第93話 恐れの中で
荷受け係の男が、足元の籠を長靴で押した。
ガルの弟が屈んで拾おうとすると、男が手を振る。
「近寄るな。下がっていろ」
弟は手を止めて後ろへ退いた。ガルの父親が進み出て籠を拾い、少し離れた場所へ置き直す。
「こちらへ置いておきます」
男は返事をせず、中を確かめた。
ポルフィラはガルの弟を見た。男の背へ目を向けながら、兄の隣から動かず口を結んでいた。
落ちたのでも、間違った場所へ置いたのでもない。籠を拾おうとしただけだ。
ポルフィラは口を開きかけた。だが自分が何か言えば、ガル達まで逆らったと言われるだろう。
やがて係が立ち去った。
ガルがポルフィラのそばへ来た。
「何か言いそうな顔をしてたな」
「どうして、あんなふうに言われなければならないの」
ガルは弟の背を見た。
「何もしてなくても言われるだろ。いつものことだ」
ポルフィラはうなずいた。この扱いは今日になって始まったわけじゃない。けれど色んなことを知ってしまった今、いつものことだと自分を納得させることができなかった。
トーマが二人へ近づいた。
「管理者がいるときなら、あの人もあまり言わないよ」
「じゃあ、いないときは我慢するしかないの?」
ポルフィラが尋ねると、トーマの眉が寄った。
「我慢したいわけじゃないよ。僕も、父さんにあんな言い方をされるのは嫌だ。でも逆らえない」
その声にポルフィラは顔を上げた。
「……うん。分かってる」
ガルもトーマも、家族を守るために黙ることを選んでいる。
自分が声を上げれば、村に迷惑をかける……
*
夕方、ポルフィラは鍛冶場の戸口に座った。
ドランが炉を見ている。父も母も、今日のような場面を何度も生きてきた。自分が育つ間も、顔に出さずに耐えていただろう。
遠くには、天馬を狩る竜がいる。
〈オブシディオン〉
呼ぶと返事が届いた。
〈聞こえている〉
ポルフィラは今日あったことを話した。その時のことを思い出すと言葉が強くなった。
〈あなたを見たら、あの男は怖がると思う〉
〈怖がるだろう〉
答えは静かだった。
男が逃げる姿を思い浮かべると、一瞬だけ胸が晴れた。けれどそのあと、この村に何が起きるだろう。竜が去ったとき、この村に何が向けられるだろう。
〈でも、その人を追い払っただけでは、みんなの暮らしは変わらないのは分かってる…〉
オブシディオンは黙って聞いていた。
この村の管理者や領主たちに会ってから、天馬の民も一人ずつ違うと知っている。竜の民をちゃんと同じ人間として対等に扱ってくれる人達がいる。
その人たちまで、竜を前に怯えさせたいわけではなかった。
〈昔は二つの民が一緒に暮らしていたのでしょう〉
〈エルディオとセレフィアが生きていたころだな〉
〈うん。反乱が起こる前、みんなはどんな暮らしをしていたの?〉
ポルフィラは、ガルの弟が顔を伏せた姿を思い出した。
〈平和だったとは聞いたけれど、普通の人たちがどう暮らしていたのかは、まだ知らないから〉
オブシディオンは少し間を置いて答えた。
〈分かった。あのころの話をしよう〉




