第65話 生きている父
夕食の片づけが終わっても、父は鍛冶場へ戻らなかった。母も繕い物を脇へ置いている。ポルフィラが不思議に思っていると、ドランが静かに告げた。
「おまえを連れてきた人に、倉で会った。エステリアという、おまえの母親のお姉さんだ」
ポルフィラは父を見つめた。しばらく頭が真っ白になったが、知らない女性に託されたと聞いた事が頭をよぎった。その顔も知らない女性が、自分の叔母だった。
「………私のこと、話した?お母さんは………?」
父は「話した……」と言ったあと黙り込んだ。
ミレアがそばへ座り、娘の手を握った。
「あなたを産んだ人は、亡くなったそうよ。あなたが生まれたあとに」
ポルフィラは、母を見たまま動けなかった。いつか顔を知り、声を聞けるかもしれない。口にはしなくても、そう思っていた。
「……私を、見たのかな」
「そこまでは聞けていないの。エステリアさんなら、知っているかもしれないわ」
抱いてくれたのか。名前を呼んでくれたのか。尋ねたいことは浮かぶのに、もう本人には聞けない。ポルフィラは目を伏せ、重なった母の手を見ていた。
しばらく待って、ドランが続けた。
「父親は、生きている。マティアス・フェルナーという名前で、インディルの領主に仕えているそうだ。おまえに会いたいと願っていると聞いた」
娘は顔を上げた。
「生きているのに、どうして離れて暮らさなければならなかったの?」
父は、母方の一族が姓を隠していること、血筋を知られれば命を狙われるかもしれないことを話した。目立つ髪や瞳から親を調べられるのを恐れ、村へ託したのだという。
ポルフィラは肩へ落ちた髪をつかんだ。
「私、何もしていないのに?」
ミレアがうなずいた。
「ええ。あなたが悪いことをしたからではないの」
その答えが、かえって怖かった。何をしないように気をつければよいのか、それさえ分からない。
「ここなら、大丈夫なの?」
ドランは娘から目をそらさなかった。
「必ず安全だとは言えん。俺も、その人に聞いた。なぜ、誰かに守ってもらえる立場でもない俺たちへ託したのかと」
父も、自分と同じことを考えたのだ。ポルフィラは髪から手を離した。
ドランは声を落とした。
「この村を選んだのは、エルディオが生まれ、弟も暮らしていた村だからだそうだ。おまえの一族は、その人の子孫だと」
「石板の、エルディオ……?」
父がうなずいても、すぐには信じられなかった。地下で文字を写したとき、そこに刻まれた人が自分の祖先だとは思わなかった。平和を築き、家族を守るため姿を消した人。その家族につながる自分も、親元を離れなければならなかったのか。
父は、エルディオの黒髪を知る者が王家側に残っているかもしれないと、叔母たちが恐れたことも短く伝えた。
ポルフィラは二人を見た。
「叔母さんは、あの人のことも知っているんだね。石板のこと、聞いてみたい」
ミレアは娘の手を握った。
「父さんは、石板のことは話していないわ。字を読めることも、ほかの家が関わることだから……」
ポルフィラはうなずいた。続きを知りたい気持ちは変わらない。それでも、あの写しを持ち帰った父たちが、何を恐れていたかは覚えている。
「母親のことなら、聞いてもいい? どんな人だったか、叔母さんに聞きたい」
ドランは答えた。
「その気持ちは伝えたい。だが、どう会えば危険を増やさずに済むか、まだ決まっていない。今は、会わせると約束できん」
ポルフィラは唇を結んだ。生きている父親に会いたいかは、まだ分からない。まず、母親のことを聞きたい。父親がどんな人なのかも、話を聞いてみたかった。
ミレアが肩へ触れた。
「今夜、全部決めなくていいのよ」
娘は母へ身体を寄せた。抱き寄せられると、涙が止まらなくなった。会いたかった顔は、もう見られない。それでも、その人を知る人がいた。
*
王都の城で、ヴァルテル・ルベリオンは、机へ広げた報告を読み終えた。向かいに座るセヴェランは、兄の手が止まった箇所を見ていた。
「また、あの三家ですか」
ヴァルテルは報告の端を押さえた。
「クラウスは呼び出した職人の村での負担を減らした。レオノーラとテオバルトも、竜の民への扱いに口を出す」
セヴェランが椅子へ背を預けた。
「甘やかすから、逆らうことを覚えるのです。王領の村を見せても、まだ分からないとは」
「自分の領地のことは、自分が決めるつもりなのだろう」
王は報告を脇へ寄せた。先の王家が絶えたのち国を治める正当な血筋をもつのがルベリオンだった。幼いころから教えられたその歴史を、ヴァルテルは疑ったことがなかった。自分の命令に三家が異を唱えることの方が、彼には理解しがたかった。
竜の民に与える仕事や罰について、三人はいちいち考慮を求めてくる。納められた品を受け取る側が、作る者へ気を遣う必要などないはずだった。
セヴェランが言った。
「一度、兵を向ければよいのではありませんか」
ヴァルテルは弟を見た。
「竜の民の村と同じに考えるな。あちらも天馬を持つ。三家と争えば、町も街道も、こちらが必要とする物を作る村も失う」
「こちらには、ノクスとアルディスがいます」
「勝つために、どれだけ壊すことになる。壊したあとも、国は維持せねばならん」
弟は口を閉じたが、不満を隠そうともしなかった。ヴァルテルはその顔を見て、報告よりも厄介なものが目の前にあると思った。セヴェランは、逆らう者を殺せば済むと考える。三家の者にも同じように振る舞い、こちらが望まぬ争いを始めかねなかった。
「三家の領内で、勝手なことをするな。何かあれば、先に私へ知らせろ」
セヴェランは、わずかに顎を引いた。
「分かりました」
ヴァルテルは返事を聞いても、弟からすぐに目を離さなかった。竜の民を気遣う領主たちも煩わしいが、その者たちとの戦争を自分に押しつけかねない弟まで、抑えておかなければならない。
窓の向こうには王都が広がっていた。兵を食わせる物も、城や町で使う物も、諸領から届く。弟の怒りに任せて、それらを失うつもりはなかった。
「納付は守らせる。今は、それでよい」
報告を渡された家臣が頭を下げた。王の机から片づけられたのは、三家の仕事の扱いを記した書類だけだった。遠い村で、一人の娘が自分の祖先の名を聞いたことは、そこには書かれていなかった。




