4-2
そこは眠った時と同じ場所。
今までのミアからすれば上等すぎるベッドの上。肌をこするシーツの滑らかさにそれを嫌でも思い知らされた。
つまり、すべては現実である。背中の痛みも確かにあった。ここまでの怪我をしたのは初めてだけれど、傷の大きさを思えば痛みは一日でかなり軽減されたように思う。リーンハルトがしてくれた処置は、彼のような要人のためのものであって、ミアたちが普段施されるような治療よりも格段上のものなのだろう。
ただ、この傷が消えても、起こってしまった現実は変わらない。
エーディトたちはもういない。一緒にいる時は何とも思わなかった。そばにいるのが当たり前で、常に死と隣り合わせの生活だと知っていたはずなのに、本気でいなくなることを真剣に考えて来なかった。今になってもまだ、何かの間違いであったのではないかと疑う気持ちもある。けれど、クラインも彼らは死んだと言った。クラインが言うのであればやはり事実なのだろう。
二度と、彼らには会えない。
ほろり、と寝そべったミアの頬を涙が伝う。やはり、悲しいのか。
キメラと命がけで戦い、心が麻痺した日々だった。自分の心は鈍いと思って来たけれど、思った以上に繊細な部分もあったらしい。目まぐるしい変化に心が置き去りだ。
ミアは涙を手の甲で拭うと体を起こした。身につけているのは新しい制服ではなく、眠るための水色のパジャマである。少し大きいけれど、借りものなので仕方がない。パノラマの広い窓からは調節された光が柔らかく差し込んでいる。ミアはベッドの上でサイドテーブルの上の制服を手に取り、パジャマを脱いだ。白いシャツを羽織ると、その時、ピピ、と電子音が鳴った。
『ミア、起きたかい?』
部屋を訪ねて来たのはリーンハルトだ。柔らかな声がスピーカーを通して部屋に響く。
「起きてる」
『入ってもいいかな?』
「どうぞ」
端的にそう答えると、ドアがスライドして開いた。ただ、その途端にリーンハルトはぎくりとして固まったのだった。入ってもいいかと言うから入ってもいいと答えたのに、何故なのか。ミアは軽く首をかしげた。
「わざわざ断りを入れたのに、着替えの途中ならそう言ってくれ!」
急に背を向けて部屋へ入ろうとしないリーンハルト。ミアはシャツのボタンを留めながらぼやいた。
「入ってもいいかって言うから。ここはリーンの部屋で、あたしの部屋じゃない。あたしが駄目って言うのはおかしいから」
「そういう問題じゃない!」
穏やかなリーンハルトが背を向けたままで声を荒らげる。育ちのよいリーンハルトと集団生活しか知らないミアとでは感覚が違うのだろう。ミアはスカートと靴下をはき、上着を引っかけながらベッドから降りた。
「着替えた」
そう告げると、リーンハルトは一度ちらりと首だけ振り返り、そうしてミアがちゃんと服を着こんでいるのを確認すると体ごと向き直って歩み寄って来た。その後ろでようやくスライドドアが閉まる。リーンハルトの足取りに、どこか苛立ちに似たものを感じた。
「謝らないよ、僕は」
「何に対して?」
ムッとしたその表情にミアが小首をかしげると、リーンハルトは嘆息した。そうして黒髪を揺らすと表情を改める。どこか呆れた風でもあった。
「――もういいよ。それで、少し君と話そうと思って来たんだ」
「うん」
「食事を一緒に摂ろう。少しずつでいいから、その時に話してほしい」
リーンハルトと一緒に朝食をとは、昨日の自分の状況からは考えられない。けれど、嬉しいかと問われるとよくわからない。それよりも、粗末でいいからエーディトたちと食べたかった。それだけは間違いない。
「……わかった」
沈みがちな声でも返事をすると、リーンハルトは納得したようだった。背を向けて一度振り返り、ミアを誘う。
「こっちだよ。来て」
急いでブーツを履くと、ミアはリーンハルトの背中に続いた。自動のドアを抜け、廊下に出る。ミアがいた宿舎の廊下のように無機質ではない。床には毛氈の絨毯、壁には次々に色を変える絵画のホログラム。疎いミアに価値はわからないけれど、これはきっと美しいものなのだろう。
