第4話 父と下りる階段
朝、鍛冶場をのぞくと、ドランは灯りと縄を用意していた。ポルフィラは戸口から尋ねた。
「今日は行ける?」
父が顔を上げた。
「そのつもりだ。朝の手伝いは済んだか」
昨日は折れた鍬が持ち込まれ、直すうちに日が傾いてしまった。ポルフィラは待ちきれず、晩ご飯のあとも写した字を見直していた。娘がうなずくと、ドランは荷を持った。ミレアが戸口へ来る。
「無理に奥まで行かないでね」
ドランは妻へ答えた。
「様子を確かめる。危ないと思ったら戻る」
母は娘の包みの結び目を確かめ、二人を送り出した。道で、ポルフィラは昨日の学習について話した。
「写したものだと、字なのか石の傷なのか、分からなくなるの」
ドランは歩調を娘へ合わせた。
「元の字をもう一度見たいわけか」
ポルフィラはうなずき、説明しようと包みを緩めた。木片を取り出しかけたところへ、低い声がした。
「ポルフィラ、その包み」
シオンの母親だった。家の脇で薬草の根についた土を落としていた手を止め、道の向こうを見ている。教科書の角が出ていた。ポルフィラは慌てて布を戻した。
「ごめんなさい」
結び直す間、ドランがそばへ立った。その背で、道から手元が見えなくなる。シオンの母親は待ってから言った。
「天馬の民が来る予定のない日でも、気を抜かないでね」
ポルフィラは包みを抱え直した。見つかれば、叱られて済むことではない。誰にもらい、誰と読んだかを問われれば、友達も管理者も家族も追及される。自分の命さえ危うい。知っていたのに、父へ見せたい気持ちが先に立った。ドランが、シオンはもう行ったかと尋ねると、母親は家を見た。
「根を洗うのを手伝ってからね。それより、下に部屋があるって本当なの」
ドランは声を落とした。
「これから見る。昨日は、下りないように言ってある」
母親は籠の縁を握った。
「あの子も約束したと言っていた。本のことだけでも、毎日心配なのにね」
村人が皆、学びを喜んでいるわけではない。ドランは、教科書を処分できないかと頼まれたことがあった。その家の子は読んでいない。それでも、同じ村で隠していたと責められるのを恐れていた。本の話を自分の前ではしないでくれと言う者もいた。外へ告げれば、なぜ今まで黙っていたのか自分も問われる。だから、これ以上知りたくないのだと。親の代をたどれば、遠い縁戚へ行き当たるほどの村だった。互いに助けていても、同じ覚悟を持てるわけではない。ドランは彼女の心配を軽く受け流せなかった。母親はポルフィラへ向き直った。
「帰ったら、どんなところだったか聞かせて。シオンは字の話に夢中になってしまうから」
ポルフィラが答えた。
「分かった。入れたら、ちゃんと見てくる」
*
産屋跡へ入ると、ガルが立ち上がった。
「来た!」
トーマに腕を引かれ、すぐ声を落とす。借りた灯りが床にあり、彼は得意そうに示した。
「持ってきてる」
リナが包みを寄せ、セラは本に挟んだ木片を落とさないよう押さえた。シオンはまだ写しとページを比べていたが、リナに呼ばれて顔を上げた。
「見てほしいところに印をつけてたんだ」
ドランは部屋を見渡した。産屋として使わなくなったのは、自分が生まれる前だと父から聞いていた。子供のころには、古い鍬や籠を置く共同の物置で、道具を届けに来たことがある。奥の壁も覚えていた。その向こうを気にしたことはなかった。
ポルフィラは、壁の字からくぼみを見つけたと説明した。ガルが反対側へ手を置くと、父が止めた。
「まだ押すな。どっちへ動いたか教えてくれ」
動く壁の前から子供を離し、閉め方も確かめた。それから二人へ合図する。石の奥で音がし、壁がずれた。ドランの笑みが消えた。
「……こんなものが、あったのか」
灯りを低くして階段を照らす。ポルフィラは途中の欠けた段を、セラは天井の割れ目を伝えた。父が皆へ言った。
「俺が先に見る。呼ぶまでは階段にも入るなよ」
ガルは入口から退いた。ドランは縄と道具を置き、灯りだけ持って下りた。広い肩が壁の間に収まり、やがて見えなくなる。
ポルフィラは足音が止まるたび耳を澄ませた。父が見てくれるのはうれしい。それでも、下の様子が分からないと落ち着かなかった。リナが小声で言った。
「大きいから、頭ぶつけないかな」
下から父の声がした。
「入口が低いな」
ガルの口元が緩んだ。ポルフィラも少し笑い、階段の奥へ目を戻した。
*
ドランが途中まで戻り、ポルフィラを呼んだ。
「字を見てもらいたい。俺のそばまで来てくれ。みんなは上で待っていろ。狭いところで何人も動くと、すぐ戻れなくなる」
シオンとリナが写しを渡した。シオンは名前のところを、リナは腕と服の区別を確かめてほしいという。セラも声をかけた。
「名前のあとに、『生まれ』に似た字があったでしょう。写し間違いじゃないか、そこも確かめてきて」
ポルフィラは木片を包んだ。
「見られるところを見てくる。戻ったら一緒に調べよう」
