第2話 灯りの届くところ
誰も、すぐには階段へ足をかけなかった。ガルが首を伸ばすと、トーマが服の背をつかんだ。
「見えないところへ行くなよ」
ガルは振り返った。
「見てるだけだ」
トーマは手を放さなかった。
「それで落ちたら、同じだろ」
リナもポルフィラの袖を離さなかった。壁の向こうから流れる空気は、雨のあとの土に似た匂いがする。トーマが言った。
「畑の小屋に灯りがある。火打ち石も。借りてこられると思う」
ポルフィラは窓を見た。光が壁の文字から離れ始めている。
「帰る時間に間に合うところまでにしよう。奥が長かったら、今日はやめる」
ガルは暗がりを見てから、トーマについて出ていった。
待つ間、セラが本を片づけ、シオンは壁の字を木片へ写した。ポルフィラが隣へしゃがむ。
「覚えた字だと思ったのに、少し違うね」
シオンは木片を見た。
「今の字に直したら、間違えるかもしれない。そのまま写しておこう」
リナが二つのくぼみを見比べた。
「どうして、二人で押さないと開かないんだろう」
セラが答えた。
「大人なら、一人でも届くかもしれないわ」
ポルフィラは腕を広げてみたが、やはり届かなかった。作った人は、誰に開けてほしかったのだろう。
*
トーマが小さな油の灯りを持って戻った。金属の枠の中で火が揺れ、ガルは火打ち石の包みを見せた。ポルフィラが階段を照らすと、欠けた段が橙色に浮かんだ。
「一段ずつ。押さないでね」
壁に手を添えて下り、欠けた端を避けるよう後ろへ伝えた。足音が狭い壁の間で重なる。最後の段の先に低い入口があり、くぐると灯りが横へ広がった。部屋だった。ガルが肩越しにのぞいた。
「誰か、いる?」
声が壁に当たって戻った。返事はない。壁際に台と傷んだ棚があり、床に木の欠片が落ちている。セラが天井を見上げた。
「あそこ、割れているわ」
黒い筋の下に、砂と小石が落ちていた。ポルフィラは近づかないよう皆に言い、灯りを台へ向けた。シオンが身をかがめた。
「そこにも字がある」
石の板だった。端が割れ、表面に埃が積もっている。ポルフィラが端をそっと払うと、彫られた字が現れた。灯りを置き、シオンと読んでみた。一つ分かっても、次で止まる。欠けたりひびが走ったりして、教科書で覚えた形とは違って見えた。ポルフィラは同じところを見直した。
「エルディオ、かな」
シオンが木片へ写した。
「名前みたいだね」
ガルが尋ねた。
「誰の?」
ポルフィラは首を振った。
「知らない。読み方が違うかもしれないし」
セラが台の奥を指した。
「そっちは、絵?」
埃をそっと払うと、人が二人、並んでいた。顔は分からず、足元や腕も欠けていたが、二つの手が中央で触れ合っているように見えた。リナが身を寄せた。
「字が読めたら、この人たちのことも分かるかな」
ポルフィラは石板を見た。
「何かは、分かると思う」
持ち帰れば明るいところで読める。だが、手を伸ばしかけて、中央のひびに気づいた。持ち上げれば割れるかもしれない。
「ここに置いておこう。写して帰ろう」
シオンが字を写し、リナは絵を描いた。セラが見落としたところを教え、ガルは灯りを持つポルフィラの肘をそっと押して、二人の手元へ光を向けた。入口にいたトーマが呼んだ。
「そろそろ戻ろう。下りるのにも時間がかかった」
まだ読めない字があり、棚の上も気になった。けれど、リナの指は冷えて白くなっている。ポルフィラは灯りを持ち直した。
「今日は、ここまでにしよう」
*
上の部屋は思いのほか明るかった。リナが手をこすり、ガルは開いた入口を振り返った。内側を調べると、石から短い取っ手が出ていた。軽く引けば壁が動く。皆が戻ったことを確かめ、ポルフィラとガルで引くと、入口はゆっくり閉じた。何も知らずに見れば、朝と同じ壁だった。
ポルフィラは帰る前に、シオンの文字とリナの絵を自分の木片へ写した。二人の手を描いたつもりが、袖を引いているように見え、リナに笑われた。
「明日は、写した字を調べよう」
六人は本と木片を包み、灯りを返して家へ向かった。
戸口にいたミレアが、娘の肩の埃を払った。
「ずいぶん汚れたのね」
ポルフィラは袖を見た。
「産屋跡で、古い字を見つけたの。壁にも書いてあった」
母が聞き返す前に、娘は汚れた指を握った。
「先に洗ってくるね。本まで汚れちゃう」
鍛冶場からドランが顔を出した。
「今日は何を覚えた?」
娘は笑った。
「まだ、読めない字のほうが多かったよ」
父も笑って送り出した。ミレアは娘の背を見てから、木片を包むための乾いた布を取った。
