第3話 村の子
朝、食卓に昨日の木片があった。ポルフィラは椀を置いてのぞき込んだ。明るいところで見ると、つながって見えた字が少し離れている。隣の絵は、二人が手を伸ばすというより、一人が袖を引いているようだった。向かいのドランが尋ねた。
「それが見つけた字か」
ポルフィラは木片を父へ向けた。
「ここ、エルディオって読めると思う。聞いたことある?」
父は名を繰り返し、首を振った。ミレアも知らなかった。ドランが尋ねた。
「壁にあったのか」
娘は答えた。
「壁とは別。下の部屋に、石の板があったの」
父の手が止まった。
「下の部屋?」
ポルフィラは壁のくぼみと、現れた階段について話した。六人で灯りを借り、下りたことも。話すうちに、父が笑っていないと気づいた。ドランは天井のことを聞いた。割れたところがあり、その下には行かなかったと答えると、しばらく黙った。
「俺が一度見るまで、下には入らんでくれ」
ポルフィラは木片を押さえた。
「もう、入っちゃ駄目?」
父が答えた。
「今はな。昨日平気でも、今日崩れないとは限らん。俺にも分からんところがあれば、入らせてやれない」
早く見てほしかったが、鍛冶場には直す道具が並んでいる。父は仕事が片づけば今日、遅くなれば明日と言った。娘はうなずいた。
「みんなにも言う。今日は、写した字を調べるだけにする」
ミレアが椀を取った。
「いつもの部屋にいてね。帰ってこなかったとき、どこを探せばいいか分からないと困るわ」
ポルフィラは答え、本と木片を包んだ。
*
朝の手伝いを終えるころ、ガルの母親が鎌を受け取りに来た。ポルフィラが運んでいた二本の柄のうち、一本を持ってくれる。
「重そうね。片方、およこし」
ポルフィラが大丈夫と言うと、彼女は笑った。
「そこまでなら、私にも手伝えるわ」
作業台へ置くと、籠から麦の焼き菓子を出した。
「この前、ミレアに縫い物を助けてもらったから。あんたも食べなさい」
受け取ったポルフィラの肩を軽くたたき、畑へ向かっていった。誰かの仕事を少し手伝い、手が足りなければ別の人を呼ぶ。それは、ポルフィラには当たり前の暮らしだった。
ドランはその背を見送った。十年前、乳を頼みに行ったときにも、あの手を見た。何も話せない自分を前に、赤ん坊のため上着を取ってくれた手だった。
*
あの夜、隣家の戸を叩くと、ガルの父親が出てきた。
「こんな時間に、どうした」
ドランは声を落とした。
「赤ん坊を託された。腹を空かせて泣いてる。奥さんに、乳を分けてもらえんだろうか」
父親の顔から眠気が消えた。
「誰からだ」
ドランは上着の端をつかんだ。
「それは、話せない」
頼みに来ながら、問われたことに答えられない。ガルの父親は眉を寄せた。奥から顔を出した母親は、腕の中のガルを夫へ渡した。
「この子は今、飲んだところだから」
上着を取る妻を、夫が止めた。
「待て。何も分からないままで」
彼女は袖へ腕を通した。
「話は向こうで聞けるでしょう。首は据わっているの?」
ドランが首を振ると、母親は急ごうと言った。
家では、ミレアがポルフィラを抱いて歩いていた。赤ん坊を受け取ったガルの母親が胸元へ寄せると、泣き声が途切れ、口が動き始めた。ドランは食卓へ手をついた。さっきまで外まで聞こえた声が、こんなに小さくなる。ミレアも座ったが、組んだ手にはまだ力が入っていた。
礼を聞いたガルの母親は、赤ん坊を見たままうなずいた。
「名前は」
ミレアが答えた。
「ポルフィラ」
彼女は名を呼び、夫婦へ顔を上げた。
「明日も、ここにいるんだね」
ドランが答えた。
「俺たちが育てる」
ガルの母親は、布の端を直した。
「なら、明日の乳も考えないと。私も一日中ここにはいられないから」
ミレアは身を寄せた。
「こちらから連れていくわ。あなたの仕事も、できるだけ手伝う」
母親が赤ん坊を支える腕を見せた。
