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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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第62話 あの夜の女性

インディルの城で、エステリアは旅に持っていく衣服を揃えていた。寝床の上へ畳んだ外套を置くと、マティアス・フェルナーが戸口に立った。

「出発は、明日ですね」


「ええ。倉を見て回る一団に加わるわ。私だけがあの家を訪ねるより、人目を引かずに済むでしょう」


マティアスは部屋へ入り、声を落とした。

「王領の村の知らせを聞いてから、娘が無事か、考えない日はありません」


あの村では、子供まで殺された。娘を王家から遠ざけたとき、竜の民の村そのものが壊されることまでは考えていなかった。

「私もよ。会いに行かなければ居場所を隠せると思ってきたけれど、村にいれば安全だとは、もう思えないわ」


マティアスは目を伏せた。

「それでも、私たちが動いたために、あの家が調べられることになったら……」


「ええ。だから、まずドランから話を聞きたいの。あの子がどう暮らしているか、二人が何を心配しているか」


娘に会いたい思いは以前からあった。だが今は、元気に育っているはずだと思うだけでは、夜ごと浮かぶ不安を抑えられなかった。


二つの領地で、納められた物の受け取り、保管、送り出しを確かめる視察だった。インディル側を率いるのは、テオバルトが一族の保護にも関わらせている重要な家臣だった。側で案内する者も、クラウスが同じ役目を任せている家臣になる。


レオノーラの相談を受けたクラウスが、既に予定していた倉の修繕と視察の中で、面談できる場所を用意することになった。エステリアは普段暮らしている家臣の親族という身分のまま、視察の記録を手伝う者として同行する。


マティアスは、憂いをたたえた目を彼女にむけた。

「ドランには、まだ何も伝えていないのですね」


「修繕のことしか、知らせていないわ。私が待っていることは、会うまで分からないの」


エステリアは外套を持ち上げかけ、手を止めた。仕事に来たドランを、何も知らせず自分の前へ連れてこさせる。断る機会も与えない強引な会い方だった。娘を育ててくれた人に、また恐ろしい思いをさせるかもしれない。そのことが、申し訳なかった。


彼女は外套を胸へ抱え、マティアスを見た。


「娘を連れていくつもりはないと、まず伝えるわ。あなたのことも、私が話す」


マティアスはうなずいた。

「二人に、育ててくださったことへの礼を伝えてください」


その声を聞いて、エステリアは顔を上げた。

「ええ」


*


管理者が倉の修繕を伝えに来たとき、ドランは帰宅してからの仕事のことが心配になった。留守のあいだにも、村の道具は傷む。頼まれている修理を急いで片づけても、戻ったころにはまた増えているだろう。