すぐ隣の部屋も、入った途端に明るいと感じるほどに窓が多く、ほとんどガラス張りだった。その中央に長いテーブルが設置されている。背もたれまでクッション性の高そうな椅子がいくつも並んでおり、ここは何をする部屋なのだろうかと思ったけれど、今は食堂のように二人分の食事が真ん中にあるだけだ。長い机の両端にあるのではなく、向かい合うように設置されている。その部屋は無人であり、その中央の椅子のひとつをリーンハルトは軽く引いた。
「さあ、座って」
ミアはこくりとうなずくと、リーンハルトの向かいの席へ移動しようとした。それをリーンハルトが何故か止めた。
「いや、ここに座ってという意味で……。椅子を引いて待っているんだから」
「どうして椅子を引くの? リーンが自分で座るためだと思った」
「女性が座る時、男性が椅子を引いてエスコートするものなんだよ」
リーンハルトがそんなことをぼやきながら半眼になるけれど、そんなことを今までミアに教えてくれた人は誰一人としていないのだ。そういうものなのか、とミアはリーンハルトのそばへ戻って彼が引いてくれた椅子に腰かけた。オリーブグリーンの椅子は柔らかくミアを迎えてくれた。リーンハルトはほっと息をつくとミアの向かいに回って席に着く。
テーブルには、昨日の朝食とはまるで違う豪華なものが並んでいた。黄金色をしたスープ、彩の美しいサラダ、艶々と香ばしそうに焼けた丸いフォルムのパン。オムレツにフルーツの盛り合わせ。今までもパンかシリアルがほとんどであったミアには縁のない豊かさだ。
「じゃあ、食べながら話そう」
にこり、とリーンハルトは微笑む。あの笑顔を前に彼を敵だと認識することは難しい、そんな美しさである。ミアはあまり彼を見ないように手元に視線を落とし、小さくいただきますとつぶやいた。
フォークとスプーンが何故だかいくつもある。そこからフォークを一本手に取るとサラダの上のくし切りのトマトを刺した。すると、リーンハルトが柔らかな声で告げる。
「……それでね、まず、君はどれくらい島の現状を理解しているのかな。それを聞かせてほしい」
現状など、それほどわかってはいない。だからミアは正直に言った。
「三日前の朝、その日の任務が表示されてなかった。だからメインコンピューターにアクセスしようとしたら繋がらなくて。でも、キメラは逃げ出してるのがわかったから、なんとか間に合うように動いてた」
すると、リーンハルトはほんの少し眉根を寄せた。手を止めて、考え込むようにつぶやく。
「そうか。あの日、ミアはエンリヒの館で戦っていたね。あれはエンリヒに指示を仰ぎに行ったところ、キメラと遭遇してしまったのかい?」
「うん、まあそんなところ」
上手く説明できない。そう外れてもいないのだからいいかとミアは曖昧にうなずいた。そうしてトマトを頬張ると甘酸っぱさが口に広がった。咀嚼するミアを眺めながら、クラインは食事そっちのけで二の句を告げる。
「あの日、僕は空から君に出会ったね。あれは逃げたキメラの正確な位置も数もつかめないから巡回に出ることにしたんだよ。空からなら、移動もスムーズにできるし。でも、僕が自ら動くとみんながうるさいから、エンリヒだけを連れて出たんだけど」
リーンハルトは島の最高責任者である。自らが末端管理者のような働きをする必要はない。けれど彼が動いたのは、この不可解な現状を自らが外で確かめたいと思ったせいだろう。
「……空から見て他に何かわかった?」
ミアもまた、この状態のわけを知りたい。だから訊ねてみた。リーンハルトは食事に手をつけるでもなくかぶりを振った。
「空から見てもわからない。でも、ひとつだけわかっているのは、キメラの檻は作為的に開いたということ」
「え?」
「キメラ自身が檻を破壊したわけじゃない。檻は開かれたんだ。何者かによって」
あのキメラたちは逃げ出すように仕向けられていた。そういうことなのだろうか。
