第84話 待ち続けた相手
黒い竜が、二頭のあとを飛んでいる。
ポルフィラが振り返るたび、紫の目はこちらを見ていた。離れていても、大きな翼が動くたびに空を打つ音が聞こえる。
リゼリアが顔を寄せた。
「このまま、麓まで来るの?」
ポルフィラは息を呑んだ。帰りを待つ家臣たちは山で何が起きたか知らない。竜を連れて戻れば、襲われると思うだろう。村へ来たら、父も母も友達も逃げ出してしまう。
ポルフィラは竜へ声を張った。
「待って! 一緒には帰れないの!」
紫の目がこちらを捉えた。
〈なぜだ〉
「みんな、竜がいるなんて考えた事もないの。それなのに、突然竜が現れたら……」
言いながら、自分もまだ怖いことに気づいた。夢で会っていたと分かっていても、身体の震えは止まらない。近づいてほしいとは、とても言えなかった。
竜は翼を傾けた。二頭を追うのをやめ、山の上へ大きく回っていく。ポルフィラはほっと息を吐いたが、遠ざかる姿を見て慌てて続けた。
「話はしたいの!もう少しここで…」
竜の頭が、こちらへ向いた。
レオノーラがポルフィラを見た。
「待ってくれるのね?」
「はい。ついてこないでって言ったら、離れてくれました」
レオノーラは黒い翼の行方を確かめ、先ほど降りた岩棚を指した。火口からは離れている。ヴェスペラが先に下り、シルヴァも続いた。
地面に足がつくと、ポルフィラは膝から力が抜けそうになった。リゼリアが腕を支え、その隣へマティアスが来た。
「怪我はないか」
「はい」
答えた声が自分でも驚くほどかすれていた。彼は娘の顔を確かめてから、山を見上げた。
竜は岩棚へ降りようとはしなかった。その向こうの広い斜面へ後脚を下ろし、翼の鉤爪をついて身体を支える。重い響きが足の裏へ伝わり、ポルフィラは思わずマティアスの腕につかまった。
竜が翼を畳むと、長い尾が斜面を横切った。天馬二頭が並んでも、その身体のそばでは小さく見えた。シルヴァはリゼリアの背後に立ち、ヴェスペラもレオノーラのそばを離れない。
竜の首がゆっくりと下がった。
ポルフィラは一歩退きかけた。すると頭がそこで止まる。紫の瞳は、離れた所で自分を見ていた。
リゼリアが小さく尋ねた。
「今も何か聞こえる?」
ポルフィラは首を振った。あの声が次に届くのを待っていたが、竜は黙っている。自分が話したいと言ったから、待ってくれているのだ。
ポルフィラはマティアスの腕から手を離した。
「私を待っていたって、どうして?」
問いかけてから、返事を待つ間がひどく長く感じられた。夢でも、こうして尋ねていた。返事はなく目が覚めることばかりだった。
〈おまえと私は、繋がる者だからだ〉
声が届いた。
ポルフィラは竜を見上げた。
「私が生まれる前から、分かっていたの?」
〈いつ、どこに生まれるかは、分からなかった〉
紫の目が、わずかに細くなった。
〈それでも、待っていた〉
どれほど待っていたのだろう。袋の中の石を握って眠った夜を思い出した。あのときから、この相手は自分に何かを伝えようとしていた。
「夢の中で、あなたにたくさん聞いたわ。あなたが何なのか、どうして私を見ているのか。でも、答えてくれなかった」
〈うまく届かなかった〉
ポルフィラは空になった袋へ触れた。今は声がはっきり聞こえる。目の前に、尋ねたことに答えてくれる竜がいる。
マティアスが静かに声をかけた。
「何を話している?」
ポルフィラは彼へ顔を向けた。
「私と繋がる者だから、待っていたって。でも、いつ生まれるかは知らなかったそうです」
マティアスは言葉を失ったように娘を見た。レオノーラも、目を見開き黙ったままだ。
ポルフィラは竜へ目を戻した。繋がるとは、リゼリアとシルヴァのようになることなのだろうか。尋ねたいことが幾つも浮かんだが、竜の声が先に届いた。
〈おまえは、エルディオの血を引くのだな〉
ポルフィラの手が袋から離れた。
「エルディオを、知っているの?」
〈知っている〉
ポルフィラは竜の顔を見つめた。村の誰も知らなかった人。生みの家族から祖先だと聞かされ、石板に名が残っていた人を、この竜は知っている。
「私の祖先だって聞きました。私は、あの人が生まれた村で育ったの」
竜はしばらく動かなかった。それから首を少し持ち上げ、岩壁の向こうへ目を向けた。
〈あの村が今もあるのか?〉
「あるよ。父さんと母さん、友達もそこで暮らしてる」
答えると、竜の目が戻ってきた。
〈そうか〉
低い声が、ポルフィラの内側に響いた。
レオノーラが一歩近づいた。
「何か、村のことを聞かれたの?」
ポルフィラはうなずいた。
「エルディオを知っているそうです。あの人の生まれた村が、今もあるかって」
レオノーラは竜を見上げた。唇を開きかけたが、すぐには言葉が出なかった。マティアスも、黒い鱗に覆われた顔から目を離せずにいた。
ポルフィラは、もう一度竜へ向き直った。エルディオに何があったのか、なぜ姿を消したのか。この相手なら知っているかもしれない。
けれどマティアスが娘のそばで静かに言った。
「麓へ戻ろう。待っている者たちに無事を知らせなければ」
ポルフィラは空を見た。ここへ来るまでに飛んだ道を思い返す。岩壁を越え、麓へ下り、その先にも帰り道がある。父と母に会えるまで、まだ遠かった。
「あなたは、ここにいられる?」
竜は翼を少し動かし、斜面へ身体を落ち着けた。
〈いられる〉
ポルフィラはほっとした。もう一度来たいと言いかけ、両親の顔を思い浮かべる。
「また会いたい。でも、いつ来られるかはまだ分からない。父さんと母さんに話してからになるから」
紫の目が静かに瞬いた。
〈待とう〉
ポルフィラは袋を服の下へ戻した。石はもうなかった。軽くなった袋へ触れながら、石のことを自分は何も知らなかったのだと思った。
シルヴァの背へ上がると、リゼリアが帯を確かめてくれた。ポルフィラは彼女へ礼を言い、それから竜へ顔を向けた。
黒い巨体は、斜面に伏せたまま動かなかった。
二頭が飛び立ち、岩壁へ向かっても、あとを追ってはこない。ポルフィラは何度も振り返った。山の向こうへ姿が隠れるまで、紫の瞳は自分を見送っていた。