*
その夜、娘が眠っても、ミレアは灯りを消さなかった。食卓に、持ち帰った写しがある。ドランは隣へ座り、字と二人の絵を見た。彼には、何と書かれているか分からなかった。
「産屋の壁に、字があったのか」
ミレアがうなずき、隣の寝床へ目を向けた。
「もう、十年になるのね」
十年前にも、二人は小さな灯りを挟んでいた。あの夜、戸を叩く音は小さかった。鍛冶場の火を落とし、ドランが道具の柄を削っていたところだった。村人なら、叩く前に名を呼ぶ。妻と目を合わせ、彼は尋ねた。
「どなたです」
知らない声が返った。
「ドラン殿のお宅でしょうか」
自分の名に添えられた呼び方が、場違いに聞こえた。戸をわずかに開けると、外套をまとった女が立っていた。頭巾からのぞく髪はほとんど白く、瞳も淡い。ドランの手が固まった。村へ来る天馬の民の髪は淡い茶や金色だ。高貴な血筋ほど色が薄いと聞いていたが、これほど色の薄い髪を間近に見たことはない。管理者より、はるかに上の者なのだろう。
こんな者が、なぜ自分たちの家へ。昼に納めた鉄に不足があったのか。誰かが何か言ったのか。肩越しの暗い道へ目を向けても、ほかに人がいるか分からなかった。
来訪者は頭を下げた。
「夜分に、申し訳ありません」
詫びられても、戸を開けられなかった。朝になって誰かに知られ、問い詰められたとき、自分たちの言葉を信じてもらえるとは限らない。
「ご用件は」
相手の腕の中で布が動き、小さな泣き声がした。黒い髪と赤い頬。赤ん坊だった。
「この子を、しばらく暖かいところへ」
背後に来たミレアも、その顔を見て止まった。赤ん坊がもう一度弱く泣く。妻はスカートを強くつかんだまま、脇へよけた。
「……中へ」
怖がっている。それでも閉めるつもりはないのだ。ドランは通れるだけの隙間を作った。外套の裾は泥を含んでいたが、留め具は見たことのない細工だった。誰にも見られていないとは思えず、彼は外を見直してから戸を閉めた。
*
来訪者は赤ん坊の顔をのぞき、布を直した。それからようやくミレアへ渡した。受け取る指が相手の手に触れ、ミレアの肩がこわばった。だが、相手は振り払わなかった。赤ん坊の足は冷えていた。ミレアに言われ、ドランは柔らかい布を持ってきた。包み直す間も、来訪者は戸口から離れない。
ドランが尋ねた。
「この子を、どうなさるのですか」
相手は赤ん坊を見たまま答えた。
「ここで、育てていただきたいのです」
ミレアの手が止まった。温めることと、育てることは違う。泣き声は外にも聞こえる。昨日までいなかった子を、隠しておけるはずがない。ドランは問いを重ねた。
「どなたのお子ですか。迎えには、いつ来られるのですか」
返事がなかった。ミレアが赤ん坊を抱いたまま座った。
「お返しするまで預かる、というお話ではないのですね」
来訪者が答えた。
「……そうです」
この人は、災いを置いていくのではないか。そう考えたことが、妻の腕の中の子まで指しているようで苦しかった。だが、恐ろしさは消えない。
ドランは声を落とした。
「この子を探しに、誰か来るのですか。ここにいると知られたら、どうなるのでしょう」
来訪者がまっすぐ彼を見た。
「私が連れてきたことは、誰にも話さないでください」
ドランは息を詰めた。
「村の者にもですか。私たちだけで乳をやることもできません。助けを頼まなければ育てられないのです」
ミレアも顔を上げた。
「手を貸してくれる人には、何と話せばよいのですか」
来訪者は言葉を選んだ。
「子供を引き取ったことは、話していただいて構いません。ただ、私のことは……」
ドランは食卓へ手をついた。
「村の者が聞かれたら、どう答えるのですか。知らないと言っても、隠していると疑われたら」
天馬の民へ、こうも問いを重ねたことはなかった。だが、相手は怒らずに答えた。
「あなた方に危険はないと、申し上げることはできません」
ミレアは目を閉じた。ドランは妻の顔を見てから尋ねた。
「断ることは、できるのでしょうか」
来訪者はうなずいた。
「はい。この子を連れて出ていきます」
赤ん坊が口を動かし、頬をミレアの胸へ押しつけた。ドランはその顔から目をそらした。
「その先に、行くところはあるのですか」
返事はなかった。
*
ミレアは赤ん坊の額から髪をよけた。
「私たちが育てれば、この子は竜の民の子として暮らします。あなた方のようには育てられません」
相手が分かっていると答えても、妻は続けた。
