第88話 守るために残った者
ポルフィラは袋から手を離し、竜を見上げた。
石を守ってくれた両親にも、その正体は話せない。けれど、この相手が知っている昔のことまで、聞いてはいけないわけではなかった。
ポルフィラは、こちらを見る紫の目へ問いかけた。
「まだ名前を聞いていなかった。あなたを何て呼べばいい?」
〈オブシディオン〉
声が届いた。
「オブシディオン……」
ポルフィラは、その名をゆっくり繰り返した。レオノーラたちが顔を上げる。
「この竜の名前です。今教えてくれました」
もう一度呼ぶと、紫の瞳が静かに瞬いた。ポルフィラは、その顔を見てからレオノーラへ顔を向けた。
「エルディオのことを、聞いてもいいですか」
「ええ」
彼女は竜へ目を向けた。マティアスもリゼリアも、ポルフィラが話し始めるのを待っていた。
「セレフィアが殺されたとき、エルディオはどこにいたの?」
問いかけると、オブシディオンの目が静かになった。
すぐには返事がなかった。首を覆う黒い鱗に風が触れ、畳まれた翼の端がわずかに動く。ポルフィラは、その顔を見つめたまま待った。
〈私とともに、戦争を止めに行っていた〉
ポルフィラは顔を上げた。
「戦争?」
〈ルベリオンと手を組んだ領主が、アルジェント家と血縁のある別の領主へ攻め込んだ。天馬と軍を率いていた〉
オブシディオンは、岩壁の向こうへ目を向けた。
〈あの頃は、今ここにいる二頭のほかにも多くの天馬がいた。戦いになれば、空からも地上からも人が殺される。エルディオは、それを止めようとした〉
「あなたに乗って、飛んでいったのね」
〈そうだ〉
ポルフィラは畳まれた翼を見た。二つの民の平和を築いた人が、また戦争が起きたと聞いて飛び立った。
〈ルベリオン家は長い間、セレフィアの忠実な家臣として振る舞っていた。当時ルベリオン家は一番多くの天馬を有していて、その武威を恐れる領主に協力させ、王位簒奪を目論んだ。よそで反乱を起こさせ、彼女を守るために来たと称して、彼女のそばへ通された〉
ポルフィラの手を握りしめた。
〈彼女が殺されたと、あとから聞いた〉
ポルフィラはレオノーラへ顔を向けた。
「ルベリオンって、今の王家の……」
レオノーラは唇を結び、うなずいた。
「当時、王位を奪った家よ」
隣でリゼリアが息を呑んだ。
ポルフィラは竜へ目を戻した。
「エルディオは、いつ知ったの?」
〈私たちが戦いを止めに向かったあと、知らせが届いた〉
オブシディオンの頭が、わずかに下がった。
〈エルディオは、何度も聞き直した。誰が殺されたのか。セレフィアなのか。名を間違えてはいないか、と〉
ポルフィラは黙った。知らせを聞いても信じられず、違う名であることを祈ったのだろう…
〈彼は帰ると言った。だが戻っても彼女にはもう会えないと、分かっていた〉
風が岩棚を吹き抜けた。ポルフィラは両腕を身体へ寄せたが、寒いのは風のせいではなかった。
二人が人々を守ろうと飛んでいる間に、セレフィアは味方だと思う相手に殺された。竜をそばにおいて、助けを求める人々を見捨てればよかったのだろうか。そんなことは言えなかった。
隣にいるマティアスへ目が向いた。生みの母を亡くしたこの人は、知らせを聞いたとき、どうしたのだろう。今まで尋ねたことはなかった。
マティアスが娘を見た。
「何を聞いた?」
ポルフィラは竜の言葉を伝えた。話すうちリゼリアの手が胸元で握りしめられた。レオノーラは目を伏せ、マティアスも黙り込んだ。
ポルフィラはもう一度、竜を見上げた。
「そのあと、エルディオも姿を消したって聞いたの。どうして?」
竜の視線が戻った。
〈子供がいた。彼女の身内にも、生きている者がいた〉
「その人たちを守るため?」
〈妻を失ったあとに、子まで失わせるわけにはいかなかった〉
声を聞いたとき、ドランの握った手を思い出した。おまえが帰ってこなかったら怖いと父は言った。ミレアも娘を抱く腕を緩めなかった。
エルディオにも、他に生きて欲しい相手がいたのだ。
「残った人たちを、あなたに乗せて逃げられなかったの?」
ポルフィラは竜の顔を見た。天馬さえ小さく見える、この竜がそばにいたのに。
〈全員を私の背に乗せることはできない。離れたところにも、守りたい者たちがいた。私たちがいない場所にいる他の者たちは守れない〉
ポルフィラは言葉を失った。
竜がどれほど強くても、離れた場所にいる両親や村の友達まで、その翼で覆えるわけではない。
〈だからオランデルに託すよう勧めた〉
ポルフィラはレオノーラへ顔を向けた。
「あなたの一族に、子供と残った身内を託したそうです。オブシディオンが、エルディオに勧めたって」
レオノーラの目が竜へ向いた。
「……そうだったのね」
声がかすれた。自分の一族が彼らを守ったことは知っている。けれどその決断のそばに、この竜がいたと聞くのは初めてだった。
ポルフィラは竜へ問いかけた。
「エルディオは一緒に逃げなかったの?」
〈私と彼が逃げる者たちとともに動けば、敵を連れていくことになる〉
竜は首を少し下げた。
〈人々の目に映るのは、我々の姿だった〉
この竜が飛んでいたら、どれほど遠くからでも気づかれてしまうだろう。
〈私たちは逃げる者たちから離れた。こちらへ敵の目を向けるために〉
「囮になったの?」
〈そうだ〉
短い答えが返った。
子を逃がすために自分は残った。子がどこまで進めたかも分からないまま、敵の目を引きつけていた。
「その子は、ちゃんと逃げられたの?」
自分がその子の子孫だと分かっていても、尋ねずにはいられなかった。
紫の目がポルフィラを見た。
〈オランデルに保護された。それを確かめた〉
ポルフィラは、ようやく息を吐いた。その知らせを待っていたエルディオは、どれほど長く感じただろう。
レオノーラがそばへ来た。
「逃げた人たちは?」
「守られたそうです。エルディオは、それを確かめたって」
レオノーラはうなずいた。
「話してくれて、ありがとうと伝えてもらえる?」
ポルフィラは竜を見上げ、彼女の言葉を伝えた。竜はレオノーラを見てから、ゆっくりと頭を下げた。
ポルフィラは、両親にもこの話を伝えたいと思った。竜がいれば、もう誰も傷つかないとは言えない。目の前の相手自身が、それを知っていた。
それでも、子供と、残った人々を逃がすことはできた。
エルディオは平和を築いた昔の英雄である前に、妻を失い、子を守ろうとした父だった。
ポルフィラは竜の目を見た。
「逃げた人たちが守られたあと、あなたたちはどうしたの?」
オブシディオンはしばらく黙っていた。黒い鱗に陽が差し、首の側面へ紫の艶が浮かぶ。
〈そこで私から、もう一つ勧めたことがある〉
声が届くと、ポルフィラの手が、空の袋へ戻った。




