第89話 消えたあとに
オブシディオンの声が、ポルフィラの内側へ届いた。
〈私が姿を消すことを、勧めた〉
ポルフィラは空の袋を押さえた。今から聞くことは、あの石に繋がる。口を開かず紫の目へ問いかけた。
〈どうして? 子供たちは、もう守ってもらえたのでしょう〉
〈私とエルディオが生きている限り敵は追う。逃げた者たちのところへ我々が戻るのを待つだろう〉
ポルフィラはレオノーラへ目を向けた。オランデルに逃がしたあとも、そこへ行けば居場所を教えてしまう。
〈隠れるだけでは駄目だったの?〉
〈エルディオは隠れられる。私は、どこへ行っても見つかる〉
黒い翼が、風を受けてわずかに動いた。ポルフィラはその端を目で追った。山から村へ来ないでほしいと頼んだのも、この身体を誰にも見られずに隠すことはできないからだった。
〈だから私がいなくなり、エルディオも死んだと思わせればよいと考えた〉
ポルフィラは目を上げた。
〈あなたが消えたらエルディオも死んだことになるの?〉
オブシディオンの視線が二頭の天馬へ動いた。
〈天馬が死ねば、繋がる人も死ぬ。人が死ねば、天馬も死ぬ。あの者たちは、それを知っている〉
リゼリアがシルヴァと繋がったとき、片方だけでは生きられなくなったと聞いた。今その話を思い出すと、胸が冷えた。
〈エルディオも、あなたと一緒に……〉
〈死なない。私と繋がる者は、天馬と繋がる者とは違う。私と人は天馬と同じ繋がり方はしない〉
ポルフィラは、オブシディオンの目を見つめた。
〈あの者たちは知らなかった。私が消えれば、エルディオの命も尽きたと思うだろう。そうなれば彼は顔を隠して生きられる〉
消えた竜と姿を見せなくなったエルディオ。敵には二人とも失われたように見える。けれど子を守る父は残る。
ポルフィラは袋から手を離した。
〈魂のかけらになったのは、そのためだったのね〉
〈そうだ〉
返事は静かだった。
〈エルディオは、すぐには受け入れなかった〉
妻を殺され、子と離れ、今度は唯一無二の繋がりを持った相手まで失おうとしていた。
〈エルディオが、あなたに消えてほしいと頼んだのではないのね〉
〈私から勧めた。残った者たちを守るには、彼が生きている方がよい〉
オブシディオンは少し首を下げた。
〈子は生きているのだから〉
ポルフィラの喉が詰まった。エルディオも子に会いたかっただろう。そばで育っていく姿を見たかっただろう。そのために何を手放さなければならないのか、オブシディオンは分かっていた。
〈それから石は、その子へ渡されたの?〉
〈私が託した。子へ渡し、その先も守ってほしいと〉
誰も石の正体を知らないまま、失わずに受け継いできた。
〈私と繋がる子が生まれれば分かる。そうエルディオに伝えた〉
ポルフィラは目を伏せた。
石を渡す子が生まれれば、分かる。
叔母が知っていたのは、長い年月の中に残った、その短い言葉だった。それで石と似た色を持って生まれた赤ん坊に託した。
〈私が生まれるまで待っていたのね〉
〈そうだ〉
紫の瞳が、ポルフィラを見ていた。
隣でマティアスが娘の顔をのぞき込んだ。
「少し、休もうか」
ポルフィラは顔を向けた。長い間、声を出さずにいたことに気づく。三人には何も聞こえていなかった。
「大丈夫です。もう少しだけ」
マティアスはうなずき、そのままそばに立った。
ポルフィラはオブシディオンへ目を戻した。
〈あなたが消えたあと、エルディオは子供に会えたの?〉
〈会った。人々の前には戻らず、子と残った親族を守っていた〉
〈ずっと?〉
〈人としての寿命が尽きるまで、生きた。私は石の中でそれを見ていた〉
ポルフィラは息を吐いた。平和を築いた人が妻を殺され、何もかも失って死んだのだと思っていた。けれど子は残り、その子と暮らす日々があった。
その先で自分が生まれた。
〈そのことは、みんなにも話していい? 子供たちを守って生きていたこと〉
〈よい。魂のことは話さずとも伝えられる〉
ポルフィラはうなずき、レオノーラたちへ向き直った。
「エルディオは、逃げた人たちが隠されたあとも、生きていたそうです。密かに子供や親族を、寿命が来るまで守っていたって」
レオノーラの唇が、わずかに開いた。
「子供に、会えたのね」
レオノーラの声に、ポルフィラはうなずいた。
「はい。会えたって」
それ以上、尋ねる声はなかった。山に吹く風の中で三人は、その光景を思い浮かべているようだった。
ポルフィラはオブシディオンへ向き直った。
〈エルディオのこと、まだ覚えているのね〉
オブシディオンは答えず、しばらくポルフィラを見ていた。やがて低い声が届く。
〈忘れたことはない〉
その目を見つめていると、掌に石を載せたときには分からなかった年月を感じた。エルディオが生きた年月よりも長く、オブシディオンは彼を思っていた。
ポルフィラは黒い鱗へ触れたいと思った。けれど近づくには、まだ勇気が足りなかった。
代わりに、その名を声に出した。
「オブシディオン。話してくれて、ありがとう」
大きな頭が、ゆっくりと下がった。




