第83話 夢で見た瞳
第83話 夢で見た瞳
黒い炎の中で、影が持ち上がった。
ポルフィラはリゼリアにつかまったまま、火口を見つめていた。炎の向こうで、黒い影がゆっくりと動く。やがて、その一部が火口の縁へ伸びてきた。
炎を割って、黒い爪が現れた。
鉤爪が岩へ食い込み、火口の縁が砕けた。続いて見えたのは、鱗に覆われた太い前脚だった。前脚と思える先端に長い爪のある指が伸び、指の付け根から身体へ黒い膜が張り渡されている。前脚そのものが、大きな翼になっていた。
左右の鉤爪で縁をつかみ、折り畳んだ翼を支えにして、身体を引き上げている。黒い炎の中から、鱗に覆われた長い首が伸び、その先に頭が現れた。
ポルフィラは息を呑んだ。
後ろへ伸びた角。ごつごつした隆起に覆われた頭から、長い顎が突き出している。口元がわずかに開いたとき、並んだ牙の奥に黒い炎が揺れた。大きく口を開けば、シルヴァの巨体さえ丸ごと呑み込めそうだった。自分を乗せている天馬が、その牙の間へ収まる姿を想像して、ポルフィラは身体をすくませた。
シルヴァがさらに山から離れた。ポルフィラの足の下で、背の筋肉が固くなっている。初めて会ったときには、そばに立つことさえ恐ろしかった天馬が、今はあまりにも小さく感じられた。
リゼリアは前を向いたまま、震える息を吐いた。
〈シルヴァ……〉
〈もっと離れる。しっかりつかまっていろ〉
その声を聞いたリゼリアは、シルヴァの首にしがみついた。ポルフィラも、彼女を抱いていた腕を離さないようにした。二頭は山から距離を取りながら、姿を現すものを見守っていた。
首に続いて、分厚い胸が炎から現れる。胴は、まだ奥に続いていた。どこまで出てくるのか分からない。ポルフィラは、自分が投げた石の小ささを思った。掌に収まっていたものが、なぜ、こんなものを山から呼び出してしまったのだろう。
黒い炎が胴の脇を流れ落ちると、鱗が朝の陽を受けた。
紫が浮かんだ。
首が動いて陽の当たり方が変わると、黒く沈んでいた鱗が、不思議な紫の艶を帯びた。胸を覆う鱗も、折り畳まれた翼の表面も、陽を受けたところだけ紫に見える。あの石を傾けたときの色に、よく似ていた。
マティアスの乗るヴェスペラが、シルヴァのそばへ来た。彼は娘の姿を確かめ、何かを叫んだ。ポルフィラはうなずいてみせたが、山から響く音に、その言葉は消された。
太い後脚が火口の縁を踏みしめた。
二本の後脚で巨体を支えると、翼が左右へ開き始めた。折り重なっていた黒い膜が広がり、火口の上へ大きな影を落とした。
まだ、広がっていく。
ポルフィラは首を動かして、その端を追った。片方の翼だけでも、シルヴァが翼をいっぱいに広げた姿を覆ってしまいそうだった。左右に広がった黒い翼は、火口も、その向こうの斜面も覆い隠し、ポルフィラの視界を埋めた。
長い尾が最後に火口を抜け、岩の上を滑った。巨体を支えていた後脚が深く曲がり、広がった翼が空を打つ。
風が押し寄せた。
シルヴァの背が大きく揺れ、ポルフィラはリゼリアへしがみついた。山頂から砕けた岩が転がり落ちる。その向こうで、黒い身体が浮き上がった。
あれほど重そうなものが、空へ上がっている。
翼がもう一度動いた。長い首も、腹も、尾も、火口から離れた。炎はその身体からほどけ、山頂で低く渦巻いたが、口の端にはまだ黒い火が残っていた。
ポルフィラは、初めてその全身を見た。
黒い鱗に覆われた巨体が、二頭の天馬と同じ空にいる。けれど、同じ生き物の大きさとは思えなかった。近づかれれば、逃げきれるのだろうか。あの翼で打たれたら、シルヴァごと地上へ叩き落とされてしまう。
レオノーラが、その姿を見上げた。
「竜……」
その声が、今度は聞こえた。
ポルフィラの指が、リゼリアの服を握り込む。祖先がともにいたと聞かされた生き物。今はもう誰も信じていないものが、目の前で翼を動かしている。
竜の頭が、こちらへ向いた。
逃げなければと思った。けれど、長い首の先にある目を見た途端、ポルフィラは動けなくなった。
紫の瞳だった。
あの暗い夢の中で、何度も自分を見つめていた目。どんな姿なのか知らなかった。それでも、その瞳だけは覚えている。
竜は近づいてこなかった。翼をゆっくりと動かし、二頭から離れたまま、ポルフィラを見ていた。
山の音が遠のく。
その静けさの中へ、声が届いた。
〈待っていた〉
ポルフィラは息を止めた。
リゼリアが何か言っている。風の音も、シルヴァの羽ばたきも聞こえていた。それなのに、今の声は、それらに遮られず自分の内側へ届いていた。
竜の口は閉じている。
ポルフィラは、その顔を見つめたまま、ようやく唇を動かした。
「あなたが……夢で、私を見ていたの?」
声は震え、風の中へ散った。あんなに離れていて、聞こえたのかも分からない。
紫の目が、静かに瞬いた。
〈そうだ〉
ポルフィラは唇を開いたまま、その目を見つめた。あれと会話をしている……夢の中では何も教えてくれなかった生き物が、今こちらの問いに答えたのだ。
ポルフィラは空になった掌を見た。石を失った悲しさを感じる間もなく、火口を空にし、黒い炎を噴き上げ、目の前へ現れたもの。それが自分を待っていたと言っている。
「どうして、私を……」
言いかけたとき、リゼリアが振り返った。
「ポルフィラ。声が聞こえるの?」
ポルフィラはうなずき、リゼリアの青ざめた顔を見た。
「あなたには、聞こえないの?」
リゼリアは首を振った。
「あなたが話している声だけ。何を言われたの?」
「待っていたって……」
答えながら、ポルフィラはリゼリアの手が震えていることに気づいた。自分には声が聞こえても、彼女には黙ったままこちらを見る巨大な竜なのだ。
マティアスが、ヴェスペラの背から娘を呼んだ。
「ポルフィラ!」
彼が手を伸ばす姿を見て、村を出るときの両親の顔が浮かんだ。何も知らず帰りを待っている。あの二人の所へ戻ると、約束した。
ポルフィラは竜へ向き直った。怖くないわけではなかった。知らないことばかりで、何を尋ねればいいのかも分からない。それでも目を逸らしたまま離れることはできなかった。
「私、帰らなければならないの。父さんと母さんが、待っているから」
竜はポルフィラを見ていた。
ヴェスペラが山から離れる方へ向きを変え、シルヴァも続いた。すると、竜も大きく旋回した。二頭との距離を保ったまま、同じ方向へ飛び始める。
ついてくる。
ポルフィラは振り返った。竜は火口へ戻らず、こちらを見ながら、ゆっくりと翼を動かしていた。
ポルフィラはリゼリアにつかまったまま、竜を見つめた。黒い鱗も、巨大な翼も、牙を並べた口も恐ろしい。それでも、あの目には覚えがあった。
幾度も夢で見た紫の瞳が、今は朝の光の中で、自分を見つめていた。