管理者は、戸口に並ぶ修理品を見てから話した。

「今回は、倉で働く日数に応じて、おまえに割り当てている納付の仕事を減らすことになった」


ドランは顔を上げた。

「帰ってから、その分を作る必要はないのですか」


「ない。倉で働いた日も、領のために働いた日として扱う。村へ戻ってから、留守の分まで取り戻せとは言わない」


管理者は帳面を開いた。

「クラウス様からの指示だ。戻ってから仕事が重ならないよう、納める量と期日を調整する。この前のように、帰ってすぐ急がせることはない」


ドランは、戸口に積まれた道具を見た。畑で使う日が迫っている物もある。納付の仕事が減れば、帰ってからこちらへ手を回せる。


「妻にも、そう伝えてよいのですね」


「ああ。減らした分を、別の家へ負担させることもしない。役所の方で割当てを直す」


ドランは礼を言い、倉へ入る日の説明を聞いた。


「その日は、インディル領から来る一団も倉を見て回るそうだ。おまえが直す箇所は、受け取りの係に確かめてからとりかかるように」


ドランはうなずいた。誰が来るにしても、頼まれた仕事をして帰るだけだった。


*


出発の朝、ミレアは食べ物を包みながら、もう一度夫へ確かめた。

「戻ってから、納める分まで急がなくていいのね」


「ああ。減らした分は、あとで出せとも言われていない」


「それなら、待ってもらう人にも説明できるわ」


隣で道具袋を運んでいたポルフィラが、父を見た。

「帰ってから、夜まで仕事しなくてよくなる?」


ドランは娘から袋を受け取った。

「今回はしなくてよさそうだ。おまえたちにも、この前は心配させたからな」


自分の都合で倉に行くかを決められない。それでも、留守にした家の仕事まで同じように求められないと分かったことは、前とは違っていた。


*


倉へ入ったエステリアは、受け取りの係が説明する声を聞きながら、奥へ目を向けた。


扉のそばで、大柄な男が金具を直している。くすんだ緑の髪に白いものが交じっていた。


ドランだった。


男がこちらへ顔を向けると、エステリアは視線を手元の記録へ落とした。今、声をかけるわけにはいかない。係の者も護衛も、まだすぐそばにいる。


視察を率いる家臣が、倉へ届いた物をいつ町へ送るのか尋ねた。エステリアも記録に集中しようとしたが、鉄を打つ音が止まると、ドランがどこへ行ったのか気になった。


案内役が扉の方を示した。

「搬出に使う扉も、修繕をさせています。動きを確かめてから、隣の倉へご案内します」


エステリアは一団について歩いた。ドランは道具を脇へ寄せ、頭を下げて待っていた。その手が、赤ん坊を受け取ろうと差し出された夜を思い出す。


係が扉を開けると、一団を率いる家臣が金具へ目を向けた。

「ここを直したのか」


ドランが答えた。

「はい。閉めたときに、金具が掛からなくなっていました」


扉を閉め、もう一度開けるよう命じられて、ドランは黙って従った。エステリアはその横顔を見ていたが、彼は客の一人一人へ目を向けなかった。


確認が終わると、係が一団を次の倉へ案内した。エステリアが記録をまとめるため脇の部屋へ入るのを、インディル側の命を受けた家臣が見届け、一団に続いた。


部屋には筆記のための机があった。エステリアはそこへ記録を置いたが、椅子には座らなかった。廊下を通る足音が止まるたび、扉へ顔を向けた。


*


視察団が去っても、ドランはその場を離れずにいた。係が戻ったら、帰ってよいか確かめなければならない。道具を袋へしまい、戸口へ目を向けると、ヴェルディア領主から命を受けた案内役の家臣が立っていた。

「直した箇所について、もう少し聞きたい」


扉に不備があったのだろうか。ドランは袋から手を離した。

「はい」


家臣はすぐには歩き出さず、次の倉へ向かう人々が戸口から見えなくなるのを待っていた。ドランもその横で立ったまま、呼ばれるのを待った。


ようやく家臣が倉の脇へ向かうと、ドランはあとに続いた。修繕した扉の前で止まると思ったが、家臣はそのまま通り過ぎた。


金具について聞くのではなかったのか。ドランは扉を振り返った。別の不備があったのかと尋ねたいが、不用意な発言をするのも怖かった。


家臣は係が使う部屋の前で止まった。ドランもその後ろで足を止め、何を言われるのかと身構えた。


家臣はノックをしてから扉を開け、通り道を空けてドランへ向き直った。

「どうぞ、中へ」


穏やかな声で丁寧に促された。以外な対応に驚きながら、ドランは小さく頭を下げ部屋へ入った。顔を上げると、そこに女性がいた。


白に近い金髪をまとめ、旅の外套を椅子へ掛けている。視察の客と同じ、旅の装いだった。こちらへ向き直った細い眉の下に、淡い青の瞳が見えた。


ドランは入口で動けなくなった。


あの夜、頭巾の下からのぞいていた髪。赤ん坊を渡す前に、その顔へ落とされていた目。


目尻には細い皺が刻まれ、頬にも十六年の年月が見えた。それでも、女性が口を開いた瞬間、忘れたことのない声がした。

「ドランさん」


背後で家臣が扉を閉めた。ドランは振り返りかけ、女性へ目を戻した。外には天馬の民がいる。村で待つ妻と娘の顔が浮かび、握った手がほどけなくなった。


エステリアは彼へ近づかずに言った。

「突然で、驚かせてしまいましたね。どうか怖がらないで下さい。あの子を連れていくために来たのではありません」


しばらく置かれた状況が飲みこめず、思考が停止していた。それでも、ようやく声を出した。

「……これはいったい、どういうことでしょうか」


女性は握られた手を見てから、彼の顔へ目を戻した。

「あなたとミレアさんに、あの子の家族についてお話ししたいのです」

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