だとするなら、クラインはそれを知っていたことになる。何者かがわざとキメラを逃がそうとしていたことを知りつつ、そのことは伏せてキメラが逃げることだけをミアに伝えた。
そう、クラインの話は常に雲をつかむようにあやふやで、核心には触れない。クライン自身がミアに知ってほしいと望まないことがその中に含まれているのだろうか。
思わず考え込んでしまったミアに、リーンハルトはほんの少し鋭い目を向けた。ミアの中から何かをえぐってでも見つけ出そうとするように。
「……その何者かに繋がる手がかりを、もしかすると君は持っているのかも知れない」
ぎくり、と体が強張る。その緊張を、リーンハルトは向かいから観察していた。
「君にきょうだいだと名乗った人物は、もしかすると僕が探している人物と同じだという気がして来た」
クラインはリーンハルトを味方ではないと言った。それがわかっているのだから、教えてはいけない。こんな状況だというのに、何かよくないことが更に起こる、そんな予感がした。
リーンハルトの追求からミアはどう逃れたらいいのだろう。あの目から、ミアもまた目が離せなかった。
けれど、よく考えてみると、ミアはリーンハルトに答えられるような答えを持たないのだ。
クラインはミアのきょうだいと名乗った。けれど『クライン』は仮の名。本当はなんと呼ばれているのか、ミアにもわからない。どこにいるのかなんて知るはずもない。
ここでミアが知る限りのことをリーンハルトに教えたら、リーンハルトはクラインを探し出せるだろうか。ミアがどんな選択をするのかも、すべてを識るクラインならばミア以上に把握できてしまっているのだろうか。
「リーン、あたしのきょうだいはあたしの夢の中にいるの」
ぽつりと零すと、リーンハルトは怪訝そうに片目を細める。
湯気も立ち昇らなくなったスープの皿。はっきりと見えるリーンハルトの顔。
ミアはクラインの顔さえも知らない。
「夢? どういうこと?」
「言葉の通り。夢の中でしか会ったことがないきょうだい。本当の顔も名前も知らない」
それがミアの知るすべてだった。それでも、リーンハルトはそれを真実とは思ってくれなかった。端正な顔を険しくして、その視線をミアから外した。両肘をテーブルにつき、組んだ手の上に額を預ける。
「あまり馬鹿馬鹿しいことを言わないでくれないか。僕は君に誠意を持って相対しているつもりだ」
声に苛立ちが混ざる。けれど、ミアもふざけたつもりはない。もう気取って食事を摂るつもりもなく、ミアはパンにかぶりつき、それからリーンハルトを軽く睨んだ。
「信じなくてもいいけど、あたしは噓をついてるわけじゃない。夢の中だけど、クラインはあたしの知らないことをたくさん教えてくれた」
顔を上げると、リーンハルトは何かに思い当たったようだった。
「クライン? そういえば君は僕にそう呼びかけたね。それがきょうだいの仮の名前?」
ミアはパンを飲み込んで、それからまたかぶりつく前に言った。
「最初、リーンがクラインなのかなって思ってたから。でも違った」
「うん、僕は君のきょうだいじゃない」
「クラインはなんでも識ってる。未来のことも予知するから、あたしはそれを信じて動いてた」
「……クラインは実在するのか? 君の夢の産物じゃないと言いきれるのか?」
そんなこと、ミアにもわからない。けれど、クラインはいるはずだ。この島のどこかにいる。そうしてミアを護ろうとしてくれている。
「夢の産物だっていうなら、リーンは説明できる? あたしがそんな夢を見るわけを。キメラがどこに出るのか、正確な時間までクラインは教えてくれた。どうやったら夢でそんなことがわかるの?」
思わずミアはそう言った。夢の中のクラインが実在しないのなら、ミアの味方はどこだというのか。それがひどく悲しかっただけなのかも知れない。
クラインを信じないリーンハルトはやはりミアの味方ではないのだ。それが残念だけれど、仕方がない。
美しい顔を悩ましげに歪め、リーンハルトは独りごちた。
「クライン、か――」