「食べさせるものが少ない年もあります。命じられたことに嫌だと言えず、逆らえば、命を取られるかもしれない暮らしです。それでもですか」
外套を握る相手の指に力が入った。
「……生きていてほしいのです」
声の終わりが乱れた。ミレアは腕の中を見た。手放したいのか、手放すほかにないのかは分からない。それでも、今の声は聞き流せなかった。
ドランは妻の隣へ座った。
「村には、引き取った子だと言うしかない。俺たちの子が生まれたと言っても、おまえを見てきた者には分かる」
ミレアが答えた。
「育てられない事情があって、託された子だと。その人のことは話せないと言うわ」
ドランはためらった。
「余計に知りたがるかもしれんぞ」
妻は否定しなかった。
「でも、知らない人の名を作れば、そのたびに嘘を増やさなければならないでしょう。この子を育てるのは私たちだと、そこは隠さずに話したい」
村人が納得するかも、管理者に知られたとき通るかも分からない。それでも、乳を頼みに行く家は浮かんだ。少し前にガルが生まれ、ミレアが手伝いに通った家だ。妻もそこを考えていた。
「今夜のうちに、お願いに行きましょう。お腹を空かせているわ」
もう返すつもりはないのだと、ドランは分かった。
「怖くないのか」
ミレアはすぐ答えた。
「怖いわ。朝、誰かが戸を叩いたら、きっと怖いと思う。でも、この子を返しても、今夜は眠れない」
妻一人に、この先の戸を開けさせるわけにはいかなかった。ドランは来訪者へ向き直った。
「引き受けたあとで、育て方が違うから返せと言われるのですか。暮らしも毎日のことも、私たちで考えてよいのでしょうか」
相手は夫婦を見て、深く頭を下げた。
「お願いします」
自分たちに頭が下がるのを見て、ドランは腰を浮かせた。何か言おうとしても、喉が詰まった。ミレアが赤ん坊を抱き直した。
「名前は」
来訪者が答えた。
「ポルフィラです」
母になる人が、小さく繰り返した。
「ポルフィラ」
*
帰り際、来訪者は小さな包みを出した。金を渡されるのかと身構えたドランの前に、石が現れた。黒く見えたが、灯りへ傾くと縁に深い紫がにじんだ。
「これを、この子と一緒に」
ドランはすぐには手を出さなかった。
「何の石ですか」
来訪者が答えた。
「この子が持っていなければならないものです。人目には出さないでください」
ミレアが尋ねた。
「隠しておくのですか。それとも、この子に渡すのですか」
相手はポルフィラを一度見た。
「今は、あなた方に預かっていただきたい。どうか、なくさずに」
石は掌に収まる大きさだった。重みより、聞き残したことがあるという思いが強かった。なぜこの村なのか、なぜ自分たちなのか。子の親はどこにいるのか。だが、今夜答えを得られるとは思えなかった。
戸口で来訪者が振り返った。赤ん坊へ伸ばしかけた手が、布に届く前に止まる。
「どうか……」
その先は聞こえなかった。
戸を閉め、ドランはしばらく耳を澄ませた。やがて、ポルフィラがはっきりした声で泣き出す。ミレアの手も、自分と同じように震えていた。
「俺が、乳を頼みに行ってくる」
妻がうなずくと、彼は言いかけた。
「誰から預かったと聞かれたら……」
さっき決めたのに、外へ出るとなるとまた怖くなった。ミレアは静かに答えた。
「話せない事情があると。でも、私たちで育てると言ってね」
石を布で包み、棚の奥へ置いて妻に示した。戸へ向かう前に赤ん坊をのぞくと、黒い目が開いていた。人差し指だけを近づける。小さな手がその先を握った。力は弱かった。それでも、しばらく離せなかった。
「……すぐ戻る」
ドランはそっと指を抜き、上着を取った。
*
寝床の軋む音がして、ドランは顔を上げた。食卓の灯りは十年前と同じように揺れている。だが、あの人はもういない。腕の中にいた赤ん坊は、隣で眠っていた。夫婦でのぞくと、ポルフィラは掛け布から片腕を出していた。指に、洗い落とせなかった汚れが残っている。
ドランが小声で言った。
「あのときは、抱き方も分からなかったな」
ミレアは髪を頬からよけた。
「首を支えてと言ったら、ずっと同じ姿勢でいたわね」
父が笑った。
「動かしたら、起こしそうでな」
娘が寝返りを打ち、二人は口を閉じた。あの夜引き受けた子が、今は自分たちの読めない字を読もうとしている。ミレアが娘の手を布の中へ入れた。
「また、見に行くのでしょうね」
ドランは寝顔を見た。
「何を見つけたのか、明日、ちゃんと聞こう」
食卓へ戻り、木片を本の包みのそばへ置いた。朝、娘が捜さずに済むように。




