第70話 母の笑い声
受け取り場の屋根が見えてくると、ポルフィラは頭を覆う布を被った。
門のそばでは、天馬の民の係が荷車を止めていた。村から来た者が答えようと近づくと、係は手を上げ、離れた所から話すよう命じる。ポルフィラが歩みを緩めると、ドランも立ち止まった。
「俺たちは、あちらだ」
前に父を案内した家臣が、建物の脇で待っていた。三人を見つけても、係へ同行の許しを確かめさせてから奥の部屋へ導いた。ポルフィラは母の袖に触れたまま、そのあとを歩いた。
家臣が扉を開けた。
「どうぞ。三人とも、お入りください」
窓のそばにいた女性が振り向いた。
白に近い金髪を後ろでまとめ、淡い色の服の上に外套を羽織っている。ポルフィラは戸口で足を止めた。母に似ている人なのだろうか。そう思った途端、女性の顔から目が離せなくなった。
エステリアの唇が震えた。
「ポルフィラ……」
彼女は近づきかけて、立ち止まった。ポルフィラの両手は、服の前で固く握られている。
「エステリアです。来てくれてありがとう」
ポルフィラは父を見てから、女性へ顔を戻した。
「あなたが私を連れてきたんですか?」
「ええ。赤ん坊だったあなたを抱いてきました」
目の前の両腕に自分が収まっていた。そのとき母はもう亡く、父はそこにいなかった。聞いて知っていたことが、女性の声で、急に身近になった。
ドランが娘の背へ手を添えた。
「座ろうか」
ポルフィラはうなずき、母と並んで椅子へ座った。父もそばに腰を下ろす。家臣は外で待つと告げ扉を閉めた。
エステリアは二人へ深く頭を下げた。
「十六年間、この子を育ててくださって……。あの夜から、きちんとお礼も言えないままでした」
ミレアは、娘が膝に重ね震えている手を見た。
「私たちには分からないことがたくさんありました。今日は、この子が聞きたいことを聞かせてやってください」
「はい」
エステリアが顔を上げると、ポルフィラはようやく目元に細かな皺があることに気づいた。自分が育っている間、この人も歳を重ねていたのだ。
「母は……あなたに似ていましたか」
エステリアは、すぐには答えなかった。ポルフィラの顔を見つめる目に涙が浮かび、彼女は一度、唇を結んだ。
「妹の目も、青かったわ。髪は私より少し金色が濃くて、頬がふっくらしていた。笑うとここに小さなくぼみができたの」
自分の頬へ指を添えて見せる。ポルフィラも同じ所に触れた。母に似た所を見つけたかったのに、鏡に映る自分の顔には、そのくぼみはなかった。
エステリアが続けた。
「あなたは、マティアスによく似ているわ」
まだ会っていない父の顔が、少しだけ想像できた。ポルフィラは指を下ろした。
「声はどんなでしたか?」
「普段は静かに話す子だった。でも笑い出すと、隣の部屋でも分かったのよ」
エステリアの口元が緩んだ。
「私が服の袖を縫い違えたことがあってね。ほどくのが嫌で、そのまま着てみたの。妹は似合うと言おうとしたのよ。でも私が腕を上げられなくて、あの子は笑いが止まらなくなってしまった」
ポルフィラは、思わずエステリアの袖を見た。
「怒らなかったんですか」
「恥ずかしくて笑わないでと言ったわ。けれど妹があまりに笑うから、私も笑ってしまって。最後は二人で縫い直したの」
話しながら彼女の青い目が細くなる。ポルフィラはその顔を見つめた。姉妹が隣り合って座り、二人で針を持つ姿が浮かんだ。
小さく笑いかけて、ポルフィラは息を詰めた。この話を母から聞くことはできない。
ミレアが背中へ手を回した。ポルフィラはその手に身体を預け、しばらく黙っていた。
エステリアも急かさなかった。
ポルフィラは喉の奥を押さえるように息を吸った。
「私が生まれるの、待っていましたか?」
エステリアの表情が変わった。
「待っていたわ。とても」
彼女は少し感情を落ち着かせてから言葉を続けた。
「お腹が大きくなってからは、話している途中でも赤ん坊が動いたと言って私の手を取ったの。触ったときにはもう動かなくて、私が残念がると、眠ったのかもしれないって……」
ポルフィラは腹の前へ手を置いた。その中に自分がいた。
「抱いて歩くところを何度も思い描いていたわ。あなたが大きくなったら、話したいことがたくさんあったはずよ」
ポルフィラの目から涙がこぼれ落ちた。
「でも私が生まれたから……」
ドランが娘の方へ身体を向けた。エステリアは首を振り、椅子から少し身を乗り出した。
「あなたのせいではないわ。お産のあと妹は助からなかった。でも、あなたが生まれてくるのを本当に心待ちにしていた。それだけは疑わないで」
ポルフィラは答えられず、母の腕へ顔を伏せた。ミレアが抱き寄せると、こらえていた声が漏れた。自分を待っていた人がいた。その人にもう会えない。
エステリアの声も震えていた。
「妹にも、今のあなたを見てほしかった」
泣いているのは自分だけではなかった。顔を上げると、エステリアが目元を拭っていた。この人は妹を失ったのだ。
「ほかにも……聞いていいですか」
「もちろん」
「好きだったものとか。小さいころのことも」
エステリアはうなずき、布を握る手を緩めた。
「何から話そうかしら。妹はね、幼いころ……」
ポルフィラはミレアの腕の中で、その話しを聞いた。
少しずつ、母の姿が浮かんでくる。
何ひとつ聞き逃したくなかった。エステリアが語るたび、ポルフィラは顔を上げた。




