第66話 知らずにいた暮らし
インディルの城へ戻ったエステリアが外套を外す間も、マティアスは戸口から動けずにいた。旅が無事に終わったことを喜ぶより先に、彼女の顔へ答えを探してしまう。
エステリアは外套を椅子へ掛けた。
「元気で暮らしているそうよ。家の仕事を手伝って、小さいころからの友達が五人いるのですって」
マティアスは、止めていた息を吐いた。五人の友達。その輪の中にいる娘を思い描こうとしても、顔も声も分からなかった。
「ドランは、私の話を聞いてくれましたか」
「ええ。でも、聞いてくれたからといって、会わせてくれるということではないわ」
彼女はドランが妻と相談したいと答えたことを伝えた。娘を引き離すつもりはないと告げたときにも、彼の手から力は抜けなかった。
マティアスは椅子へ座った。
「当然ですね。いきなり父親がいると知らされても……」
「それだけではないの」
エステリアも向かいへ座った。
「生きている父親がいて、領主に仕えているのに、なぜ自分たちに託したのかと聞かれたわ。あの家には、誰かに守ってもらう伝手もない。私たちは、それを承知だったはずだと」
マティアスは顔を上げた。
自分は妻を失い、娘まで失うのが怖かった。離せば生きられるかもしれないと考えた。けれど、娘を受け取った夫婦は、理由も知らされぬまま、その夜から恐ろしさを抱えたままの毎日が始まったのだ。
「何と、答えましたか」
「あの子の血筋と容姿を知られるのを恐れたことを話したわ。村を選んだ理由も。安全だと保証できたわけではなかった、と」
エステリアは膝の上へ目を落とした。
「私たちには、娘です。そう言われたわ」
エステリアの声に、彼は向き直った。
娘が誰かの子として大切にされてきたことは、何より望んだことだった。その言葉を聞いてうれしいのに、胸が痛む。父親がいると聞いた娘が真っ先に思い浮かべるのは、自分ではなく、ドランなのだろう。
「あの子は、預けられたことを知っていましたか」
「自分だけ髪や目の色が違うのはなぜかと尋ねて、二人から聞いたそうよ。生みの親がどんな人か、知りたがっていたとも」
マティアスは膝の上で手を組んだ。娘が尋ねたとき、二人は何を答えてやれたのだろう。
「妻のことも、私が生きていることも、二人から話してもらうことになるのですね」
エステリアはうなずいた。
娘が泣いても、理由を聞き腹をたてても、そばで聞くのは二人だった。自分は娘の答えを待つだけでよいのか。マティアスは胸が痛んだ。
エステリアが言った。
「あの子が何を知りたいかは、まだ分からないわ。だから、あなたも話せることを考えておいて」
「離した理由を話せば、分かってもらえると思っていたのかもしれません」
マティアスは、ゆっくり組んだ手をほどいた。
「生きていてほしかった。それは本当です。でも、あの子が寂しかったなら、その理由が言い訳にはなりませんね」
エステリアは答えず、彼を見ていた。
マティアスは顔を上げた。
「なぜ会いに来なかったのかと聞かれたら、私が答えたい。二人に、代わりに説明してもらうだけではなく」
*
数日たっても、ポルフィラは母親が亡くなったという言葉を、ふとしたときに思い出した。食事の支度をするミレアの横顔を見て、あの人も同じように家の仕事をしていたのだろうか、と考える。
その朝は、母に頼まれた布を取りに来て、棚の前で立ち止まった。
ミレアが娘を呼んだ。
「ポルフィラ。見つからない?」
「あったよ」
布を渡しても、娘が離れずにいると、母は手を止めた。
「どうしたの?」
ポルフィラは少しためらって尋ねた。
「私、あの人の声を知らないんだね。赤ん坊のときに聞いていても、覚えていないもの」
ミレアは布を置いた。
「ええ」
「叔母さんに聞いたら、どんな話し方だったかも、教えてもらえるかな」
「お姉さんだから、よく知っているでしょうね」
ポルフィラは母の隣へ座った。
「母さんは、覚えてる? 私が初めて話したとき」
ミレアが少し笑った。
「覚えているわ。父さんにも早く聞かせたくて、帰ってくるのを待ったもの」
「父さん、どんな顔をした?」
「もう一度言ってくれって、あなたの前へしゃがんだの。でも、あなたは笑ってばかりいたわ」
ポルフィラも笑い、鍛冶場へ目を向けた。そんな父の姿なら、思い浮かべられた。
ミレアは娘の頬へ落ちた髪をよけた。
その手に、ポルフィラは少し頬を寄せた。生みの母のことをもっと知りたい。けれど、今そばにいる母と離れたくはなかった。




