3-2
手伝いをするべくヤンと玄関先に戻ると、デニスが麻袋にキメラの残骸を詰めた後だった。
ここはエンリヒの敷地だから、あの時のように勝手に埋めてはいけないのだろう。
躯が片づけられても血痕だけはその場に残っている。
バケツを借りてきて、運んだ水を撒く。それから、石畳を丁寧にデッキブラシで磨いた。
三人で取りかかったら段取りよく進んだ。エンリヒが戻るまでに余裕で間に合いそうだ。
ただ、デニスは少し疲れて見えた。
「デニス、大丈夫?」
青ざめたデニスの顔を覗き込むと、涙目になっていて必死で吐き気を堪えているように見えた。そんなところを見られたくないのか、すぐに顔を背けられた。
「ごめん、ちょっと休む」
そう言って中に戻っていった。
ヤンと二人だけ取り残されると他にすることがない。
「手合わせでもする?」
「……そうだな」
昨日はまたとないほどつらい実戦だったから、体が鈍っているということはない。むしろ酷使しすぎて嫌な強張りがある。それはヤンも同じなのか、手合わせをしていてもいつもほどの切れはなく、お互いに程々というところを保っていたように思う。
雑念のせいか振りが大きくなったヤンの喉元にサーベルの切っ先を突きつける。唾を飲み込んだヤンの喉が動いた。
「降参。まったく、ミアは容赦ないな」
「命は取らないんだから、キメラほど獰猛じゃない」
「ほとんど息も乱れてないし、キメラの方がか弱いかもな」
どういうことだと抗議したいが、ヤンは髪を掻き乱して悔しがっていた。
それでも陽光の下で気持ちよく汗をかき、気持ちは幾分晴れた。こうして体を動かしている方がミアの性には合っているのだろう。
花壇の縁に腰かけてミアは額の汗を手の甲で拭った。ヤンも隣に腰を下ろす。
なんとなく、ヤンのことをじっと観察してみた。
エンリヒと比べればまだ幼いが、肩幅も首の太さも骨ばった大きな手もミアやエーディトとは違う男性のものだ。いずれはもっと逞しくなっていくのだろう。
けれど、リーンハルトはエンリヒやヤンとは別の生き物のように感じる。彼は本当に男性なのだろうか。
そもそもがこの個体差にどんな意味があるのだ。
二人でしばらくぼうっとしていると、エーディトが来た。何やら珍しく機嫌が悪い。
「二人だけ? デニスは?」
「気分が悪いみたいで休んでる」
逆光になったエーディトを見上げながら答えると、手首をつかんで引っ張られた。
「そうなんだ? じゃあ中に戻ろ?」
「うん」
そんなやり取りをしていると、ヤンも甘えたように手を差し出してきた。
「俺も起こして」
「無理よ。自分で起きて」
「厳しー」
エーディトは笑顔だがヤンには手厳しい。ミアが少し笑うと、ヤンは自力で立ち上がった。
三人で屋敷を壁伝いにグルリと回り、正面玄関へ戻る。ミアは先頭になってさっさと歩いていたのだが、ふと角を曲がった頃に二人の足音がしなくなって振り返ると、いなかった。
意味がわからなくて、少し戻ってみると、ヤンがエーディトの華奢な体をすっぽりと覆うように抱きしめていた。何か、肉食獣が捕食する場面のようだった。
呆けたのも束の間で、次の瞬間にはエーディトが拳をヤンの頬にめり込ませていた。無言のままヤンを突き飛ばし、こちらへ向かってくる。ミアはとっさに何も見ていなかったことにしてしまった。
今のはなんだったのだろう。
エーディトはミアの顔を見るなり、ギュッと腕に抱きついた。それがとても必死に見えて、ミアはエーディトの頭をそっと撫でた。
ヤンはなかなか来ない。
正面玄関まで来ると扉が開き、そこからカルラが姿を見せた。わざわざミアたちのところまでやってくる。
「昼食の準備が整いました。食堂へおいでください」
いつの間にかもうそんな時間らしい。
