第85話 帰ってきた娘
麓へ戻ったときには、山陰が宿営地まで伸びていた。家臣たちが二頭を迎え、ポルフィラが地面へ下りると、水の入った椀を渡してくれた。
「山の上はいかがでしたか」
尋ねられ、ポルフィラは顔を上げた。黒い翼を思い浮かべた途端、声が出なくなる。
レオノーラがそばへ来た。
「詳しい話は、帰ってからにします。今夜は皆を休ませて」
家臣はうなずき、寝床の支度へ向かった。ポルフィラは両手で椀を持ち直した。さっきまで誰かに聞いてもらいたいことが幾つもあった。それなのに山で見たものを、ここで口にすることはできなかった。
その夜、紫の目は夢に現れなかった。
目を覚ますと、朝の光が敷物の端へ差していた。服の下へ手を入れ、袋を探る。石はない。昨日のことは夢ではなかった。
*
館のそばへ二頭が下りると、ミレアが戸口から駆けてきた。少し遅れてドランも外へ出てくる。
ポルフィラは足場へ下り、母のそばへ急いだ。
「母さん」
ミレアは娘の両腕をつかんだ。顔を見て、服へ目を落とし、それから強く抱き寄せる。
「おかえり」
その声を聞いて、ポルフィラも母の背へ腕を回した。なぜだか涙がこみあげ、喉が詰まった。
ドランが二人のそばに立った。
「怪我はないな」
ポルフィラは母から少し離れ、うなずいた。父の大きな手が肩へ置かれる。見慣れた手の傷も、爪の隙間に残った煤も、今はひどく懐かしかった。
「父さん、あのね……」
言いかけてポルフィラは周りを見た。館の者が足場を片づけ、家臣がマティアスへ声をかけている。
レオノーラはその視線に気づき、一家へ近づいた。
「中で話しましょう。マティアスとリゼリアにも、同席してもらいたいの」
ドランは娘の顔を見た。帰ってきたばかりなのに、ただ山を見てきたとは思えない表情だった。
「分かりました」
*
部屋の戸が閉まってから、ポルフィラは袋を取り出した。ほどいた口を母へ向ける。
「石を、火口へ投げたの」
ミレアは空の袋を見つめた。ドランの手が娘の肩で止まる。
ポルフィラは麓で聞いた夢の言葉を伝えた。それから石を投げると山に何が起き、そのあと何かが現れたことを話した。
母の表情を見て、言葉が途切れた。
ミレアは娘へ手を伸ばし、握っている袋ごと包んだ。
「続けて。聞いているから」
ポルフィラは息を吸った。
「竜だったの」
ミレアの手が止まった。
「……竜?」
娘の顔を見たまま、同じ言葉を繰り返した。ポルフィラはうなずいたが、母は首を横に振った。
「待って。あの石を投げたら、竜が出てきたというの?」
「うん」
ドランはレオノーラへ顔を向けた。
「本当なのですか」
問いながら、違うと言ってほしかった。娘が何かを見間違えたのなら、どれほどよかっただろう。
レオノーラは、すぐに答えた。
「本当です。私もこの目で見ました」
ドランは口を開きかけ、そのまま娘へ目を戻した。抱き寄せられる距離にいる。怪我もなく、いつもの声で話している。それなのに今聞いたことが、この娘に起きた出来事だとは思えなかった。
ミレアがポルフィラの手を強く握った。
「あなた…そのとき…どこにいたの?」
「シルヴァの背だよ。火口からは離れてて………」
「竜は? あなたの方へ来たの?」
母の声にポルフィラは言葉を止めた。ミレアは娘の顔へ手を当てた。先ほど確かめたばかりなのに、その顔にもう一度触れずにはいられなかった。
「よく帰ってきてくれた……」
声が震えている。
ポルフィラはその手へ自分の手を重ねた。
「襲われてはいないよ。声が聞こえたから話したの」
ドランが娘へ顔を寄せた。
「話した? 竜と?」
「私にだけ声が聞こえるの。夢で見ていた目は、その竜の目だった」
ミレアの手が頬から離れた。
ドランは戸口へ目を向けた。閉まっている。それでも、今の娘の声が誰かへ届かなかったか、確かめずにはいられなかった。
竜と繋がる娘だと知った天馬の民が、その娘を家へ帰してくれるだろうか。王領で壊された家々と、殺された子供たちの話が頭をよぎった。ポルフィラを奪われても、自分には取り戻す手立てがない。
「父さん?」
呼ばれて、ドランは娘へ向き直った。
