第90話 遠くへ届く声
オブシディオンが頭を下げたとき、ポルフィラは一歩だけ近づいた。
黒い鱗の重なりが、前よりはっきり見えた。陽の当たるところには紫の艶があり影へ入ると黒く沈む。触れたいと思って伸ばしかけた手を、ポルフィラは胸元へ戻した。
オブシディオンは急かさなかった。大きな目が、その手から顔へ戻る。
マティアスがそばへ来た。
「そろそろ戻ろう」
ポルフィラは空を見上げた。次に来るまで、この相手はまた山で待つことになる。
「私たちが帰ったあとも、ここにいるの?」
オブシディオンは首を持ち上げ、岩壁の向こうへ顔を向けた。
〈狩りに出る〉
ポルフィラは目を瞬いた。
「狩り?」
〈この身体で生きるには、食べなければならない〉
黒い胸と太い後脚へ目が向いた。動き、空を飛ぶ生き物なのに、食べることまでは考えていなかった。
「何を食べるの?」
〈肉だ。天馬も狩る〉
ポルフィラは聞き違えたかと思った。
「天馬を……食べるの?」
その声に、リゼリアが顔を向けた。
オブシディオンは、ポルフィラを見ていた。
〈そうだ〉
ポルフィラの目が、シルヴァへ動いた。自分を背に乗せ、村からここまで運んでくれた身体。その首へリゼリアが手を置いている。
「今、何と言ったの?」
リゼリアの問いに、ポルフィラは唇を湿らせた。
「天馬も狩って食べるって」
リゼリアがシルヴァのそばへ下がった。レオノーラも、ヴェスペラを振り返る。二頭は首を上げオブシディオンを見ていた。
「どこの天馬を狩るの?」
レオノーラの声が固くなった。ポルフィラはその問いを伝えた。
〈ここから遠く離れた土地に、野生の群れがいた〉
ポルフィラは顔を上げた。
「群れ?」
〈人のいない土地だ。空を飛び、草を食み、子を育てていた〉
その言葉を知らせると、レオノーラが目を見開いた。
「天馬が、群れで暮らす土地……?」
ポルフィラはうなずいた。
「遠くに、たくさんいたそうです」
レオノーラの手がヴェスペラの首へ伸びた。
〈あなたは、その土地を知っている?〉
〈行ったことはない〉
返事を聞いても、彼女はすぐには手を離さなかった。国の飼育地とは別に、人の手も届かない場所で、天馬が群れを成している。そんな土地があるとは聞いたこともなかった。
リゼリアがシルヴァの首を撫でた。
「天馬が、それほどいるのに、人と繋がるのは……」
言葉を切り、ポルフィラを見た。幼い日に空から下りてきた一頭との出会いを、二度とは起きないほど貴重なものとして生きてきた。
ポルフィラはオブシディオンへ問いかけた。
「その天馬たちは、人と繋がっていないの?」
〈人のいないところで暮らしている。繋がる相手に出会わずに生きるものの方が多い〉
ポルフィラは三人へ伝えた。マティアスは岩壁の向こうを見た。自分たちの国で天馬の加護を得る者は数えるほどしかいない。けれど、そのことと世界に天馬がどれほどいるかは、同じではなかった。
「今も、いるの?」
ポルフィラが尋ねると、オブシディオンは首を少し動かした。
〈昔の狩り場を見に行く。今も同じように暮らしているかは、確かめなければ分からない〉
どれほど昔の景色を覚えているのだろう。エルディオを知り、それより前にも生きていたこの竜は、自分たちには想像もつかない遠くの場所を知り、飛んでいた。
ポルフィラは畳まれた黒い翼を見た。
「でも天馬は大きいし、風で攻撃できるのでしょう。逃げたり、戦ったりするよね」
〈する〉
返事は短かった。
〈あの風は、私の鱗にも傷をつける。だがそれだけでは、私を殺せない〉
ポルフィラの視線が、黒い胸へ下がった。村の家々を壊し、人々を切り裂いたと聞いた風。その風を受けても、オブシディオンは天馬を追い、捕らえて食べる。
