第63話 あの子の父親
ドランは、閉じられた扉へ目をやった。案内した家臣は外に残っている。女性の声は静かで優しげだった。しかしその穏やかさに気を許すことはできなかった。
「妻は、ここであなたにお会いすることを知りません。修繕をして帰ると、そう言って出てきました」
「ええ。あなたにも知らせずに、ここへ来てもらいました。申し訳ありません」
彼女は頭を下げた。ドランは答えられなかった。あの夜と同じように、娘のことを自分達の知らないところで決められているのではないか。目の前の女性が何を望んでいるのか、聞かずに帰ることもできない。
顔を上げた女性が言った。
「私はエステリアといいます。あの子を産んだのは、私の妹です」
ドランは、初めて聞く名を胸の内で繰り返した。
「……ポルフィラの、叔母にあたる方ですか」
「ええ」
エステリアはうなずき、ドランの口から聞いた名を小さく繰り返した。
「ポルフィラ……」
あの夜、この人が告げた名前だった。十六年のあいだ、ドランとミレアはその名で娘を呼んできた。女性も、腕に抱いていた赤ん坊を思い出したのだろうか。しばらくして、彼女は尋ねた。
「どんな子に育ちましたか」
すぐに答えてよいのか、迷った。娘のことなら、いくらでも話せる。けれど、暮らしぶりを知ったこの人が、連れて帰る方がよいと考えないだろうか。
ドランは女性の顔を見たまま答えた。
「十六になりました。家の仕事を手伝っています。小さいころからの友達も、五人います」
「元気なのですね」
「はい」
その一言で、女性の肩から力が抜けた。ドランは、道具袋を握っていた手を緩めた。この人も、娘の無事を知らずにいたのだ。
「あの村の知らせを聞いてから、あの子のことが心配で……。離れて暮らしていれば守れると、思ってきました。けれど、子供まで殺されたと聞いて、このままではいけないと思うようになりました」
ドランの胸にも、知らせを聞いた日の恐ろしさが戻った。家にいる娘の顔を見ても、明日も同じように帰って来るだろうかと不安が消えなかった。
「うちでも、怖がっています。娘だけではありません。妻も、村の者も」
エステリアはうなずいた。安全だから心配はいらないとは言えなかった。
ドランは、聞きたかったことをようやく口にした。
「ポルフィラを産んだ方は、今、どうしておられるのですか」
女性の指が、重ねた手の上で止まった。
「妹は、あの子を産んだあと、亡くなりました」
ドランは息を止めた。娘は、自分を産んだ人がどんな人なのか、知りたがっていた。いつか話を聞けるかもしれないと、思っていたのだろうか。もう会えないと聞けば、どんな顔をするのだろう。
エステリアは、声を落とした。
「初めての子でした。あの子が育つところを、妹にも見てほしかった」
細い眉の下で、淡い青の目が潤んだ。ドランは言葉を探したが、慰めになることは何も浮かばなかった。
女性はしばらく黙ってから続けた。
「父親は、生きています」
ドランの目が、彼女へ戻った。
「父親が……」
「マティアス・フェルナーという人です。インディルの領主に仕えています」
娘の父親には名があり、暮らしている場所があった。あの日から一度も沙汰がなかったので、娘を託した人はもう会いに来ないのだと考えはじめていた。
「その方が、娘に会いたいと」
エステリアは、すぐに答えた。
「会いたいと願っています。でも、先に、自分が生きていることを知らせてよいか、あなたとミレアさんに聞いてほしいと頼まれました」
ドランは目を伏せた。知らせるなと言えば、娘は父親が生きていることも知らずに暮らす。知らせれば、会いたいと言うかもしれない。この部屋へ来ることさえ自分では選べなかったのに、娘を会わせるかどうか、本当に夫婦で決められるのか。
「どうして、今まで……」
言いかけて口を閉じた。責めるつもりではなかったが、女性はその先を待たずに答えた。
「私たちが会いに行けば、あの子を隠した場所まで知られるかもしれませんでした。父親も、会いに行かないことが娘のためだと、自分に言い聞かせてきたのです」
ドランには、娘のそばにいられない父親の気持ちは分からない。どうして自分で育てなかったのか。なにが危険なのか、その疑問に対しての説明はない。だが、守りたい相手へ危険を持ち込むのが怖いということは、分かった。
エステリアが言った。
「育ててくださったお礼を、二人に伝えてほしいと。娘を引き離すことは望んでいません」
ドランは顔を上げた。
「私たちの娘です」
声が思ったより強く出た。それでも、言い直さなかった。
「あの子が知りたいと思うなら、聞かせてやりたいです。ですが、妻に何も話さず、ここで決めることはできません」
「ええ。今日、返事をいただくつもりはありません」
女性はドランの目を見た。
「ポルフィラには、預けられたことを話しているのでしょうか」
「話しました。自分だけ髪や目の色が違うのはなぜかと、尋ねましたから」
エステリアはうなずいた。ドランの胸には、あの日、娘と向かい合った食卓が浮かんでいた。知りたいと話した娘に、夫婦は分かることしか答えてやれなかった。
「産んだ人がどんな人か、知りたがっています。父親のことも、聞きました」
エステリアは重ねていた手をほどいた。
「妹のことなら、私からお話しできます。あの子の聞きたいことに答えたい」
ドランはうなずいた。母親の顔を知りたいと言った娘へ、もう何も聞けないわけではないと伝えられる。けれど、その前に、亡くなったことを話さなければならなかった。
ドランは、女性へ向き直った。
「まず、妻に話します。娘にどう伝えるかも、二人で考えたいです」
「お願いします」
娘の父親が生きている。そのことをうれしいと思ってやりたいのに、娘を失うのではないかという怖れの方が強かった。




