第5話 昔の産屋
窓の光が床へ届くころ、トーマが顔を上げた。
「そろそろ帰らないと。昼から畑へ出るんだ」
ガルが読みかけの言葉をもう一度口にし、セラは木片をページへ挟んだ。六人は本と写しを包んだ。ポルフィラは閉じた壁を見た。父と下へ行って確かめられたところはあったが、名前の前後はまだ読めない。シオンが声をかけた。
「次は、この字を本で探してみる」
ポルフィラはうなずいた。
「私も。似たものがあったら、皆で比べよう」
トーマが道を見て、村人が通り過ぎるのを待った。外へ出ると、ガルとトーマとセラはそれぞれ畑へ、シオンは家へ戻った。ポルフィラとリナは果樹の道を歩いた。
リナが枝の山を見て足を速めた。
「切った枝を運ぶように、お母さんに頼まれてたんだ」
母親が紐で束ね、十三歳の姉が軒下へ運んでいた。乾かして薪に使う枝だった。姉が空の手で戻ってきた。
「遅かったね。あんたの分も運んでたんだよ」
リナは束を見た。
「ごめん。残りは私がやる」
母親は本の包みを先に家へ置くよう言った。ポルフィラの包みも籠へ入れて布を掛け、道から見えない場所へ寄せた。二人で残りの枝を運ぶ。姉が持ちやすい束を寄せてくれた。終わると、母親がリナへ言った。
「明日は、仕事を済ませてから出かけてね」
リナがうつむいた。
「今日は、ドランおじさんが来るって聞いてたから」
母親は娘を見た。
「それでも、帰る時間は守りなさい。あんたの仕事を、お姉ちゃんに任せたままにはできないよ」
ポルフィラも、皆で字を見比べていた時間を思い出した。リナの家の仕事まで考えていなかった。姉が妹の肩へ触れた。
「本を持って歩くのも心配なんだよ。見つかったら、あんただけでは済まない。遅いと、何かあったんじゃないかと思う」
リナが小さくうなずいた。
「仕事を先にやる。帰る時間も守る」
母親が包みをポルフィラへ返した。
「道では開かないでね」
ポルフィラは両手で受け取った。
「うん。時間になったら、私もリナと一緒に片づけるね」
*
帰ると、ミレアは食卓で豆をより分けていた。ポルフィラは本を隠し、手を洗って隣へ座った。袖の木屑を見た母に、枝運びを手伝ったことを話す。リナの姉が代わりをしていたと聞き、ミレアは娘へ言った。
「家の手伝いがあることも、忘れないようにね」
槌の音がやみ、ドランが水を飲みに来た。
「字は、何か分かったか」
娘は豆を椀へ移した。
「新しく読めたところはない。でも、皆の写しを比べたよ。はっきり分からないところは、今は決めないでおこうって」
父はうなずき、水を飲んだ。鍛冶場へ戻ると、ミレアがあとを追った。
「下の部屋は、どうだったの?」
ドランは声を落とし、部屋と石板のことを話した。階段は欠け、天井にも割れ目がある。どこまで傷んでいるかは判断できなかった。妻の眉が寄った。
「読めない字があれば、また見たくなるでしょうね」
ドランは道で包みを開けかけた娘を思い出した。
「今は写しで調べると言っていた。だが、下へ行きたくなったら先に話せと、もう一度言っておく。言っただけで叱るつもりはないとな」
それから、夕方に村長を訪ねると伝えた。
「まず、産屋を使っていたころの話を聞く。地下を話せば、石板や入口まで説明しなければならん。どう話すかは、少し確かめてから考えたい」
ミレアはうなずき、娘に呼ばれて家へ戻った。
*
夕方、村長は窓のそばに座っていた。ドランを招き、戸が閉まると尋ねた。
「何かあったか」
ドランは椅子を寄せた。
「産屋の昔のことを聞きたくて。俺が子供のころには、もう物置でした。いつまで使っていたのでしょう」
老人が答えた。
「わしが若いころは、まだ使っていた。湯や薪を運んで、戸口で桶を渡したことを覚えている」
ドランは、朝、子供たちが本を広げた部屋を思い浮かべた。村長はそこへ湯を届けたのだ。
