第82話 黒い炎の奥
夜明けを待って、ポルフィラは夢で聞いた言葉を三人に話した。
マティアスは、娘が掌に載せた石を見つめた。
「投げ入れれば、取り戻せない」
「分かっています」
黒い石の中に、朝の光を受けて紫が浮かんでいた。ドランとミレアが守り、自分に渡してくれたものだった。それを失うとかもしれない……
「でも、夢に見た山が、本当にあったんです。この声にも、何か理由があるのかもしれません」
レオノーラが静かに言った。
「何も起きず、石だけ失うかもしれないわ。反対に、私たちに対処できないことが起きるかもしれない」
ポルフィラはうなずいた。何が起きるのか夢は教えてくれなかった。それでも、ここまで来て確かめずに石を持ち帰ることはできそうになかった。
マティアスが娘へ顔を向けた。
「危ないと思ったら、石を持ったまま戻る。約束してくれ」
「はい」
彼はしばらく娘を見てから、重くうなずいた。
リゼリアはシルヴァの首へ手を添えた。
〈何か起きたら、すぐに離れよう〉
〈近づきすぎるな〉
返ってきた声に、リゼリアは手を止めた。シルヴァは山の方を見ていた。いつものように鼻先を寄せてはこない。
レオノーラも、ヴェスペラと火口へ近づく道筋を確かめていた。煙の中には入らない。縁へ降りず、石を落としたらすぐ離れる。二頭が退こうとしたら無理をさせない。
ポルフィラは話を聞き終え、石を袋へ戻した。
*
岩壁を越えると、草のない山が朝の光の中に現れた。頂から煙が立ち、その脇には曲がった岩が突き出している。
夢で何度も見た場所だった。けれど、近づくにつれて鼻を刺す匂いが強まり、熱い風が頬へ吹きつけてくる。夢の中では知らなかった熱さに、身体がこわばった。
ヴェスペラは煙を避けて高く飛び、シルヴァがそのあとに続いた。リゼリアの背へ身を寄せると、火口の奥が見えた。赤く焼けた岩が溶け、どろりと波打っている。黒い皮膜のようなものが裂けるたび、その下からまぶしい赤がのぞいた。
ポルフィラは袋から石を出した。手汗で滑りそうになり、握り直す。
リゼリアが顔を少し横へ向けた。
「しっかり私につかまっていてね」
ポルフィラは片手でリゼリアを抱きしめ、身体を支える帯を確かめた。石を持った腕を火口へ伸ばす。これを手放したら、もう取り戻すことはできない。
一度だけ、指を握り込んだ。
それから、石を投げた。
黒い小さな影が、赤く光る奥へ落ちていく。ポルフィラは息を止め、その行方を追った。
石が溶けた岩へ触れる直前、赤い表面がくぼんだ。
次の瞬間、石を中心に赤い流れが巻き始め、周りのマグマが引き寄せられていく。黒い影は沈んで見えなくなったのに、渦は止まらない。火口の壁に沿っていた赤い光まで、奥へ引きずり込まれた。
リゼリアが息を呑んだ。
「何……?」
あの小さな石が、火口の溶岩を吸い込んでいる……そうとしか見えなかった。赤い流れはますます速くなり、火口の内側に、さっきまで見えなかった岩肌が露わになっていった。
その奥へ、最後の赤い光が細く伸びた。
消えた。
火口は空になっていた。赤く照らされていた穴が、底の見えない暗闇に変わっている。
ポルフィラの手は伸ばして開いたままだった。石は溶けて無くなってしまうと思っていた。けれど、火口の溶岩がすべてあの石へ消えていくなど、考えもしなかった。
シルヴァが急に身体を傾けた。
リゼリアがポルフィラの腕をつかむ。
「つかまって!」
翼が強く風を打ち、火口が視界の端へ流れた。ポルフィラはリゼリアへしがみついた。ヴェスペラも向きを変えている。その背で、マティアスがこちらへ腕を伸ばしていた。
火口から遠ざかっても、ポルフィラの目には空になった穴の姿が残っていた。投げたのは自分だった。何をしてしまったのか分からない。
「リゼリア……」
名を呼ぶと、リゼリアは腕をつかむ手に力を込めた。
「離さないで」
返事をしようとしても、息がうまく吸えなかった。
二頭は火口から距離を取り、岩壁の上を飛んだ。山頂はまだ見えている。山から出ていた煙は消え、朝の空がその上へ広がっていた。恐怖のあまり、ヴェスペラもシルヴァも山へ顔を向け、後ろを確認しながら飛び続ける。
音がしなかった。
あれほど赤い溶岩が動いていた火口は、静まり返っている。ポルフィラはリゼリアの背に頬を寄せたまま、山を見ていた。石を探しに戻ることなどできない。父さんと母さんの所へ帰らなければ…
唇を開きかけたとき、山の奥で何かが鳴った。
低い音だった。胸の内側へ響き、握っている指まで震わせた。続いて、岩を砕くような音が重なった。火口の縁から石が崩れ、穴の中へ落ちていく。
レオノーラの叫びが聞こえた。
「もっと離れて!」
シルヴァが翼を打った、その背後で、轟音が空を裂いた。
火口から、真っ黒な炎が噴き出した。
山頂を覆うほど太い炎が、真上へ突き上がる。黒い炎が幾重にも裂け、渦を巻きながら空へ伸びていく。その下で火口の縁が黒く照らされ、空を飛んでいるポルフィラの頬に、熱が押し寄せた。
リゼリアが身を伏せた。ポルフィラもその背へ身体を押しつけ、目を閉じる。炎の唸りが、二頭の羽ばたきも、人の声も呑み込んでいた。
やがて熱が少し遠のき、ポルフィラは恐る恐る目を開けた。
黒い炎は、まだ火口から立ち上っている。
その中に、何かがあった。
炎の流れとは違う動きで、ゆっくりと持ち上がってくる。黒い塊のようにも見えたが、吹き飛ばされた岩なら、あんなふうには動かない。炎がその表面を伝い、ほどけては、またまとわりついた。
ポルフィラの腕の中で、リゼリアが固くなった。
「何か、出てくる……」
ポルフィラは声もだせず、ただ見つめていた。
山の奥から、長い間そこに潜んでいたものが、少しずつ身を起こしている。
黒い炎が割れた。
その向こうの影が、ゆっくりと動いた。




