第76話 大きな翼のそばで
木立が途切れた所で、ポルフィラは足を止めた。
灰色の身体が、冬枯れの草の上に立っていた。馬の形はしている。けれど、村へ来る馬車の馬とは比べものにならない。太い脚も、高い肩も、自分の知る馬よりはるかに大きい。その脇に畳まれた翼の先が、地面近くまで下りている。
ポルフィラは父の袖をつかんだ。ドランも動かず、娘の前へ半歩出る。
シルヴァが顔を向けた。
その目を見て、ポルフィラは息を詰めた。こちらを眺めているだけではない。父が前へ出たことも、自分が怖がっていることも、分かっているようだった。
リゼリアは三人から離れ、シルヴァのそばへ歩いた。
〈怖がっているの。こちらへ来ないで〉
〈ここにいる〉
シルヴァは翼を動かさなかった。リゼリアが首へ触れ、その大きな顔を見上げる。
ポルフィラが小さく尋ねた。
「何も言わなくても、分かるんですか」
リゼリアは振り返った。
「私とシルヴァは、声にしなくても話せるの。今は、ここで待っていてって伝えた」
ポルフィラは、夢の瞳を思い出した。あれも、自分を見ていた。けれど、夢の相手とこんなふうに話せたことはない。
リゼリアが首へ置いた手を、シルヴァは静かに受け止めている。
「触っても、大丈夫なの?」
「私だから、触ることに慣れているのだと思う。あなたが触りたいなら、シルヴァにも聞くわ」
ポルフィラは首を振った。
「今日は、ここで」
リゼリアはうなずき、そばへ戻った。シルヴァへ背を向けることを恐れていない。その姿を見て、ポルフィラの指が、父の袖から少し緩んだ。
ミレアが娘を見た。
「戻ろうか」
ポルフィラはもう一度、巨大な翼を見た。あれが広がり、自分たちの家の上へ来たらどうなるのか。リゼリアを怖い人だとは思わなかった。だからといって天馬を恐れずにいられることは、同じではなかった。
*
館へ戻ると、マティアスが暖炉のそばで待っていた。娘の顔を見て椅子を引く。
「寒かっただろう」
ポルフィラは手をかざした。指先には、父の袖をつかんでいた感触が残っている。
リゼリアも隣に座り、手袋を外した。
「私も、初めて見たときは怖かったの」
「シルヴァを?」
「飼育地へ行った日に、突然、空から降りてきたの。顔を寄せられて、逃げることもできなかった。でも、目が合った途端に引き寄せられた」
ポルフィラは顔を向けた。
「あなたが、シルヴァがいいって選んだんじゃなくて?」
「相手を気に入ったからといって選べるのではないの」
リゼリアは窓の外へ目を向けた。
「でもシルヴァと繋がることができて幸せなの」
ポルフィラは、あの知的な目を思い出した。お互いに繋がる相手を自分で決められないなんて…
ドランが静かに尋ねた。
「離れて暮らしていても、その繋がりは切れんのですか」
「切れません。私が死ねば、シルヴァも死ぬ。シルヴァが死ねば、私も」
ポルフィラは息を呑んだ。目の前の娘と、森にいる大きな生き物の命までが繋がっている。
リゼリアは、娘を怖がらせたと気づいたように口を閉じた。それから、ゆっくり続けた。
「だから、私が行きたいと思う所でも、シルヴァにはどう思うか尋ねるの。危ない所へ連れていきたくないから」
ポルフィラは火へ目を戻した。天馬を持つ人は、何でもできると思っていた。行きたい所へ飛び、誰にも逆らわれずに済むのだと。
「また、シルヴァを見てもいい?」
「もちろん。遠くからでも」
リゼリアの声が明るくなった。ポルフィラは、自分がいつの間にか、親しげに話していることに気づいた。
*
帰り際、ポルフィラはマティアスへ、気になっている夢の景色を木片に描いているので、次に来るとき見てもらいたいと伝えた。
マティアスは自分の聞いた話を娘へ伝えた。
「同じような山を見たという話が、オランデルに残っているそうだ。今の領主は、その山を見たことはない」
ポルフィラは、布を結び直す手を止めた。
「夢だけのものでは、ないかもしれないんですね」
「ああ。ただ、おまえが見たのが、その山かどうかは分からない」
ポルフィラはうなずいた。森へもう一度目を向けたが、シルヴァは木立の陰にいて、ここからは見えなかった。




