第74話 隠れた姓
外で荷車が止まる音がした。マティアスは口を閉じ、エステリアが扉へ目を向ける。足音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。
ポルフィラは、叔母の横顔を見た。村の人が天馬の民を恐れるのは知っている。けれどこの人たちも、天馬の国で誰かを恐れて暮らしている。
「母の一族は、何をしたんですか」
マティアスの目が娘へ戻った。
「母さんの一族が悪いことをしたから、隠れているのではない」
「では、どうして?」
エステリアが、机の上で両手を重ねた。
「本当の姓は、アルジェント。セレフィア・アルジェントという人が、私たちの祖先です」
ポルフィラは息を止めた。
セレフィア。その名を、石板の写しで何度も読んだ。エルディオとともに平和を築き、殺された人。
ドランの目が、ミレアへ向いた。娘の手を握っていた。
エステリアは三人の驚きを見ていたが、その名を知っているかとは尋ねなかった。
「アルジェントは、昔、この国を治めていた家です。セレフィアが殺されたあと、親族も追われました。今の王家は、その血が残っていないと思っている」
「私も、その家の子なんですか」
「ええ」
ポルフィラは、布の下の髪に触れた。村で生まれたのではないと聞いたときより、もっと遠い所へ、連れて行かれているような気がした。
マティアスが言った。
「この姓を、外で名乗ってはいけない。母さんも、別の姓で暮らしていた。今まで話したことも、誰にでも聞かせられるものではないんだ」
ドランが尋ねた。
「昔のことなら、今の王が知っているとは限らんのではありませんか」
「私たちが伝えてきた話を、同じように知っているとは思いません」
マティアスは答えた。
「それでも、先の王家の子孫を守る家があると知れば、王は自分の立場への脅威と受け取るでしょう。だから、表へ出すことができないのです」
そんな高貴な血筋の人が、生まれた子に姓を渡せなかった。
「私はその家のために、何かしなければならないんですか」
エステリアが首を振った。
「会いに来てもらったのは、役目を渡すためではありません。妹のことと、あなたの家族のことを知ってほしかったの」
マティアスも続けた。
「暮らしてきた家も、友達も、捨ててほしいとは思っていない」
ポルフィラは二人を見た。外の音がするたび、黙ってしまう人たちだった。安全だと約束できない事をこの人たちも知っている。
部屋を出る時刻が近づき、エステリアが荷をまとめた。マティアスは娘へ、インディルには同じ一族の娘がいると話した。
「リゼリアという。おまえとは育った場所が違うが、自分の生まれを知って暮らしている。話してみたいと思ったら、紹介できる」
ポルフィラは顔を上げた。
「私のことを、知っているんですか」
「赤ん坊が村へ預けられたことは。今の暮らしまでは知らない」
自分と同じ一族の人がいる。ポルフィラは、その名前を胸の中で繰り返した。
*
帰り道、畑が見えるようになってから、ポルフィラは両親へ小さく言った。
「石板のセレフィアは、私の祖先だったんだね」
ドランはうなずいた。
「だがあの方たちには、まだ石板の話はしない」
「皆の家にも、関わるからでしょう」
母が娘へ顔を向けた。
「そう。あの人たちが味方でも、私たちだけで話してしまうわけにはいかないの」
ポルフィラは村へ続く道を見た。友達の家は、いつもと同じ所にある。いつでも自分を迎えてくれる場所だった。




