第6話 二冊の続き
夕食のあと、ポルフィラは食卓で石板の写しと教科書を見比べていた。椀を片づけに来た父へ、顔を上げる。
「村長は、産屋のこと、覚えてた?」
ドランは椀を重ねて答えた。
「若いころには、まだ使っていたそうだ。屋根が傷んでから、皆、家で子供を産むようになった。それから物置になったんだと」
ポルフィラが尋ねた。
「下の部屋のことは?」
父が答えた。
「話していない。今日は、産屋として使っていたころのことを聞いた」
ポルフィラは木片へ目を戻した。
「字が読めたら、石板を隠した理由も分かるかな」
ドランは娘の写しを見た。
「分かるかもしれん。だが、読めないからもう一度下へ行こうと思ったら、先に俺に話してくれ。行きたいと言っただけで叱りはせん。黙って下りて、戻れなくなるほうが怖い」
娘はうなずいた。
「今は、これで調べる」
ミレアが灯りを寄せた。ポルフィラはもう少しだけ本を見て、木片と一緒に包んだ。
娘が眠ったあと、ドランは村長から聞いた黒髪の子の話をミレアへ伝えた。妻が尋ねた。
「村長が見た子ではないのね」
妻の問いに、ドランはうなずいた。
「子供のころに曾祖父さんから聞いたそうだ。その人も、自分の曾祖父さんから聞いたと。名前も、親も分からん。ほかに聞いたことを思い出せたら、教えてくれるそうだ」
ミレアは寝床へ目を向けた。眠る娘の頬には、黒い髪がかかっていた。
「あの子に話せば、その子は誰なのか知りたがるでしょうね」
ドランは寝床へ目を向けた。
「そうだな。俺たちにも、まだ答えられん」
同じ髪色の子がいたと、娘に教えてやりたい気持ちはあった。けれど、今分かっているのは、それだけだった。ミレアは膝の布を畳んだ。
「村長がほかにも思い出せるか、少し待ちましょう。ただ、あの子が自分の髪の色を尋ねてきたら、昔この村にも黒い髪の子がいたことは伝えましょう」
ドランがうなずくと、妻は立ち上がり、娘の肩に掛けた布を直した。
*
翌朝、トーマの家の前で、四歳の妹が籠を引きずっていた。ポルフィラが手伝って戸口へ運ぶと、母親が礼を言い、娘にも礼を言わせた。そこへ、布包みを持ったトーマが出てきた。
「待たせた?」
ポルフィラが答えた。
「今、来たところ」
母親は息子の包みを受け取り、緩んだ結び目を直した。
「昼までには帰っておいで。今日は畑の石をよけるから」
トーマがうなずくと、妹が袖を引いた。
「私も行く」
トーマはしゃがんで答えた。
「畑へ行くとき、一緒に行こう。今は、お母さんと待ってて」
母親が妹に籠の土を落とす仕事を頼んでから、二人へ近づいた。
「本の話は、ここでも道でもしないでね」
声を低くした母親に、トーマの表情が引き締まった。
「うん」
母親はポルフィラにも目を向けた。
「この子まで字を覚えたいと言いだしたときは、どうしたものかと思ったよ。あなたと一緒なら、何でもやってみたくなるんだから」
ポルフィラは包みを両手で抱えた。母親は、その手元を見た。
「でも、見つかれば、やってみたかったでは済まない。字を覚えたことで、殺されるかもしれないんだよ。本をくれた人も、家の者も調べられる」
足元で妹が籠をこすっていた。取れた土を得意そうに見せる小さな手へ、母親の視線が落ちた。ポルフィラは答えた。
「道では出さない。帰る時間も守る」
母親はすぐには返事をしなかった。やがて息子の肩に触れ、二人を送り出した。
「気をつけて行っておいで」
*
産屋跡では、ガルが皆の座るところから小石を拾い、リナが包みを壁際へ寄せていた。セラの隣に座っていたシオンが、木片を上げる。
「似た字はあったけど、同じとは言えなかった」
ポルフィラも写しを広げた。石板には知っている字もあるが、その間の字が読めない。教科書で似た形を見つけても、言葉がつながらなかった。ガルがのぞき込んだ。
「石が欠けて、字の一部がなくなったのかも」
シオンはうなずいた。
「そうかもしれない。でも、元の形は分からないね」
ポルフィラは、その字を読めないまま残すことにした。シオンが尋ねた。
「ドランおじさんは、また下へ見に行くって?」
ポルフィラは首を振った。
「まだ。行きたくなったら、先に話してくれって。お母さんも、階段や天井を心配してる」
ガルが顔を上げた。
「お母さんにも話したのか。俺はまだ、階段のことを家で言ってない」
シオンが続けた。
「僕は母さんに、下に部屋があったことだけ話した。石板の字や絵までは言ってない」
リナも、セラも、まだ話していないという。トーマは戸口へ目を向けた。
「おれも。母さんは、本だけでもあんなに心配してるから。地下のことまで言ったら、もっと心配すると思う」
ポルフィラは五人を見た。父が見に来てくれたことで、ほかの家でも話が伝わっているような気になっていた。
