第72話 遠乗りの記憶
エステリアは夢の山を見たことがないか、もう一度記憶をたどった。けれど、いくら考えても煙を上げる岩山など思い浮かばない。
「夢の中では、そこに立っているの?」
ポルフィラは首を振った。
「離れた所から見えます。煙が上がって、岩の辺りが赤くなって……。目が覚めても、覚えているときがあります」
「眠れなくなることは?」
「眠れています。怖くて起きるわけではないんです。ただ、どこなのか知りたくて…」
エステリアが言った。
「山のことも、マティアスに伝えてみましょうか。私より、遠くの土地の話を聞く機会がある人だから」
ポルフィラは母を見た。ミレアはドランと目を合わせてから答えた。
「その方と領主様までにしていただけますか。夢の話でも、この子のことをあちらこちらで尋ねられるのは怖いのです」
「分かりました。ほかの方へ尋ねる必要があれば、お二人に伝えます」
話しているうちに、外の荷車の音が途絶えていた。控えめなノックがして、案内役が出発の時刻を知らせる。
エステリアは立ち上がりかけ、ポルフィラへ向き直った。
「本当に会えてよかったわ…」
ポルフィラも席を立った。叔母の手へ目がいったが、自分から触れていいのか迷った。エステリアがそれに気づき、そっと手を差し出す。
握ると、温かかった。この手が村まで自分を抱いてきたのだ。ポルフィラは顔を上げた。
「母のこと、また聞かせてください」
エステリアはうなずいた。返そうとした声が詰まり、もう片方の手を娘の手に重ねる。
「ええ。また、話しましょう」
部屋を出る前に、ミレアが娘の髪を覆う布を整えた。ポルフィラは振り返り、叔母へ頭を下げた。また会いたいと思える人が、村の外にもできた。
*
インディルの城へ戻ったエステリアは、マティアス・フェルナーに、娘が会って話を聞きたいと答えたことを伝えた。
マティアスは椅子の背から身体を起こした。
「そう言ったのですか?」
「ええ。ご両親と一緒に」
彼は片手を机へ置き、しばらく動かなかった。娘のために答えを用意したつもりでも、会うとなれば、それを口にできるか分からない。隠していれば命を守れると思い、そのまま十六年が過ぎた。
エステリアが続けた。
「何を言われても、先に聞いてあげてください。私たちが怖かったことだけを話して、あの子に納得してもらおうとはしないで」
マティアスは彼女を見た。
「分かっています」
答えてから、目を落とした。
「……いや。そうするつもりでも、会えば、自分の言い分を話したくなるかもしれません…」
エステリアの前で、彼はゆっくり息を吐いた。
「その言葉を、覚えておきます」
翌日、テオバルト・インディルへ面会の報告が届けられた。マティアスも同席し、ヴェルディアへ出向いて娘に会わせてほしいと願い出た。育て親が一緒に入れる受け取り場での面会を、クラウスへ頼むことになった。
その話のあと、エステリアは娘が見せた石と夢の山について語った。
テオバルトは眉を寄せた。
「石を持つようになったことと、その夢に関係があると?」
「分かりません。ポルフィラも石の使い道を知りたがっていました。でも私には答えられなくて…」
「分からぬのなら、そのままにしておこう。何かは分からんことに、あの子を巻き込むことはできん」
マティアスがうなずいた。
「まず娘に会います。山の話はそのあとに…」
テオバルトは机に置かれた報告へ目を落とした。燃える山の話など、自分も聞いた覚えがない。だが空を飛ぶ者なら、地上からは見えない土地を知っているかもしれなかった。
「レオノーラに火を吹く山というものを聞いたことがあるか、尋ねてもよいだろうか?」
エステリアは、ミレアと交わした約束を伝えた。
テオバルトはうなずき、報告を閉じた。
「では、まず夫婦に聞いてみてくれ」
*
その後、育て親の了承を得て届いた私信を、レオノーラ・オランデルは二度読んだ。黒髪の娘が、夢に見た山の実在を尋ねている。頂から煙が上がり、赤い光が岩を照らすという。
子供のころ、何度も聞かせてもらった遠乗りの話がよみがえった。
レオノーラは返書を始めかけ、筆を止めた。似た話を知っている。しかし娘の見た山がそれだと決められるほど、詳しく覚えていなかった。
庭へ出ると、ヴェスペラが顔を寄せた。濃い灰色の翼の下へ入り、レオノーラはその首へ手を添える。
〈前に話した、火を吹く山のことを覚えている?〉
〈おまえが見たことのない山だ〉
〈ええ。あれに似た景色を、夢で見る娘がいるそうなの〉
ヴェスペラの知的な目が、彼女へ向いた。
〈夢で?〉
〈その子は行ったことはないはずよ。育った村から、遠くへ出たこともないのだから〉
ヴェスペラは黙っていた。レオノーラにも、なぜ夢に現れるのかは分からない。覚えているのは、昔の天馬乗りが高い岩壁を越え、その先にある山を見たという話だった。
レオノーラは城へ戻り、短い返書をしたためた。そうした山の話は家に伝わっている。自分は見ていない。娘の夢と同じ場所なのかまでは分からない。
最後に、思い出せる一節を添えた。
――そこへ向かった者は、歩いて通る道を見つけられなかった。天馬の翼で、岩壁の向こうへ越えていったという。




