね。そんなオモチャ、僕には効かないよ。試しに撃ってみるかい?」
少しの恐れもない。本当に、ユリアンには効かないのだろうか。ユリアンを自分たちの常識で推し量ることはできないという気がした。リーンハルトもまたそうだったのかも知れない。
「ホムンクルスの君には効かないのか。じゃあ、ミアは?」
リーンハルトの銃口がミアに向いた。銃口と同じくらい、吸い込まれそうなほどに暗い瞳だった。