カルラは丁寧にツインテールの頭をペコリと頭を下げる。幼い見た目以上にしっかりした子だと思う。
「うん、ありがとう」
そう答えた時。
鳥の声が甲高く響いた。笛のような音。
その音はあまりに近く、目視できた時には心臓を貫かれたように呼吸も忘れた。
薄青い、それは美しい羽をした鳥だった。
けれど両の翼を広げた体はミアよりも大きかったのではないだろうか。それも、空に擬態した色である。ただの鳥ではない。
空色の中、目だけが一点、黒く異物のように見えた。
その鳥はキメラだ。羽ばたけば強風が起こる。
ミアとエーディトは踏ん張ったが、カルラはその風を受けて吹き飛んだ。その途端にキメラは木の根のような足でカルラの腰をしっかりとつかみ、空へと舞い上がる。
とっさに、巻き起こる砂埃から反射的に顔を庇った。カルラの絶叫が耳を劈く。
鳥に捕らわれたカルラは、体が浮かび上がった途端に半狂乱になった。あそこから見る景色はただの子供には恐ろしすぎる。
けれど、急にカルラの声が止んだ。気を失ったのか、ぐったりとして動かなくなる。ミアはその光景を目の当たりにして愕然とするしかなかった。
中途半端に開いていた門はアヒムが閉じたが、門は上空まで覆われているものではない。本来ならば電流を流したり、キメラの嫌う音波を流したり、なんらかの対策が取られていたはずなのだ。一時的に閉じただけで気が緩んでいたいたけれど、それではいけなかった。
「カルラ‼」
上空に向かって叫び、とっさに駆け出そうとすると、エーディトに止められた。
「待って! 一人じゃ無理よ!」
この時になってやっとヤンが戻った。
ヤンはすぐに状況を把握したらしい。ミアとは反対方向に動いた。
「アヒムに頼んで門を開けてもらわないと無理だ! それから、デニスに撃ち落としてもらわないと!」
「駄目! 飛んでるところを撃ったりしたらカルラが落とされる!」
ヤンは一瞬たじろいだものの、急いで館の中に戻った。押し問答をしている場合ではなく、皆に協力を求めなくてはならないからだ。
ミアは眩しい空を見上げ、エーディトの制止を振り切って門の前まで駆け寄った。
急がないと見えなくなる。今だって、カルラの着ている黒っぽい服だけが空に浮かんでいるように見えるだけで鳥のキメラの全容はわかりづらい。
思えば今までの任務で、あそこまで高く飛行するキメラに当ったことはなかった。メインコンピューターの不具合があってからというもの、飛行型キメラがよく逃げ出している。翼を持つキメラの檻が上手く起動していないのだろうか。
「は、早く……!」
気持ちだけが焦る。けれどミアはそこでふとクラインの言葉を思い出した。
――それまでは絶対に門の外へ出てはいけないよ。
日が暮れてエンリヒが戻るまでは門の外へ出るなと、クラインはそう言った。クラインは、この顛末を知っていた。
なのに、それをミアには伝えなかった。絶対に外に出るなと、それだけを伝えた。
門の外へ出ればさらに何かが起こるというのか。
それは、自分たちが助かるためにカルラを見殺しにしろと言っているようなものだ。本当にそれでいいのか。
「ミア! アヒムを連れて来たぞ‼」
ヤンの声にミアは我に返った。冷や汗がじわりと額に浮かぶ。
浅く呼吸を繰り返してしまうのは、罪悪感で胸が潰れそうだからだ。
アヒムだけでなく、ライフルを担いだデニスもついてきた。具合が悪いままなのか、顔色は蒼白だ。
使用人たちには告げなかったようで、彼らはいなかった。いても足手まといにしかならないので仕方がない。
アヒムは無言のまま門のコントロールパネルを開き、滑らかな指先で端末を操作する。彼だけが冷静だった。アヒムは小さなカルラに思いを馳せることをしないから。
高速で動くアヒムの指を、それでも気が遠くなりそうな思いで見つめた。