父のすぐ上を下り、欠けた段では中央を踏んだ。低い入口をくぐると、ドランが天井を示した。
「割れ目がどこまで続くか分からん。あの下へは寄るな。棚も触らないこと」
棚の脚は崩れ、壁へ傾いていた。前は何が載っているかばかり気になり、支えている部分を見ていなかった。台へ灯りを向けると、二人の手が浮かんだ。父は石板のひびを見た。
「持って帰らんでよかったな。端を持てば、ここから折れるかもしれん」
ポルフィラは木片を並べた。名前の一部は自分の写しと違っていたが、灯りを動かして比べると、シオンの写しのほうが石に近かった。
「やっぱり、エルディオでよさそう」
ドランがその先を照らした。
「ほかはどうだ」
娘は教科書を開き、昨日セラと見つけた字を示した。
「ここ、『生まれ』かもしれない。本のこの言葉に似てる。その次は、『た』にも見えるけど、欠けてるから言い切れない」
ドランが尋ねた。
「誰かが生まれたことを書いてあるのか」
ポルフィラは、名前と「生まれ」の間を指した。
「かもしれない。でも、ここが読めないから、誰のことを書いてあるかは、まだ分からない」
父は低い入口を振り返った。
「それにしても、わざわざ壁の奥へ隠したのは、なぜだろうな」
ポルフィラも入口を見た。壁が閉まれば、石板があることさえ分からない。
「見つかったら困ることが、書いてあるのかな」
ドランは石板へ目を戻した。
「どうだろうな。何が書かれているか分からんうちは、隠した理由も分からん」
ポルフィラは名前の書き間違いを直し、そのあとに続く文字も、石板を見ながら自分の木片へ写し直した。読めない字は、戻ってから教科書で探すつもりだった。リナが迷ったところは服の縁らしい。上で伝えるため、その場所も確かめた。ドランが帰ろうと言うと、ポルフィラは本を閉じた。まだ見たかったが、天井と棚を父が気にしていることも分かっていた。
*
上で待っていたリナが立ち上がった。
「何か読めた?」
ポルフィラは二人へ写しを返した。
「少し。あとで一緒に見よう」
ドランは皆がそろったことを確かめた。
「しばらく下へは入らないでくれ。欠けた段も天井も、次に来るとき大丈夫とは言えん」
ガルが尋ねた。
「直せる人に見てもらったら?」
ドランは首を振った。
「何を隠した場所か分からんまま、人を連れてくることはできない。本や写した字を見られれば、おまえたちの学びまで知られるかもしれん」
ガルが台のあったほうを見た。
「石の板も持ってこられない?」
父が答えた。
「割らずに運べるか分からんし、上では人目に触れる。見せろと言われても断れない。今は動かさない」
ドランは子供たちへ向き直った。
「おまえたちの父さんや母さんにも、ここで何があったか知らせないとな。家でどこまで話したか、あとで俺に教えてくれ。俺からも、見てきたことを話す」
子供たちは互いの顔を見た。ドランは言葉を続けた。
「家の者に黙っておけと言っているんじゃないぞ。だが、ほかの人に話して、本を読んでいることまで知られれば危ない。誰かに話したいときは、先に俺か、父さん母さんに相談してくれ」
シオンは自分とポルフィラの写しを並べた。
「写したものなら、ここで調べられる。見てもらったところも確かめたい」
ポルフィラもうなずいた。下へ行けなくても、読むことまでやめる必要はない。父が内側の取っ手を引くと、階段は壁の向こうへ消えた。
「上でも声に気をつけろ。本を出すときは、戸のほうも見てくれ」
リナがトーマを見た。
「いつも見てくれてるよ」
トーマは少しためらった。
「僕も字に夢中になると忘れることがある。誰か一人は見ていたほうがいい」
ポルフィラは本へ伸ばした手を止めた。彼も一緒に読みたいのだ。任せたままにはできない。
「順番にしよう。最初は私が見る」
ガルが外の道を確かめて戻った。
「次は俺」
リナも続くと、ドランはうなずいた。娘が道で包みを開けかけた話を聞き、子供たちは自分の結び目も確かめた。昼までに帰るよう言い残し、父は鍛冶場へ向かった。ポルフィラは戸口が見える場所へ座り、皆に木片を示した。
「まず、ここから比べよう」
シオンとセラが本を寄せ、リナは絵を見直した。ガルも灯りを片づけて加わった。
*
産屋跡から離れて、ドランは振り返った。外から見た建物は、朝と変わらない。子供のころ、父に頼まれてあの壁の前へ道具を運んだことがある。その下に部屋があるなど、聞いたこともなかった。
産屋として使っていたころの村人も、知らなかったのだろうか。いつから入口が隠され、石板が置かれていたのか、今のドランには分からない。村長なら、少なくとも地上の部屋がどう使われていたかは覚えているかもしれない。まずは、その話を聞いてみたかった。
夕方、村長のところへ寄ろう。地下を明かす前に、いつ産屋を使わなくなり、どう物置になったかを聞いてみようと思った。




