3-3
意識の底。奥深くに音が伝わる。
その音は日常とはあまりにかけ離れていた。
伸びやかで優雅に、時には心を扇情するような音。
切なく、甘く絡み、響き合う。
その大音量の音がミアの目覚めを迎えていた。その音が邪魔をするからか、ミアを見放したからか、クラインはミアの夢に現れなかった。
「う……」
自分の声がその連続した美しい響きの中で異質に聞こえた。それでも、その声でミアは自らが生きていることを知ったのだ。
「う、う……」
背中が痛む。痛むというには生易しく、今もまだ傷口が焼けるように感じられた。ミアが身じろぎをしたから傷に響いたのだ。腕一本に力を入れるだけで背中の筋肉が動く。それでもミアは背中の痛みから無意識にシーツを握り締めていた。
繋がる音がプツリと切れ、呻くミアの背中に、そばにいた誰かの声がかかった。
「思ったより麻酔が効かなかったみたいだ。それとも、この音楽がうるさかった? だとしたら悪かったね」
聞き覚えのない声だった。ミアの知る誰でもない。けれど、心地よいと感じられる声だった。穏やかに、甘く流れる。ミアはなんとかして起き上がろうとした。起き上がって声の主を確認しようとした。
ミアが寝かされていたのはベッドの上。それもかなり大きく、シーツの肌触りも味わったことがないほどに滑らかだった。束ねてあったはずの髪が解けていて、はらりと顔にかかる。体を震わせて起きようとしたミアに優しく、彼は言った。
「処置はしたけれど、まだ起きない方がいい。それから、君の服もひどいものだったから代わりを持って来させている。もう少しそのまま待って」
はた、と気づいて自分の肩に目をやると、肌は剥き出しで白い包帯がさらしのように巻かれた状態だった。背中に傷があるからだろう。心許なくてミアはシーツを掻き寄せる。ただこのわけのわからない状態で無防備である今が心細いのだ。それを羞恥と取ったのか、彼は言った。
「先に断っておくけれど、処置をしたのは僕じゃない。僕は君に指一本触れていないから」
それは興味の薄い、淡々とした言葉だった。ミアはようやく椅子に腰かけた彼の顔に目を向けた。美しい双眸が、どこか冷めた色でミアを見ていた。制服の上着を椅子の背にかけ、白いシャツ一枚のしなやかな体。組まれた細い脚。艶めいたその顔にミアは思わず息を飲んだ。
「ク、クライ――」
リーンハルトがそこにいた。あまりにも近くに。
忠告を聞かずに飛び出したミアを、それでも助けてくれた。
胸が熱く、焼けるように熱が広がり、ミアは堪らずにベッドから身を乗り出した。手を伸ばし、そうしてベッドの縁から膝が滑った。声を上げる暇もなく、シーツに溺れるようにしてミアは床に放り出された。薄いシーツでは緩衝材にもならず、ミアは痛みに息を詰まらせてシーツの中で身を捩った。
「そのまま待ってと言ったのに……。痛かっただろう?」
リーンハルトの手が、シーツの海からミアを救い出してくれた。顔に室内の明かりを感じた時、ミアはありったけの力を振り絞ってリーンハルトの首にすがりついていた。
「ちょっと……」
落ち着いた声をかけつつ、リーンハルトはミアの肩を押し戻そうとした。けれど、怪我を気遣ってか、それほど力は込められていなかった。ミアはその首筋で声を上げて泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
その謝罪を、クラインであるリーンハルトがわからないはずはないと思った。リーンハルトは小さく嘆息した。
「ごめんなさい、か。そうしたことは言っても今更だ。あれは仕方のないことだったんだよ」
仕方のないこと。
今更とは、手遅れということだ。
何が、とミアは訊ねるのが恐ろしくなった。何が手遅れなのかと。
リーンハルトの言葉の先を涙に頬を濡らして待った。けれどその間に、ピピ、と電子音がした。
「副総帥、彼女の服をお持ちしました」
そう伝えた音声には聞き覚えがあった。エンリヒの声だ。
「ああ、ありがとう」
リーンハルトはミアにしがみつかれながら扉に向けて答えた。鋼鉄の強固に見えた扉に青白い光のラインが走り、そうしてピピ、と電子音を鳴らして扉は開いた。相変わらず表情らしきものを浮かべていないエンリヒは、手に畳まれた黒い布を持っている。ミアはリーンハルトの陰に隠れるようにしてエンリヒを見なかった。
