第86話 竜が戻った知らせ
クラウス・ヴェルディアは、レオノーラの話を聞き終えても、返事をしなかった。
窓の外には、中庭のヴェスペラが見えた。灰色の翼を畳み、首を上げて城を見ている。あの天馬よりはるかに大きい竜を、レオノーラが見たという。
「石を投げたら、現れたのか」
「ええ」
「消えたと伝わっていた竜が?」
レオノーラはうなずいた。クラウスは椅子から立ち、窓へ近づいた。短く整えた淡い金髪の下で、眉間の皺が深くなる。
竜が昔いたことは信じていた。アルジェントの血を引く者たちが、その事実を伝えてきたからだ。けれど、生きている竜に会う日が来るとは、思ってもいなかった。
「ポルフィラは」
「両親と一緒にいるわ。怪我はない」
クラウスは窓枠へ置いた手を下ろした。
「ドランたちには話したのだな」
「隠して帰すことはできないでしょう。娘に何が起きたか、知らせないわけにいかないわ」
その答えに、クラウスは黙った。倉で呼び出され、思いがけずエステリアに会わされた男の顔を思い出す。あのときから、ドランの家には受け止めるには大きすぎる話ばかりが持ち込まれている。
「テオバルトにも、直接聞いてもらおう」
クラウスは机へ戻った。書状には竜のことは書かなかった。レオノーラが滞在していることと、急ぎ相談したいことがあるとだけ記し封をした。
*
テオバルト・インディルが城へ着いたのは、数日後だった。
クラウスは家臣たちに休むよう伝え、二人の領主を奥の部屋へ案内した。レオノーラは、テオバルトが腰を下ろすのを待って口を開いた。
「山で、竜を見たわ」
テオバルトの手が椅子の肘掛けで止まった。
「……何と言った」
レオノーラは山で何が起きたかを話した。話しているうちに、もう乾いたはずの掌が湿ってきた。
テオバルトは一度も口を挟まなかった。話がポルフィラにだけ届く声へ及ぶと、白くなった眉の下の目が、レオノーラを捉えた。
「その子と繋がったのか」
「竜は繋がる者だから待っていたと言ったそうよ。本当に繋がっているのか分からない。でも私には、その声も聞こえなかった」
テオバルトは深く背を預けた。持っていた手袋を机へ置こうとして、途中でやめる。
「では、我々が守ってきた石は……」
言い切れず、唇を結んだ。
レオノーラも答えられなかった。失わずに渡すことはできた。けれど、そのあとに何が起きるか誰も知らなかった。
「リゼリアも見たのだな」
「ええ。ポルフィラを乗せていた。シルヴァも怖がったそうよ。ヴェスペラもあの身体が火口から出てきたときには、すぐ離れようとしたわ」
テオバルトは手袋を握った。隠している血筋だけで、リゼリアの身には危険がある。その娘がもう一人の娘とともに、竜を目の前にしていた。
「二人とも、よく戻った」
低い声に、レオノーラはうなずいた。
クラウスが口を開いた。
「ポルフィラは、もう一度会いたいと言っている。エルディオを知っている竜なのだそうだ」
テオバルトの顔が上がった。
「村が今もあるか、尋ねられたとも聞いた」
しばらく誰も話さなかった。守り続けた記録の中にしかいなかった人を、その竜は知っている。セレフィアが生きていた頃のことも、彼女が殺されたあとのことも、覚えているかもしれない。
レオノーラが机へ目を落とした。
「私も聞きたいことがあるわ」
「だが両親は恐れている……」
クラウスの言葉に、彼女は顔を上げた。
「分かっているわ」
「今後、竜と関わり続ける覚悟を持って欲しいと、あの家族へ求めるのか?」
レオノーラはすぐには答えなかった。ポルフィラを抱いたミレアの手も、言葉を詰まらせたドランの顔も、まだ目に残っていた。
テオバルトが静かに言った。
「だが会うのをやめさせれば、それで済むことでもあるまい。竜は現れてしまった。その竜と繋がったのなら、その子は、どのような繋がりか知る必要がある」
「私も、そう思うわ」
レオノーラは二人を見た。
「私たちのために、あの子を山へ連れていくつもりはないの」
クラウスは椅子へ座り直した。
「まず、その子が何を知りたいか聞こう。ドランとミレアは関わりたくないと望むだろう。私たちの質問は、彼らの話を聞いたあとだ」
テオバルトがうなずいた。
「竜がこの先、何をするつもりなのかは確かめなければならん」
レオノーラは窓へ目を向けた。中庭のヴェスペラが、城の屋根越しに遠くを見ている。
「今は山で待ってくれている。私たちが、そこへ留まれと命じたわけではないわ」
「命じて従わせられる相手でもないだろう」
クラウスの声に、レオノーラはうなずいた。天馬を持つ自分でさえ、竜が空へ上がったときには、逃げることしか考えられなかった。
「強い竜が戻ったから、もう安心だとは誰にも言えないわ」
テオバルトは手袋を机へ置いた。
「ポルフィラにも、竜にも、我々の願いを押しつけぬことだ」
クラウスは二人を見た。
「ドランたちは娘を失うことを恐れている。我々が竜の力を頼みにして、あの子を危険なことへ巻き込むわけにはいかない」
その言葉のあと、レオノーラは少し長く息を吐いた。
窓の外で、ヴェスペラが首をこちらへ向けた。レオノーラはその目を見てから、二人へ視線を戻した。
「まず、あの家族に会いましょう」
クラウスがうなずいた。
「私も同席する。ポルフィラが竜に何を聞きたいのか、両親が何を恐れているのか、本人たちから聞こう」
テオバルトも席を立った。
「その話を聞いてから、次に山へ行くかどうかを考えよう」