「まずは抱き方を覚えてもらおうね。ここを腕に預けると、あなたも楽になるよ」
ミレアとドランは、並んでその手元を見た。
*
翌朝、ガルの父親が妻と来た。妻はガルを抱いている。父親は戸口でドランへ尋ねた。
「村長には話したのか」
まだだと答えると、彼は家の中を見た。ミレアの腕でポルフィラが眠っている。
「自分から話したほうがいい。ほかの者から聞くよりな」
ドランは頭を下げた。
「何も話せなくて、すまん」
ガルの父親は声を低くした。
「聞きたいことはある。だが、俺が知れば助けられる話かも分からん。誰かが尋ねに来たら、どうする」
ドランは息を吐いた。
「育てられない事情があって引き受けた。それ以上は、今は話せないと言うしかない」
父親はしばらく黙った。
「村長にも、そう話してくれ。連れてくる。おまえはここにいろ」
やがて、村長が杖をついて来た。村で一番の年寄りだった。ミレアのそばへ座り、赤ん坊をのぞく。
「小さいな」
布から黒髪が見えると、老人の目が止まった。眉が寄り、唇が動く。だが、何も言わなかった。ドランが呼ぶと、村長は目を上げた。
「……いや」
その沈黙の理由は分からなかった。ドランは、引き取った子であること、誰からかは話せないこと、それでも夫婦で育てると決めたことを伝えた。村長は遮らずに聞いた。
「おまえたちが親になるのだな。では、今、何が要る」
ミレアが答えた。
「乳を分けてもらっています。それから布が。洗って乾かす間の分まで、まだなくて」
村長は家々に聞こうと言った。ドランは一歩近づいた。
「俺たちが引き受けた子です。村の者まで困らせるかもしれません」
老人は顔を上げた。
「その心配はなくならんな。だが、乳も布も足りんままで、おまえたちだけに育てさせるわけにはいかん」
村長はドランの手を見た。
「手を傷めて、炉に立てなかったときのことを覚えているか」
ドランは掌の薄い傷へ目を落とした。納める期日は待ってくれず、ミレアと二人、何を手放せば暮らせるか考えていた。村人が食べ物を届け、水や薪を運び、道具の手入れも自分たちで済ませてくれた。治ったときには、戻れる鍛冶場が残っていた。
「皆に助けてもらいました」
村長はうなずいた。
「ほかの家が困れば、おまえたちも手を貸してきた。この子を心配する者もいるだろう。話せることは、二人から話してやってくれ」
ドランは赤ん坊を見た。
「何か聞かれたら、まず俺が話します」
老人の声が少し強くなった。
「一人で何もかも引き受けるな。困ったら、今のように話しに来い」
*
すべての家を回る前に、赤ん坊を引き取った話は伝わった。布を持ってくる者がいた。孫の使わなくなった寝床の箱を貸してくれる者もいた。ドランは欠けた縁を削り、赤ん坊を寝かせられるよう直した。皆が心配しなかったわけではない。畑帰りのトーマの父親は、泣き声へ目を向けた。
「荷を取りに来る連中に聞かれたら、どうする。昨日までいなかった子だぞ」
ドランが答えた。
「引き取って育てていると話す。皆に、作った話を言ってもらうつもりはない」
父親は外に人がいないのを確かめた。
「知らないと答えても、隠していると言われたら、それまでだ。向こうは、俺たちの言葉を聞いてくれるとは限らん」
ドランはうなずいた。相手が赤ん坊だけでなく、自分の家族を考えていることも分かった。トーマの父親が収穫前に寝込んだとき、ドランやガルの両親が畑へ出たことがある。ミレアも食べ物を運び、家族に代わって洗い物をした。荷を用意し終えても、病人はまだ戸口に立てなかった。管理者は事情を聞き、延期を頼んでくれる人だった。だが、荷を取りに来る者は別だった。袋を積む場所を尋ねようと近づいたドランに、その者は身を引いた。
「そこに置け。近寄らなくていい」
誰が畑で働き、誰が病人を世話したかは尋ねられなかった。必要とされたのは、決められた数の袋だけだ。逆らえば何をされるか分からず、村人は黙って従った。