「副総帥?」
訝しげなエンリヒの声。あの声がどんな表情で発せられているのか、見たくもない。
「少し錯乱しているみたいだ。あんなことの後だから無理もないね」
「……そうですね」
あんなこと。
そこでようやくミアはハッとしてリーンハルトに問う。彼のシャツをつかんだ指先が震えた。
「あ、あの、あたし以外のみんなはどこに……」
特にヤンはひどい怪我を負っていた。ミアと同じようにここへ運ばれたのだとすると、皆はどこへ行ったのだろう。
すると、エンリヒは無言で歩みより、そうしてミアの背後のベッドに投げるようにして服を放り出した。口を開こうとしないエンリヒに代わり、リーンハルトが答えた。感情がこもらない声が告げるにはひどい内容だった。
「あの場にいて助かったのは君だけだ」
「え……」
ヤンも、デニスもエーディトも、あの狂った牙と爪に命を散らしたと。
まさか。少し前まで一緒にいたのに、先の見えない不安と一緒に戦ったのに、こんなにもあっけなく別れが来るなんて、そんなことが起こり得るのだろうか。
ミアは結局、ヤン以外が殺傷される場面を見ていない。だからそう言われても信じられないのだ。実感がまるでない。騙されているのではないかという思いと、リーンハルトが騙すわけがないという思いがせめぎ合う。心臓が破裂しそうなほどに疼いた。
そこで気づいてしまった。ミアと同じように気を失っていた幼い彼女は――。
「カ、カルラは……」
彼女も助からなかったのだろうか。眉根を厳しく寄せていたエンリヒは首を横に振った。そうして、押し殺した声を吐く。
「あんな小さな子供一人護れず、一体お前は――」
「エンリヒ」
リーンハルトに静かに窘められ、エンリヒはその先を飲み込んだ。けれど、抑えきれない気持ちが零れ落ちる。
「……あの子は不遇な、戦えない子だ。だからせめてと屋敷に置いていたのに、こんなことになるのなら……」
エンリヒは悲しんでいるのだ。使用人の女の子の死を。小さな命が消えたことを嘆いている。そうした姿は、ミアの知る冷静なエンリヒとは結びつかない。けれど、事実悲しんでいるように見えた。機械のように感情を見せないかに思われたエンリヒも人の子であるということだ。
「あの、屋敷の方は? アヒムたちは?」
「アヒム?」
エンリヒにギロリと睨まれた。そこでああ、とミアは理不尽な感情を覚えつつも答えた。
「ナンバー093です」
「……屋敷の方まで襲われた痕跡はない」
アヒムやディートリンデたちは無事らしい。それがせめてもの救いだろうか。
「エンリヒ、君はもう屋敷へ戻るといい。頼んだ調べものを優先してくれ」
「はい」
そこでエンリヒはミアに視線を止めた。好意的とは言えない目だ。身構えたミアのそばでリーンハルトが言った。
「彼女はまだ動かさない方がいい。詳しい話は明日にしよう」
リーンハルトの言葉には一切逆らうつもりがないのか、エンリヒは素直に一礼して背を向けた。これからあの館へ戻るのだろう。エンリヒが退出してからすぐ、ミアはつぶやいた。
「――なの?」
「え?」
「今、何時なの?」
窓ガラスは大きく、ガラス張りとも言えるほどの壁であるけれど、遮光の膜が時間をわかりづらくしていた。雨の日であろうと、晴天のホログラムくらいは映し出せる窓なのではないだろうか。
リーンハルトは立ち上がり、部屋の一角に目を向けた。
「十八時五分だね」
「十八時……」
エンリヒは今から帰路に着く。そうして、館へ戻るのは半を少し過ぎた頃であるのだろう。クラインの言った時刻は、こんなことになっても変わらない。
あの時、カルラを見捨てればよかったのか。そうしたら、少なくとも三人は生き残った。クラインの言葉はすべてミアのためにあったのだ。
クライン――。
夢に現れなかったのは、ここにいるからであってほしい。リーンハルトの心地よい声は、クラインの幼い声とは違うけれど、体が大人に近づく過程で変化したのだと思える。事実、話し方は似ていて優しい。
