第92話 人のいない空
最後に人の道を見てから、オブシディオンは山を幾つも越えた。
かつて獲物を追った谷には木々が茂っていた。川は流れを変え、覚えている岩場の一部も崩れている。それでも遠くの山の形は残っていた。オブシディオンはその峰を頼りに飛び、やがて草の広がる土地へ出た。
地上に白い点が動いていた。
近づくと灰色のものも見えた。草を食む天馬の群れだった。翼を畳んだ成獣のそばで、小さな一頭が首を下げている。谷の向こうにも別の群れがいた。
人の住む家も囲いもない。天馬たちは草原を渡り、水の流れる場所へ移っていた。
まだ、いる。
オブシディオンは山の斜面に沿って高度を下げた。空腹が強まっていた。草原を見下ろすと、群れの端にいた黒い成獣が顔を上げた。
その目が空を捉えた。
すぐに翼が開く。近くの灰色の天馬も首を上げ、草を食んでいたものたちが一斉に走り始めた。幼い天馬のそばには成獣が寄り添い、ほかのものが逃げる方を塞がないように動いた。
黒い一頭が飛び立った。
後ろに二頭が続く。群れの大半が地上から離れる間、その三頭はオブシディオンへ向かってきた。
黒い天馬が翼を打ちつけた。
突風がオブシディオンへ吹きつけ、真下の草が倒れた。斜面の石や土まで巻き上がる。黒い一頭は竜の前に立ちはだかり、群れへ近づけまいとしていた。
オブシディオンは横へ飛んで突風を避けた。その先へ黒い天馬が回り込み、今度は刃のように鋭い風を続けて放つ。
一つが首の鱗をかすめた。もう一つは胴の脇を通り抜け、背後の岩を大きく切り裂いた。地上の木も幹から切断されて倒れる。
オブシディオンに残ったのは鱗の表面のかすり傷だけだった。そのまま翼を打ち、黒い天馬へ近づく。
灰色の二頭が割って入った。一頭は左から翼へ迫り、もう一頭は正面から顔を狙った。オブシディオンは二頭の上へ飛び上がり、その頭上を越えた。
遠くでは群れが山の向こうへ逃げていた。幼い天馬を囲むように成獣たちが飛んでいる。
黒い天馬は群れに合流せず、再びオブシディオンの前へ戻った。灰色の二頭も左右へ並ぶ。三頭は竜を囲み、逃げた群れと反対の方へ追い払おうとした。
オブシディオンはさらに高く上がった。
三頭が追ってくる。先頭の黒い天馬が突風を放ったが、オブシディオンの上昇は止まらなかった。天馬たちは次第に下へ取り残されていく。
十分に上がったところでオブシディオンは翼を畳み、黒い一頭へ急降下した。
天馬が横へ逃れようとする。オブシディオンはその進路へ黒い炎を吐いた。炎に包まれた翼が動きを失い、天馬の身体が傾く。その胴へ牙が食い込んだ。
灰色の二頭が左右から迫った。オブシディオンは仕留めた一頭を地上へ落とし、向かってくる二頭へ首を向けた。
片方の蹄が鱗を打った。けれど傷もつけられず、天馬は離れようと身をひねる。オブシディオンはその一頭を黒い炎で包み、もう一頭へも頭を振って炎を浴びせた。
二頭は風を起こして火を吹き払おうとした。だが炎は翼から胴へ燃え広がり、羽ばたく力を奪った。灰色の身体が続けて地上へ落ちた。
草原に重い音が響いた。
オブシディオンは三頭のそばへ下り、翼を畳んだ。逃げた群れはすでに遠くの山を越えようとしていた。
これ以上は追わなかった。
肉を食む音だけが、焼けた草のそばに残った。
*
その夜、ポルフィラは片づけを終えて寝床へ腰を下ろした。
ドランは炉の火を始末していた。ミレアが窓を閉め、明日の仕事に使う布を畳んでいる。ポルフィラは母へ声をかけた。
「少し、オブシディオンに聞いてみるね」
ミレアの手が止まった。それからうなずき、娘のそばへ座る。
〈オブシディオン。狩り場へ着いた?〉
呼びかけると、低い声が返った。
〈着いた〉
〈天馬は、まだいたの?〉
〈いた。群れも、子供もいた〉
ポルフィラは目を閉じた。初めてシルヴァを見たときには、立ち尽くすほどだった。その天馬たちが人のいない草原に集まり、子を育てている。
〈食べられた?〉
〈食べた。今は休んでいる〉
ポルフィラは膝に置いた手を見た。食べたと聞いて安心しかけ、何を食べたのか思い出した。
〈怪我はしなかった?〉
〈かすり傷だ。心配はいらない〉
かすり傷だと聞いて少し安心した。けれど相手は天馬だった。どんな傷を負ったのか、自分には見えていない。その傷が心配になった。
ミレアが娘へ顔を向けた。
「話せたの?」
ポルフィラはうなずいた。
「昔の狩り場に、今も天馬がいたって。食べて休んでいるそうだよ」
母は少し黙り、娘の手へ目を落とした。
「あなたがここにいる間に、そんな遠くまで行ったのね」
ポルフィラはうなずいた。
村で一日を過ごしている間に、オブシディオンは山を越え、人の知らない土地へ飛んでいた。そこには草原も群れもある。王都と諸侯の領地の外へも、世界は続いている。
ポルフィラはもう一度呼びかけた。
〈また、話してね。そこがどんな所か〉
〈分かった〉
短い返事があった。
ミレアが寝床の布を広げた。ポルフィラは礼を言い、横になった。窓の外では村の木々が夜風に揺れている。
人のいない草原で羽を休める天馬たちを思い浮かべた。明日も草を食み、群れで空へ上がるのだろう。
その空を見たいと思ってから、自分はそこへ行くにも許しが要るのだと気づいた。