音と言うほどのものもなく、振動と呼ぶべき響きが足の裏からブーツを通して伝わる。人が通れるほどの隙間が開くと、ヤンが率先して抜けた。続いてデニスが、エーディトが。
ミアが一番遅れた。
それはクラインの言葉を反芻してしまったから。
一瞬の躊躇いが生じたのだ。
すると、前髪の陰になったアヒムの瞳がミアを見ていた。ミアが動かないことを疑問に思っているのか、非難しているのか、そこまでは読み取れない。
責められているように受け取ったのは、自分自身が恐ろしさに負けてしまっているからだ。アヒムはそんなことを気にしない。
クラインの言葉に逆らった後、この身には何が起こるのだろう。
それでも、エンリヒが戻るまでまだかなりの時間がある。助けは求められない。門から出てカルラを助けられるかどうかはわからないけれど、何もしないでいる自分を許せない気持ちがある。
悩んでいる場合ではない。早くしないと追いつけない。皆、遠ざかる――。
ミアは覚悟を決め、外へと飛び出した。
門の外は明るい。風がそよぐ。
それでも、恐ろしい。ここは守られていない。
クラインに逆らって外へ出たのだ。
そのくせ、まだどこかでクラインに甘えていたのかもしれない。困った時には助けに来てくれると。
すべてを識るというのなら、ミアの心もまたクラインの手のうちではないのか。
先に続く、アスファルトの舗装された道。上だけを見て駆け抜ける三人の背中。
追いつくべく、必死で走った。全力で、心臓も足も潰すほどに酷使した。
それなのに、先を行くエーディトたちに追いつくのがやっとである。空に浮かんだカルラの姿を目で追うことしかできなかった。
「クソ――っ!」
デニスが肩に担いでいたライフルを構え、立ち止まった。あのキメラを撃つつもりなのだ。
大きなキメラだから、デニスならばカルラを避けて当てられる。ただし――。
「駄目! カルラごと落ちる!」
とてもではないけれど、受け止められない。空から落とされるか、そのままあの巨躯に押し潰されるかのどちらかだ。間違っても救えない。
ミアの叫びにもデニスはライフルを構えたまま苛立ったように声を荒らげた。
「じゃあどうするんだよ! あのまま攫われたら食われるぞ!」
誰も来ない。
誰も頼れない。
このままだと、矢の射程範囲の外にキメラが行ってしまう。デニスはここが限界だと見定めたのだ。
パシュ、と破裂音のようなものが聞こえる中をミアはデニスを通り越して駆け抜けた。汗なのか涙なのか、流れる雫を振り払いながら空を見上げる。
空色の翼は不意に白く濁った。矢が命中したせいなのか、キメラは空に溶け込むことができなくなったようだ。
幸いなことに、キメラは落下をしなかった。徐々に高度を下げ、地面に吸い寄せられるように降りてくる。
必死の思いで急いだ。
キメラの着陸地点はアスファルトの路上からそれた木々の奥だった。ミアはすでにヤンたちのことも抜いていた。
先の方でバキバキ、と枝の激しく折れる音がする。あのキメラは相当な重量のようだ。粉塵が上がり、木の葉が舞い散った。
キメラの落下地点へ到達した時、ミアはすでに声も上げられないほど息が上がっていた。
塵で濁った視界が見通せるようになると、真っ白な猛禽が大きな翼を広げて木に引っかかっている。カルラはその鉤爪から落ちたらしく、木の根元に横たわっていた。意識はなく、動かない。キメラもまた低く唸るような音を出しているけれど、それが精いっぱいらしく動かない。麻酔が徐々に効いている。
しかし、この巨躯ではそれほど長くは効かないだろう。目覚める前にカルラを連れて戻らなくては。
ミアはどうにかその緑の中へ足を踏み入れた。この際、キメラの捕縛はいい。カルラを助けられたらそれで。