ミアはたまらなくなって、リーンハルトを見上げながらささやいた。
「あなたはあたしの『きょうだい』?」
「え?」
「あたしの唯一の味方?」
クラインならば答えてくれる。ミアは祈るような気持ちで答えを待った。
リーンハルトは目を見張った。二人の間に静寂が生まれ、ミアには違和感だけが残った。リーンハルトは困ったように優しく眉を下げた。
「君、きょうだいってなんだか知ってる?」
「知らない」
正直に答えた。知っているとは言えない。
ミアは知らない。クライン以外の誰の口からも聞いたことのない言葉だ。知らないことが当たり前ではないのか。
心が落ち着かなくて、ミアはシーツの端を強く握り締めて項垂れた。今になって肌寒さを感じてしまうのは、肩が剥き出しのせいではなく、心細さのせいだろう。リーンハルトはそれを感じてくれたのか、ミアの肩にあたたかな手を添えた。そのぬくもりは肌から奥深くへ浸透し、ミアの核を包み込んでくれているように感じられた。不意に涙が込み上げて、ミアは潤んだ瞳をリーンハルトに向けた。
すると、リーンハルトは困惑気味につぶやいた。
「ごめん、君がそれについて知らないことを僕は知っていた。意地悪な質問だった」
そうして深々と嘆息した。その意味にミアが気づくはずもない。涙を落ち着けるために一度まぶたを閉じて、それから改めてリーンハルトを見つめたミアに彼は続ける。
「……ええと、謝りついでに言うよ。処置をしたのは僕で、指一本触れていないと言うのは嘘だ。あの場合、仕方がなかったから。それで、この部屋へ運んだのも少し事情があってのことなんだ」
「そんなの、構わない。ありがとう。ねえ、きょうだいってなんなの?」
ミアにとって大事なのはそこだ。クラインはミアのきょうだいだと言う。だからミアを助けてくれる。
そこでふと気づいてしまった。リーンハルトはミアのきょうだいではないと言う。だったら、リーンハルトはクラインではあり得ないのではないか。
リーンハルトはミアの肩から手を離すと、その手を自らの額に当て、そうして見惚れるような憂いの表情を作った。
「きょうだいって言うのはね、血を分けた、同じ腹から産まれた、あるいは同じ種から生る存在のことだ」
「意味が、わからない」
その説明は難しかった。ミアの頭が悪いのか。例えばアヒムなら理解できたのだろうか。
ミアがそう感じたことを察したのか、リーンハルトはそれを否定するように首を振った。綺麗な黒髪が零れるように揺れた。
「意味がわからないのは、わからないように仕向けられているからだ。君たちに意味がわからないのは当然なんだよ」
そう、ため息をついた。それは疲れた風に。
けれど、そこから一変してリーンハルトはミアの肩に少し力を込めて揺すった。首が人形のようにかくりと動く。
「君に『きょうだい』という言葉を吹き込んだのは誰だ?」
「え?」
クラインが教えてくれた。クラインはミアのきょうだいで唯一の味方だから。そう、唯一の――。
それならば、この眼前の美しい容姿をした人は敵なのか。クラインではないのなら敵なのだ。
ミアにとって唯一の味方はクライン。エーディトたちをクラインが味方と呼んでくれなかったのは、いずれいなくなるとわかっていたからなのだろうか。
「嫌っ!」
ミアは急に恐ろしくなってリーンハルトの手を振り払った。パン、と甲高い音がすると、リーンハルトは驚きに目を見張った。その整った顔が今にも怒りに歪むのかと思ったら、恐ろしくて震えが止まらない。
シーツを引き寄せ、怯えて下がったミアにリーンハルトはもう一度手を伸ばした。
「落ち着いて。そんなに下がると背中をぶつけるから」
穏やかな柔らかい声だった。そのせいか、肩に添えられた両手にはふわりと包み込むような安心感がある。気のせいかも知れない。クラインではないリーンハルトは敵なのだから。
けれど、傷の痛みとは別に心臓がトクトクと鳴って、それは不快なものではなかった。リーンハルトのため息がかすかに聞こえた。
「仲間が死んで、それで取り乱すのは取り立てておかしなことじゃない。ただ、君たちにもそうした感情があるんだって配慮が足らなかったね。すまない」