病人が出ても、納める分は要る。手を傷めても、食べ物は要る。同じ村の者が手を貸さなければ、一軒の家では暮らしを保てなかった。それでも、今回の危険は仕事を分ければ済むものではない。ドランはトーマの父親の返事を待った。
「荷を取りに来た者に、この子のことを尋ねられたら、俺に知らせてくれ」
父親はゆっくりうなずいた。
「おまえも、困ったら俺たちに話せよ」
帰りに、彼は戸口の薪を見た。
「明日、森から戻るときに置いていく。洗い物が増えるんだろう」
ドランは礼を言った。揃わない色の布でも、洗って干すそばに次の一枚があった。湯を沸かす薪も切れなかった。夫婦はガルの母親に、抱き方や寝かせ方を教わった。
ある夜、ミレアの目が何度も閉じかけた。ドランは腕を差し出した。
「俺が抱いている。先に寝てくれ」
初めて一人で娘を寝かしつけた。だが、眠る子を腕から寝床へ移す方法が分からない。妻を起こすのも気の毒で、そのまま抱いていた。翌朝、ガルの母親は笑ってから、手を添えて教えてくれた。
*
数年後の冬、ポルフィラの靴が小さくなった。まだ履けると言ったが、脱がせると指に跡がついていた。ガルの母親が、息子の古い靴を届けてくれた。ガルは足が大きく、一足先に替えていた。つま先は擦れ、紐が片方ない。ドランが直す間、娘は作業台の下から顔を出した。
「もうできた?」
父が笑った。
「まだ片方だ」
ようやく履かせると、ポルフィラは戸口まで歩き、戻ってきた。痛くないと答えるなり外へ向かう。父も上着を取って追った。外にはガルと母親がいた。ポルフィラは片足を上げた。
「お父さんが直したの」
ガルが笑って駆け、娘も追った。慣れない靴でつまずきかけ、ドランが手を伸ばす。娘は自分で踏みとどまり、振り返った。
「お父さんも来て!」
ガルの母親が笑った。
「初めて抱いたときも、そんな顔をしていたよ」
父は手を下ろした。
「転ぶかと思ったんだ」
彼女は二人へ目を戻した。
「ガルも、その靴で何度も転んだよ」
道の先で、村人が泥の深いところを教えていた。ポルフィラは返事をし、乾いた道へ移った。ドランはその後ろを歩いた。
*
娘がいろいろ尋ねるようになると、夫婦の知らないところで出生を聞くのではないかと、ドランは気にし始めた。村長の家でそのことを話した日、薪を運んだトーマの父親と、糸を返しに来たセラの母親が居合わせた。
「いつかは、俺たちから話さなければと思っています。だが、どう話せばいいか」
村長が答えた。
「あの子に話すのは、おまえたちからだ」
セラの母親も手を止めた。
「うちの子にも余計なことは言わせないよ。あの子たちには、ドランとミレアの娘。それでいいでしょう」
トーマの父親が続けた。
「皆にも伝えておく。二人が話すまで、こちらからは話さない」
ドランは礼を言った。黙っていてよいのかという思いは消えなかった。それでも、娘が一人でその話を聞かずに済むことには、ほっとした。村人は、その後も名前を呼び、手伝いを頼み、悪さをすれば叱った。見守る約束は、その日々の中で守られてきた。
*
家の戸が開き、ドランは作業台から顔を上げた。十歳になったポルフィラが、本の包みを抱えていた。
「行ってくるね」
父は声をかけた。
「下には入るなよ」
娘は答え、道へ出た。
「分かってる。皆にも話すから」
畑でガルの母親が顔を上げ、娘と笑い合った。言葉までは聞こえない。ミレアも鍛冶場へ来て、その二人を見た。
「あの人のところへ、何度通ったかしらね」
ドランが答えた。
「数えられんな」
娘の通る道の両側に、世話になった家がある。抱き上げることさえ教わった子から、今朝は知らない部屋の話を聞いた。ミレアが尋ねた。
「見に行けそう?」
ドランは道具を持ち直した。
「仕事を片づける。暗くなるようなら、明日だな」
どんな場所なのか、まず自分の目で確かめなければならなかった