そばに立つシルヴァを、もう一度見た。天馬より大きいとは分かっていた。けれど強さの違いを、食べるという言葉で知るほど恐ろしく感じたことはなかった。
「一度に、どれくらい食べるの?」
〈黒い天馬なら、数頭ほど。毎日ではないが腹が減れば狩る〉
ポルフィラは口を閉じた。あの牙の間へ天馬が収まると思ったのは、ただの想像ではなかった。
リゼリアが、ポルフィラの腕へ触れた。
「シルヴァたちのことも聞いて」
指に力がこもっていた。ポルフィラはうなずき、オブシディオンを見た。
「この二頭を襲ったりはしないよね」
〈おまえたちを連れてきた二頭を狩るつもりはない〉
答えを伝えると、リゼリアは息を吐いた。それでも、シルヴァの首へ添えた手は離さなかった。
オブシディオンは岩壁の向こうへ顔を向けた。ポルフィラは、その目を見た。エルディオの子を守るため、自分から消えることを勧めた相手だった。同時に、天馬を狩って生きる竜でもある。
「町や村の上は飛ばないでほしいの。人が見たら怖がるから」
〈人のいる場所は避けよう〉
返事を聞いてから、ポルフィラは尋ねた。
「でも遠くへ行ったら、次に来ても会えないかもしれないね」
〈来る前に呼べばよい〉
「ここまで来なくても?」
〈どれほど離れていても、おまえの声は届く〉
ポルフィラはオブシディオンを見上げた。村へ帰れば、この声も聞こえなくなると思っていた。
〈私が呼べば、あなたにも聞こえるの?〉
声を出さずに尋ねると、紫の瞳が瞬いた。
〈聞こえる〉
ポルフィラは少し息を吐いた。いつまた天馬に乗って来られるだろうかと考えていた。けれど話すためだけに毎回、父と母のそばを離れなくてもよい。
そのことをレオノーラたちへ伝えると、マティアスが娘を見た。
「村に戻ってからも話せるのだな」
「そう言っています。狩りに出ていても呼べば届くって」
レオノーラはオブシディオンを見上げた。それから、ポルフィラへ顔を戻す。
「では次に来る前には、この竜が戻っているか確かめられるのね」
ポルフィラはうなずいた。帰ったら両親にも話そうと思った。呼ばれたからといって家を抜け出す必要はない。自分から、ここまで行かずに尋ねることもできる。
ただ父と母は、この繋がりをどう受け止めるだろう。家へ帰っても竜の声が届くと知れば、安心するばかりではないかもしれなかった。
オブシディオンへ顔を向ける。
「父さんと母さんに、今のことも話すね。二人とも私がどうなるのか怖がっているから」
〈伝えるとよい〉
ポルフィラはうなずき袋を服の下へ戻した。まだ知らないことはある。それでも帰って話せることが増えていた。
*
二頭が岩壁を越えるまで、オブシディオンは斜面にいた。
ポルフィラは何度か振り返ったが、黒い身体が見えなくなると前を向いた。リゼリアの肩越しに、麓へ続く山々を眺める。
しばらく飛んでから、胸の中で呼んだ。
〈オブシディオン〉
すぐに返事があるとは限らない。そう思って待つ間、翼の音が耳のそばで続いていた。
〈聞こえている〉
ポルフィラは目を見開いた。後ろを振り向いても、もうあの山は見えない。それなのに声は岩棚で聞いたときと同じように届いた。
〈本当に、聞こえる〉
返すと低い声が続いた。
〈まだ帰り道だな〉
〈うん。天馬の背にいる〉
〈落ちるな〉
ポルフィラは、リゼリアの服をつかみ直した。
〈ちゃんと、つかまってるよ〉
そのとき遠くから空を震わせる音が響いた。
ポルフィラが振り返ると、岩壁の向こうへ、黒い翼が上がっていた。朝に見た斜面を離れ、オブシディオンが飛び立っている。二頭を追うのではなく人里とは違う方へ身体を向けた。
山の間を越えていく巨体をポルフィラは見送った。翼が岩の向こうへ消え、やがて音も聞こえなくなる。
それでも、呼べば届く。
ポルフィラは前を向いた。帰ったら何から話すか、父と母の顔を思い浮かべながら考えた。