そうしたら、もう今日は屋敷から一歩も出ないでエンリヒを待つ。
はらり、と若々しい葉が眼前で散った。
ゾッとするほど圧倒的な気配があった。それはこの怪鳥ではなく。
「ミア――‼」
遅れて辿り着いたエーディトが甲高く叫んだ。
それは悲痛な声だった。
しかし、彼女に答えることはできなかった。
背中に重く強い衝撃を受けた。背を鋭く硬いもので切り裂かれたと、わかったのはそれだけだ。
「かっ――!」
声が出なかった。その一撃に吹き飛ばされ、地面に伏した。
背が熱く、遅れて訪れた痛みは立ち上がれないほど痛烈に全身を苛む。
草の匂い、血の臭い、獣の臭い。
草の上に倒れたミアは、草色の獣の足を見た。それは太く逞しい、猫科の爪を持つ足だった。
グルルル、と唸る低い声が地面を伝う。
その草色の足は次第に白く色を変える。白銀の鬣を持つ獅子を相手に、エーディトとヤンはサーベルを抜いた。痛みに朦朧とする意識の中、ミアはその光景をただ感じていた。
「こいつ――!」
ヤンはエーディトを庇うように前に出た。それでも、声が震えている。
エーディトは倒れたミアを気にしている。捨てて逃げることができないのだ。
これは、勝ち目があるのかもわからない戦いになる。誰のせいだというのなら、ミアのせいかもしれない。
「デニス! お願い!」
エーディトが追いついたデニスに懇願するも、彼はハッと息を吞んでから声を絞り出した。
「ま、麻酔銃の矢は装填してあった一本しかない。急いでたから、とっさにライフルしか持ってこなくて……」
やはりクラインの言葉は正しかった。決して門の外へ出てはいけなかった。
ここで死ぬのはミアだけではない。カルラもヤンもデニスもエーディトも、誰も助からないかもしれない。
誰も戻らなかったら、アヒムは冷静に門を閉じるだろうか。戻らない皆を待って開け放っていたりはしないだろうか。
アヒムが援軍を要請してくれた可能性はどうだろう。
また、誰か駆けつけてくれるのか。
いいや、そんな期待をしてはいけない。
クラインの言いつけを破ったのだ。
もう、味方はいない。
この島はもう制御を失ったのだ。学者たちが傲慢に弄んだ命が、人間に取って代わるのか。
ここはキメラの楽園か。それとも――。
獅子の咆哮が恐怖を煽る。
鋼鉄のような爪がヤンのサーベルをへし折った。飛んだサーベルの刃が地面に突き刺さり、ヤンの手には残骸だけが残る。
「あ……ぁ……っ」
恐怖に呻くヤンに獣が迫った時、デニスが矢の尽きたライフルをキメラに投げつけた。当たりはしたものの、それがデニスの死期を早めてしまった。獅子は跳躍し、エーディトを越えてデニスに踊りかかった。
尖った牙が首筋に突き刺さり、獅子が首を振った瞬間にデニスの体が大きく吹き飛んで木に激突した。血飛沫が舞い、草の上に落ちたデニス自身に雨のように降り注ぐ。
「デニス‼」
エーディトの悲鳴とヤンの叫び。そうして、二人に襲いかかる牙。
ザッ、と肉の裂ける音がする。先ほど自分の背に受けた一撃と同じ――。
「やだ、ヤン! ねえ、やめて‼」
ヤンはエーディトを庇い、獣の爪を受けた。それでも、どうにか立っている。
エーディトは泣き叫んでいた。
「ごめんって言ったじゃない! わたしの一番はあなたじゃないから、守ってくれなくていいの‼」
それでも、ヤンは命ある限りエーディトを背に庇い続けていた。ただし、その時はとても短かったのだと思う。
エーディトはミアのそばに座り込んでしまうと、こちらに体を傾けた。
「一緒に、行こう……」
吠え猛る獣の声がその先を掻き消した。
――ここはあたたかい。
ミアは、あまりのことに気を失った。
クラインの忠告を聞き入れなかったミアがこの結果を招いたのだ。
聞き分けのないミアを、クラインはもう見放しただろうか――。