「お父さんには、誰の家に話してあるか伝えておくね。この前、教えてくれって言ってたから」
ガルがうなずいた。
「頼む」
セラが、開いた教科書へ目を留めた。
「その頁、最初の日にも見たね」
歴史のところだった。シオンが古い本を引き寄せる。
「続きも読もう。前は、途中で壁の字を見つけたから」
トーマは戸口に近い場所へ移った。彼にも本が見えるよう、皆が座る場所を詰める。シオンが古い本を読んだ。
「かつて、竜の民と天馬の民は、互いの力を認め合い、協力して暮らしていた」
そのあとには、こう続いていた。
「二つの民は力を合わせ、国に平和を築いた」
ガルが身を寄せた。
「竜の民も?」
シオンは指を戻した。
「二つの民って、書いてある」
ポルフィラは新しい本の同じ時代を説明したところを開いた。
「竜の民は天馬の民に背き、反乱を起こした。天馬の民はこれを鎮め、国に初めて平和をもたらした」
リナが顔を上げた。
「初めて? 古いほうでは、その前に二つの民で平和にしたんだよね」
ポルフィラは二冊を並べた。古い本では、協力して平和を築いた。新しい本では、天馬の民が竜の民を従わせて、初めて平和になった。ガルが新しい本を指した。
「こっちだと、竜の民は争いを起こしただけじゃないか」
セラは古い本の続きを読んだ。
「でも、こっちでも、そのあと竜の民が争いを起こして、天馬の民が鎮めたことになってる」
リナが眉を寄せた。
「古いほうでも、最後は竜の民が悪いことをしたって言ってるんだ」
ポルフィラはうなずいた。古い本を読めば、自分たちの民が悪くなかったと分かるわけではない。けれど、協力したという話まで、新しい本からなくなっていた。トーマが二冊を見比べた。
「争いを止めたのが天馬の民でも、その前の平和は両方で作ったんだろ? 古い本の話なら」
ポルフィラが答えた。
「うん。でも、新しいほうでは、平和にしたのは天馬の民だけ」
シオンが言った。
「短くしただけじゃないんだね」
ガルは古い本を見つめた。
「俺たちの民がやったことを、消したのか?」
ポルフィラも、そう思うと腹が立った。だが、古い本が正しいかどうか、自分には確かめられない。
「古いほうが間違ってたから、直したのかもしれない。でも、それなら、何が間違ってたのか知りたい」
セラは頁を確かめた。
「書き直した理由は、載ってないね」
トーマが言った。
「じいさんが畑を広げた話をするときは、自分も手伝ったって言うんだ。この本の話は、誰が見たことなのか分からない」
リナもうなずいた。
「うちのおばあちゃんも、自分が見たのか、お母さんから聞いたのか教えてくれる。この本には、そういうことが書いてないね」
誰から聞いた話なのか。どんな記録をもとにしたのか。頁を見ても、分からなかった。外で枝を踏む音がした。トーマが顔を上げ、ポルフィラは本を閉じた。セラが布をかぶせ、皆、声を止める。足音は石垣の外を通り、遠ざかった。しばらく待ってから、トーマが戸口を確かめた。
「もう行った。誰だったかは見えなかった」
今度はガルも、すぐに本を開こうとはしなかった。リナが窓の光を見た。
「今日は、帰る時間を守ろうね」
ポルフィラはうなずき、二冊の違うところをもう一度だけ読み直した。ガルが古い本へ目を落とす。
「一緒にやってたっていうの、嘘じゃなければいいのにな。今の天馬の民は、俺たちが近づくだけで嫌がるだろ。昔は、竜の民の力も認めてたのかもしれないんだよな」
ポルフィラには、納付の荷を渡す父たちの姿が浮かんだ。道具も作物も持っていくのに、村人の手が触れそうになると身を引く者たち。話を聞いてくれる管理者はいても、ほかの者は、村人が話し終える前に仕事へ戻れと命じた。
「私も、嘘じゃなければいいと思う」
そう答えてから、ポルフィラは本を閉じた。信じたい文があるからといって、古い本のすべてが本当だと決めてはいけない。どちらの本も、大事なことを書いていないのかもしれなかった。
*
帰る支度をしていたシオンの写しに、エルディオという名が見えた。リナが隣へ来た。
「その人のことも、今日の本には出てこなかったね」
ポルフィラはうなずいた。本に書かれているのは二つの民の話だった。石板には一人の名前がある。何をした人なのかは、まだ分からない。トーマが戸口で振り返った。
「行こう。畑へ戻らないと」
六人は包みを持って外へ出た。道では、本のことを話さなかった。
二つの民は力を合わせ、国に平和を築いた。古い本の一文が、ポルフィラの頭に残っていた。新しい本だけを読んでいたら、竜の民も力を尽くしたという話を知らずにいた。どうしてなくなったのか。間違いを直したのなら、何が違っていたのか。ポルフィラは包みを抱え直した。今は答えが出なくても、二冊を比べなければ分からないことがある。どちらも、大切に取っておこうと思った。