「ほかに、誰が知っている?」
レオノーラが答えた。
「山へ行った私たちだけです。麓で待っていた者にも、まだ話していません」
ドランはうなずいたが、うまく息ができなかった。山には、娘と話す竜がいる。知られていない今が、この先も続くとは限らない。
ミレアは空の袋を見つめた。赤ん坊と一緒に託され、何度も隠し場所を確かめた石だった。失わないよう守りさえすればよいと思っていた。その石から現れたものが、今は娘へ呼びかけている。
「待っていたって……あなたを?」
ポルフィラがうなずくと、ミレアは娘の両肩へ手を置いた。
「また、呼ばれるの?」
「分からない。でも声が聞こえても、勝手に行ったりしないよ」
ミレアは目を閉じた。娘を信じていないのではない。夢の中まで届く声から、どうやってこの子を守ればよいのか、分からなかった。
リゼリアが身を乗り出した。
「帰ると伝えたら竜は山に残ってくれました。ポルフィラを引き止めることはしませんでした」
ドランは彼女の顔を見た。青ざめたままの頬に気づき、娘を連れ帰った彼女も恐ろしかったのだと思った。
「ありがとうございます。無事に戻してくださって……」
そこで声が詰まった。リゼリアは首を振り、膝の上へ目を落とした。
ポルフィラは両親を見た。帰りたかった。山で聞いたことを、この二人に話したかった。それなのに、聞くほどに、父と母の顔から血の気が引いていく。
マティアスが静かに口を開いた。
「私もその場にいました。この子を見ていたのに、竜が出てきたときには、手を伸ばすこともできませんでした」
彼はドランとミレアを見た。
「次も大丈夫だとは言えません」
ドランは娘の隣へ座った。ミレアの手は、まだ肩へ置かれている。
「竜は、おまえに何を言った」
「私と繋がる者だから、待っていたって。それからエルディオを知っているって言ったの」
ドランの顔がこわばった。ポルフィラは父の袖へ触れた。
「村が今もあるかって聞かれた。父さんたちが暮らしているって答えたら、そうかって」
古い記録の中の名が、娘の口から生きた相手のように語られる。ドランは、これ以上何も聞かず家へ連れて帰りたかった。娘が無事に隣にいるうちに、あの山から遠ざけてしまいたかった。
ポルフィラは袖をつかんだまま言った。
「私もう一度会って、聞きたいことがあるの」
「今は、次に行く話はできん」
思ったより強い声が出た。娘の指が止まり、ドランはその手を包んだ。
「おまえが帰ってこなかったらと思うと、父さんは怖い。あの竜と話せると誰かに知られて、おまえを連れていかれたら……」
言葉が続かなかった。
ミレアが娘を引き寄せた。
「あなた一人で済むとも思えないの。あの破壊された王領の村のようなことが、私たちの村で起きないとは誰も言えないわ」
ポルフィラはうつむいた。友達が並んで座っていた鍛冶場も、妹や弟を呼ぶ声も浮かんだ。自分が山へ行ったことが、そこまで繋がるかもしれない。
「……そうだね……」
ミレアは娘の髪へ頬を寄せた。
「今日は、そばにいて」
レオノーラが席を立った。
「私から、クラウスとテオバルトに直接伝えます。お二人も、この子の血筋を守っている人たちです。竜が現れたことを知らせずにはおけません」
ドランは顔を上げた。
「娘と、村の者たちを巻き込まないようにしていただきたいのです。何も知らずに暮らしている者ばかりですから」
「分かっています。ほかの者へ、この子の話を広めるつもりはありません」
レオノーラは二人を見た。
「今ここで安全だと約束することはできないわ。それでも私たちは、あなた方だけに背負わせはしません」
ドランは頭を下げた。願うことしかできない自分が、もどかしかった。けれど娘の手を離すことだけはしたくなかった。
レオノーラたちが部屋を出ても、ミレアは娘を抱いたままだった。ポルフィラがその肩へ寄りかかると、ようやく背を撫で始める。
ドランは机の上へ、空の袋を置いた。
石を隠していた頃は、こんな事がおきるなど思いもしなかった。今は遠い山から娘へ届く声がある。
隣に座る娘の手を握りながら、ドランは何も言えなかった。




