第91話 いつもの戸口
ミレアはポルフィラの話を聞くと、膝に置いた手を握った。
「村に帰っても聞こえるのね」
「うん。帰り道で呼んだら返事があったよ」
ポルフィラは母の隣に座っていた。館へ戻ってから、山で聞いたことを二人に話した。呼ばれても行くかどうかは自分で決められること。村へ来ないでほしいと頼み、オブシディオンが承知したこと。
ミレアはそれを聞くたびにうなずいた。けれど声がどこまでも届くと知ると、娘の顔を見たまま黙ってしまった。
ドランが口を開いた。
「離れていても話せるなら、おまえをあの場所で待つことはなくなるな」
少し間を置いて続けた。
「だが家にいても呼ばれるのか」
ポルフィラはうなずいた。
「呼ばれても、ここで返事をして話せばいいんだもの」
ミレアが娘の手へ触れた。
「困ることを言われたら私たちにも話してね」
「うん」
ポルフィラは母の手を握り返した。安心させられる話ばかりではなかったが、二人の顔を見て話せるのはうれしかった。
オブシディオンが天馬を狩ることを伝えると、ドランは机へ置いた手を止めた。
「天馬を食うのか」
「人のいない遠い土地に群れがいたんだって。今もいるか確かめに行くと言っていたよ」
ドランは娘を見た。天馬一頭に村を壊されたという話が頭から離れない。その天馬を獲物として追う相手と娘が話している。
竜が戻れば何かが変わるのだろうか。
思いかけて、ドランは隣にいる娘へ目を戻した。村を救うために何かをしろなどと、この子へ言うことはできなかった。
「その二頭の天馬は大丈夫なのか」
ポルフィラはうなずいた。
「襲うつもりはないと言ってくれた。でもリゼリアも怖がっていた」
ドランは息を吐いた。人と繋がる天馬を持つ娘でも怖がる相手だ。自分たちが何を心配すれば足りるのか、もう分からなくなった。
ミレアが娘の肩を撫でた。
「明日は帰ろうね。父さんも母さんも、あなたを家へ連れて帰りたい」
ポルフィラは二人を見てうなずいた。
*
村へ戻ったのは翌日の夕方だった。
森の道を抜けると畑が広がり、その向こうに家々が見えた。ポルフィラは髪を覆っていた布を少し緩める。館を出るときには村が遠く感じられたが、やっと帰ってこられた。
井戸のそばにいたリナが顔を上げた。
「ポルフィラ!」
持っていた桶を下ろして駆けてくる。
「ただいま」
「おかえり。長かったね」
リナはそう言ってからドランとミレアにも挨拶した。何をしていたのかは尋ねず、ポルフィラの荷物へ手を伸ばす。
「家まで持つよ」
「自分で持てるよ」
「じゃあ一緒に帰る」
リナが隣へ並ぶと、ポルフィラは布をほどいた。髪が肩へ落ちる。道の向こうでガルの弟が手を振り、家の陰からは誰かが夕飯に呼ばれる声が聞こえた。
ここでは皆が自分を知っている。名前を呼ばれたら返事をして、家へ帰れる。そのことが急にうれしくなった。
家の戸を開けると、ミレアが窓へ向かった。閉じていた部屋に風が通り、ドランは鍛冶場の方を確かめに行く。
ポルフィラは荷物を下ろした。机も寝床も出かけた日と同じだった。リナが窓辺へ座り、母が片づけをしながら村の様子を尋ねる。
出かけた先で何をしていたか聞かずに、リナは畑の仕事の話をした。ガルが弟と張り合っていたことや、トーマの妹が家の手伝いで褒められたこと。ポルフィラは笑いながら聞いていた。
リナが帰るとき、ポルフィラは戸口まで送った。
「また来てね」
「明日でも?」
「うん」
リナはうなずいて家へ向かった。姿が道の角に消えるまで見送ってから、ポルフィラは戸口に立ったまま胸の中で呼んだ。
〈オブシディオン〉
返事を待つ間、家の中からミレアが椀を並べる音が聞こえた。
〈聞こえている〉
ポルフィラは戸の縁へ手を置いた。本当に家まで届いた。
〈村に帰ったよ〉
〈そうか〉
〈父さんと母さんも一緒。友達にも会えた〉
〈帰れてよかったな〉
ポルフィラは目を伏せた。つい先ほどまで山で聞いていた声を、いつもの戸口で聞いている。目の前には村の道があり、遠くの空へは夕焼けが広がっていた。
〈あなたは狩りに行けたの?〉
〈まだ途中だ。昔の狩り場は遠い〉
ポルフィラは空を見上げた。今もどこかを飛んでいるのだろう。そこにどんな土地があるのか、自分には見えなかった。
後ろで足音がして、ドランが戸口へ来た。
「どうした」
ポルフィラは父を振り返った。
「私から呼んでみたの。オブシディオンに」
ドランは一度だけ空を見た。それから娘へ目を戻す。
「返事があったか」
「うん。今も狩り場へ向かって飛んでいるって」
父はしばらく黙っていた。やがて家の中へ顔を向けた。
「母さんが待ってるぞ」
ポルフィラはうなずき、胸の中で伝えた。
〈これから家族で食べるね。また話す〉
返事は短かった。
〈ああ〉
父と一緒に部屋へ入ると、ミレアが席を空けてくれた。ポルフィラはいつもの場所へ座り、母から椀を受け取った。
ドランも隣へ腰を下ろした。何もかも以前どおりになったわけではない。けれど今夜は三人で食べられる。
ポルフィラは湯気に顔を寄せ、温かいうちに口をつけた。