「中は、どんな様子でしたか」
村長は少し考えた。
「壁際に寝かせるところがあり、端に布や器をしまっていた。わしが出入りしたのは、あの部屋だ」
地下を知っているかは尋ねず、ドランは使わなくなった理由を聞いた。老人は窓へ目をやった。
「屋根が傷み、雨が入るようになった。家で産むほうがよいとなって、手を貸す女たちも妊婦の家へ通った。修理には木も人手も要るが、皆、納める仕事があって、すぐにはそろえられなかった」
材料も時間も、納付のあとで工面するしかない。ドランにはよく分かった。村長が続けた。
「雨の入るところは後でふさいだ。だが、そのころには家で産むのが当たり前になっていた。空いた部屋へ、家に置ききれない道具を運ぶようになったんだ」
ドランは、父に頼まれて運んだ鍬を思い出した。物置になる前には、そういう経緯があった。村長は彼を見た。
「今も子供らが使っているなら、床や壁を確かめてやってくれ。危ないところへは近づけんように。わしはもう、あそこまで歩けないからな」
ドランが承知すると、老人は窓の外を見た。
「あそこも長く残っている」
ドランは尋ねた。
「建てたのは、いつごろでしょう」
村長は首を振った。
「年は知らん。わしが子供のころには、もう古かった。曾祖父から聞いた昔の子の話にも、あの産屋が出てきた」
ドランは顔を上げた。
「昔の子、というのは」
老人は水を一口飲んでから答えた。
「この村に、黒い髪の子が生まれたことがあるそうだ」
ドランの手が止まった。村長は言葉を続けた。
「まだ小さいころ、曾祖父から聞いた。その人も、自分の曾祖父から聞いたのだと。わしが生まれるより何代も前の話だ」
ドランは今朝の石板を思った。古びていたが、それだけで同じころのものかは分からない。老人が言った。
「ポルフィラを初めて見たとき、思い出したんだ。布から黒い髪が見えてな」
あの朝、村長が娘の髪を見て黙ったことを、ドランも覚えていた。尋ねる余裕がなかったが、その沈黙の理由が分かった。
「名前は、伝わっていませんか」
老人は考え、首を振った。
「聞いていない。村の者は皆、緑か茶の髪だったから、黒い髪の子を見てみたいと思った。そのことを覚えているだけだ」
ドランは、エルディオの名を口にしなかった。髪の色も知らず、昔話の子と同じだと判断できるものはない。村長が尋ねた。
「あの子の髪を気にしているのか」
ドランは答えを探した。
「気にならないと言えば嘘になります。いつか聞かれたとき、何を話せるのかと。でも、俺とミレアの娘であることは変わりません」
村長は小さくうなずいた。
「昔にもいたというだけでは、なぜ黒い髪なのかまでは分からんな」
そうだった。ポルフィラはこの村で生まれたのでもない。はるか昔に同じ髪色の子がいたと知っても、それが出生の答えにはならない。老人は膝の布を直した。
「ほかに何か聞かなかったか、もう一度考えてみよう。覚えていないことを、こうだったはずだとは話せん。確かに思い出せたら伝える」
ドランは礼を言い、椅子を戻した。
*
帰り道、産屋跡への分かれ道で足を止めた。地上の部屋が物置になった理由は分かった。だが、村長の話に地下は出てこなかった。昔の黒髪の子と、石板の名前。結びつけるものはまだない。娘と同じ髪色だからといって、ポルフィラの血縁を示すわけでもなかった。それでも、村に残っていたその話を、もう少し聞きたかった。名が伝わらないのは、長い年月のうちに忘れられただけなのだろうか。家の窓に灯りがともり、戸口から娘が顔を出した。
「お父さん、ご飯だよ」
ドランも手を上げた。
「今、行く」
黒髪が戸の向こうへ消えた。昔の子も、帰ってくる誰かをこんなふうに待ったのだろうか。
今日の話は、まずミレアへ伝えよう。娘へ話すかどうかも、二人で考えたかった。ドランは敷居を越えた。
「ただいま」