そこでリーンハルトはミアから手を離すと、床に膝をついたままミアを見据えた。その瞳は息を飲むほどに美しく煌めいて見える。直視してはいけないような、ずっとこうしていたいような不思議な気持ちになる。そんなミアにリーンハルトはそっとささやいた。
「君たちは普段、ナンバーで呼び合ったりはしないのだろう? 君はなんて呼ばれているんだ?」
「――ミア」
ぽつりと答えると、リーンハルトははっきりとうなずいてみせた。
「わかった。ミア……そう呼ばせてもらうよ。僕のことはリーンでいい」
彼の薄く色づいた唇がそう告げた。けれど、島で最も尊ばれる彼にそう馴れ馴れしくしてもよいものだろうか。ぼんやりとしてしまったミアに、リーンハルトは麗しく微笑みかける。
「少し落ち着いたみたいだね」
「……ごめんなさい。今、自分の置かれている状況がわからなくて。どうしてもわからなくて、何を信じたらいいのか迷ってる」
そう、正直な気持ちがぽろりと漏れた。クラインを信じるのなら、リーンハルトは敵である。けれど、目の前の彼は優しく微笑んでくれている。けれど、リーンハルトを信じるとするのなら、クラインは一体なんだと言うのか。
頭がずきりと痛むのは、心配事の大きさと目まぐるしく事件ばかり起こるせいだ。いつも一緒だったチームメイトはおらず、ミアは孤独だ。よりどころが揺らいだミアの隙間に、リーンハルトの声がその隙間を埋めるようにして入り込む。
「そうだね、機密だからすべてをミアに話すことはできないけれど、少しくらいは説明しないといけないな。……ミア、メインコンピューターが不具合を起こしたのはサイバー攻撃を受けたからなんだ。今、その出所の捜査と対応に追われている。島の内部の者が仕掛けたんじゃないかと僕は思っているんだ」
「島の? なんのために?」
「わからないよ。でも、この島の研究を妨げたいのだと思う」
リーンハルトの言葉の裏に疲れが見えた。キメラ研究は今後の人類のための研究なのではないのか。それを妨げようとする相手は何者なのか。けれど、管理者たちしかいない島のはずなのに、裏切り者がいると言うのか。
そこでミアはハッとした。
クラインなら。すべてを識るクラインなら、その人物が誰なのかを知っているのではないだろうか。ミアが訊ねたら教えてくれるだろうか。
少しの不安は、クラインの忠告を聞かずに飛び出してしまったこと。馬鹿な子だと呆れられていないといい。唯一の味方だと言ってくれるのなら、それでも見放さずにいてくれると信じてもいいだろうか。
「……クライン」
「え?」
リーンハルトは不思議そうにミアの瞳を見つめた。ミアは軽い失望を感じつつ、言葉を続けた。
「クラインを知らない? その名前を聞いても何も思い浮かばない?」
自らをそう名乗った。けれどその名は仮のものだ。本当の名ではないのだ。
やはりリーンハルトはかぶりを振った。
「わからない。思い当たる人物はいないな。そのクラインがなんだって言うんだ?」
そうつぶやいてから、さすがに優秀なリーンハルトはすぐに気づいたようだ。眼差しが少し厳しくなるから、ミアは思わず身構えてしまった。
「それがミアのきょうだい?」
「う、うん」
とっさに嘘もつけず、ミアはうなずく。
「……そうか、ありがとうミア。怪我をしているのに長く話させてすまなかったね」
ふるふると首を振った。すると、リーンハルトは甘い微笑を見せた。
クラインではないのなら、本来こうしてチームメイトに話すような口調ではいけない。年若くとも、エンリヒよりも更に偉い人なのだ。
けれど、親しげにこうしてそばで話せることを嬉しくも思う。ミアがそんな風に感じたことが伝わるのか、リーンハルトは不意に事務的にてテキパキと話し出した。
「食事は後で持って来させる。後、ミアはこのベッドを使ってくれたらいい。僕は別の部屋を使うから。朝になったらエンリヒも交えてまた話そう」
「わかった……」
「じゃあ、お休み」
突き放されたような寂しさが残るけれど、リーンハルトは忙しい身の上である。ミアとばかり過ごしているわけには行かないのだろう。椅子にかけてあった上着を拾い、そうして部屋から出て行くリーンハルトの背を、ミアはぼんやりと見送った。




