第64話 隠さなければならなかった子
道具袋を持ち直しても、ドランは扉へ向かえなかった。
「もう一つ、伺ってもよいですか」
エステリアが彼を見た。
「はい」
「父親が生きていて、領主に仕えておられる。それなのに、なぜ娘を手放さなければならなかったのですか」
女性の顔がこわばった。
「私たちには、あの子をどこかへ隠す力も、誰かから守ってもらう伝手もありません。逆らえば、妻も娘も殺されるかもしれない。あなた方は、それをご存じだったはずです」
引き受けたことを悔やんでいない。だが、生きていてほしいと願う親が、なぜその子を自分たちへ託せたのか。父親がいると知った今は、聞かずにおけなかった。
「ポルフィラは、何をしたわけでもないでしょう。何を知られたら、危険なのですか」
エステリアはドランへ真摯な目を向けた。
「あの子の母方の一族は、本当の姓を隠して暮らしています。王家に知られれば、命を狙われる血筋なのです」
ドランは高貴な血をあらわす、女性の淡い髪へ目を向けた。
「子供でも、ですか」
「ええ。ポルフィラが何かをしたからではありません。誰の子孫か、それだけで危険になります」
「父親の家で、その姓を隠して育てることはできなかったのですか」
エステリアは目を伏せた。
「同じように隠して育った子はいます。けれど、あの子は髪も瞳も、私たちの中では目立ちすぎました。家の中へ閉じ込めても、成長するあいだ、誰の目にも触れさせずにおくことはできません」
黒い髪を櫛でほどく妻の姿が浮かんだ。村でも、その髪は目立つ。ドランがそう言うと、女性はうなずいた。
「ここでも目立つことは、分かっていました。ただ、私たちの親族として見られずに暮らせる場所へ、離したかったのです」
「私たちの子として育てば、あなた方の一族を探す者には見つかりにくい、と」
「はい。こちらの方が安全だと、保証できたわけではありません。あの子を守るために、あなた方へ危険を引き受けていただきました」
「なぜ、うちの村だったのですか」
エステリアは、閉じられた扉へ目を向けた。それから、さらに声を落とした。
「私たちの祖先に、エルディオという人がいます。あなた方の村で生まれた人です。弟も、あの村で暮らしていました」
ドランは女性を見つめた。
あの名だった。
地下の石板のことを忘れてはいない。セレフィアとともに平和を築き、村と家族を守るために姿を消した人。その子孫が、目の前にいる。
エステリアは彼の沈黙を、不審に思ったようだった。
「村では、伝わっていないでしょうか」
娘たちが読んだことを話せば、字を覚えていることまで知られる。石板のことは、妻やほかの家の者にも関わる秘密だった。
「昔のことは、ほとんど残っていません」
女性はうなずいた。
「私たちも、一族に伝わった話で知っているだけです。故郷に残った弟のことも。その村なら、あの子を私たちから離しても、祖先につながる場所で育てられると思いました」
エステリアは、膝の上で両手を重ねた。
「エルディオも、黒い髪だったと伝わっています。王家の資料に、その容姿が残っているかもしれません。そこに書かれたことを、覚えている人がいるかもしれない」
ドランは、娘の顔を思い浮かべた。
「黒い髪から、エルディオの子孫ではないかと疑われるのですか」
「必ずそう思われるとは限りません。でも、私たちのそばにいる子を見て、親や祖先を調べようとする人がいたら……。そんな記録はもうないと、私たちには確かめられなかったのです」
村の理由は聞けた。けれど、その中の一軒として自分の家が選ばれたことは、まだ分からない。ドランは尋ねかけ、やめた。これ以上ここで話を聞けば、石板のことも口にしてしまいそうだった。
「妻に、今のお話を伝えます」
エステリアは彼へ頭を下げた。
「あの子を育ててくださった二人には、危険の理由を伝えるべきでした。遅くなって、申し訳ありません」
ドランは返事をせず、道具袋を持ち上げた。隠した姓が何なのか、なぜ王家に命を狙われるのか。聞き残したことはある。それでも、何も知らないまま娘を守ってきた十六年が、今日になって別の重さを持った。
*
帰宅したとき、ポルフィラは鍛冶場にいた。戻ってきた父に気づくと、戸口まで出てきた。
「おかえり。扉、直った?」
「ああ。直ったぞ」
娘が袋へ手を伸ばした。ドランは渡す前に、その顔を見た。頬へ落ちた黒髪の下で、瞳に夕方の光が映っている。何度も撫でてきた髪も、父さんと呼んで見上げる目も、娘の命を脅かす手掛かりになるかもしれない。ドランは袋を渡しながら、何も知らずに笑う娘へ、笑い返すのが精いっぱいだった。
家へ入ってきた夫の様子に、ミレアが気づいた。
「何かあったの?」
ドランは娘が鍛冶場へ戻ったのを確かめ、妻へ近づいた。
「あの人に、会った。ポルフィラを連れてきた人だ」
ミレアの手が止まった。布を握ったまま、夫を見つめる。
「あの人が……? どうして今になって。ポルフィラを、連れていくと言ったの?」
声が震え、妻は鍛冶場の方へ顔を向けた。十六年前、戸口に立っていた女性の姿がよみがえったのだろう。ドランは妻のそばへ寄った。
「連れていくためではないと言った。まず、俺たちに話をしたいと」
ミレアは夫へ目を戻した。
「……何の話を?」
布を置こうとしても、指が離れなかった。ドランは妻が座るのを待ち、視察に同行していた女性と、修繕のあと別室へ案内されたことを話した。
実母が亡くなり、父親は生きていると聞くと、夫へ顔を向けた。
「生きているのなら、なぜ……」
ドランは続きを聞くようにと手をあげた。
「それとな、エルディオの子孫だと言った」
妻の目が驚きに見ひらかれた。
「石板の……?」
「ああ。この村で生まれ、弟も村にいた。そのことが一族に伝わっていたから、ここへ連れてきたんだと」
ドランは、王家側にエルディオの容姿の記録や、それを覚えている者が残っているかもしれないと、女性が恐れていたことも話した。
ミレアは鍛冶場へ目を向けた。
「だから手元で育てられなかったのね。今でもあの髪を見た誰かが、気づくかもしれないのね」
「分からん。残っていると確かめたわけではないそうだ。だが、ないとも言い切れなかったんだろう」
ミレアは、娘たちが読んだあの文を思い出し黙った。家族を守るために姿を消した人。その血を引く子が、また家族から離され、自分たちの家へ来た。
「あの人は、石板のことを知っているの?」
「話していない。あの子たちが字を読めることもな」
ミレアはうなずいた。
「まず、私たちで話しましょう。あの子に母親のことを伝えるのも、父親のことを伝えるのも……ただ知らせれば済む話ではないわ」
鍛冶場から、ポルフィラが父を呼んだ。ドランは返事をして立ち上がったが、ミレアのそばで一度止まった。
「会いたいと言うかもしれん」
「ええ」
妻は戸口の向こうを見た。
「でも私たちが怖いというだけで、聞かなかったことにはできないでしょう。あの子をどう守るのかは、もう曖昧なままにしたくないわ」




