第1話 隠された階段
カン、カン、と鉄を打つ音が、朝の冷たい空気を震わせていた。
ポルフィラは水桶を抱え、鍛冶場の入口を肩で押した。春になったとはいえ、日陰には冬の冷たさが残っている。桶の縁にかけた指は赤く、揺れる水が、肩まで伸びた黒髪の先を濡らした。
炉の前で、父のドランが顔を上げた。
「おう、助かった。そこへ置いてくれ」
くすんだ緑の髪には灰がつき、太い腕に汗が光っていた。ポルフィラは桶を下ろし、作業台の鍬の刃を数えた。
「昨日より、二つ多い」
ドランが笑った。
「よく気づいたな。朝いちばんで持ってこられた。昼までに、だとさ」
ポルフィラは炉へ戻る父を見た。
「朝ごはんを食べる時間もないじゃない」
父は鉄を火へ差し戻した。
「食べるさ。腹を空かせたまま打った鉄は、へそを曲げるからな」
娘が笑った。
「鉄にへそなんかないよ」
ドランも白い歯を見せた。
「ないから困る。曲がったところが見つからん」
村で父の笑い声を知らない者はいない。けれど、ポルフィラは昨夜も遅くまで槌の音を聞いていた。直す道具の数や、取りに来る時刻を決めるのは、村の人々ではなかった。
畑の麦も、果樹園の実も、森の木も、決められた分を天馬の国へ納める。村で使う鍬が欠けても、納める道具の修理が先になった。
入口から、母のミレアが椀を載せた盆を持ってきた。長い緑の髪を後ろでまとめている。
「ポルフィラ、指を見せて」
母は、桶の取っ手が食い込んだ跡をなぞった。
「次は、水を少し減らしていいのよ」
ポルフィラは手を見た。
「でも、少ないともう一度行かなくちゃ」
ミレアが静かに答えた。
「手を痛めたら、二度目も運べなくなるでしょう」
娘がうなずくと、母は頬にかかった髪を耳の後ろへよけた。父とも母とも違う黒髪。村の人々の髪は緑や茶色で、同じ色の人はいない。
幼いころ尋ねると、父は「おまえのほうが煤が目立たなくて便利だな」と言った。母は笑って梳いてくれた。だから、ポルフィラは自分の髪を嫌だと思ったことがなかった。
椀を受け取るとき、袖から木片が落ちた。母が拾う。片面に煤で字を書いてある。
「今日は、何という字?」
ポルフィラは二つの言葉を指した。
「『運ぶ』と『納める』。似てるけど、運ぶものがいつも自分のものじゃないから」
ミレアの指が止まった。娘が見上げると、母は木片を返した。
「続きは、食べ終わってからね」
*
文字を覚えたいと思ったのは、納付の荷車を見た日だった。
麦の袋を積む村人のそばで、管理者が帳面へ何か書いていた。袋を数え、紙を見て指示を出す。ポルフィラは、その細い線が何を表すのか知りたくなった。
「そこに、何が書いてあるの?」
周りの大人が黙った。天馬の民へ話しかけるときは、まず顔色をうかがう。それは知っていたが、言葉を引っ込める前に、管理者がこちらを向いた。
「袋の数だ」
ポルフィラは隣を指した。
「こっちは?」
管理者が答えた。
「村の名と、納める日」
ただの線に見えるものを、この人は声にできる。ポルフィラは帳面を見つめた。
「私にも、読める?」
管理者は周囲を見て、帳面を閉じた。
「仕事に戻りなさい」
天馬の国で、竜の民は人として扱われない。作物を育て、木を切り、魚を捕る手は必要とされても、その持ち主が何を考えるかは顧みられなかった。学校へ通うことも、暮らしの決まりを選ぶことも許されない。
村へ来る天馬の民は、国では身分の低い者たちだった。それでも、村人に命じ、近づかれることを嫌った。管理者は、その者たちより上の立場にいる。病人や不作の事情を聞き、納める日を延ばせないか役人へ掛け合ってくれる人だった。自分だけで許しを出せるわけではないと、父から聞いていた。
帳面について尋ねてしばらく後、管理者が鍛冶場へ壊れた留め金を持ってきた。帰り際、周囲に人がいないのを確かめ、ポルフィラへ布包みを渡した。
「使わなくなったものだ」
擦り切れた表紙がのぞいていた。
管理者は声を低くした。
「誰の前でも開いていいものではない。分かるね」
それが最初の教科書だった。
竜の民が文字を学ぶことは、法律で禁じられている。両親は何度もポルフィラに教えた。本を見つけられれば、命まで奪われるかもしれない。渡した人も、知りながら隠した人も、無事では済まないのだと。
それでも、絵の下に添えられた字が、一つずつ言葉になるのはうれしかった。丸い実や鳥の絵から言葉を考え、同じ字を別のページで見つける。向きを取り違えたり、翌朝には忘れたりしたが、一つ読めると次を知りたくなった。
土へ小枝で書き、夜は木片へ写した。どうしても分からない字だけ、人のいないときに管理者へ尋ねた。初めて短い文を最後まで読めた夜は、何度も同じページを開いた。
紙の上の形は変わらないのに、さっきまで分からなかったことが、そこに書いてあった。
やがて、絵の少ない本や、長い文の教科書も譲られるようになった。難しいところは前の本へ戻り、覚えたことを五人の友達へ教えた。
最初にリナが尋ねた。
「私にも分かるかな」
ポルフィラは土へ友達の名前を書いた。
「分かるよ。私だって、最初は何も読めなかったんだから」
*
仕事が一段落すると、ポルフィラは教科書を布で包んだ。ミレアが道を確かめ、結び目を見てから送り出した。
「日が傾く前に帰っておいで」
村外れの産屋跡へ向かう途中で、リナが追いついた。短い茶緑の髪を跳ねさせ、手のひらを開く。
「見て。今日はちゃんと書けた」
自分の名前が書いてあった。ポルフィラが、どうして手に書いたのか尋ねると、リナは得意そうに笑った。
「木片は忘れるけど、手なら忘れないでしょ」
後ろから、淡い緑の髪のセラが言った。
「でも、洗ったら消えるわ」
リナが答えた。
「それまでに覚えるから大丈夫」
ガルは先へ駆け、何か叫びかけた。トーマが肩をつかむ。
「声。聞こえるだろ」
ガルは口を閉じ、大げさにうなずいた。トーマは道の前後を確かめてから手を放す。
最後に来たシオンは、借りていた教科書を抱えていた。
「返すよ。薬草のところは読めた。でも、歴史に変な文があった」
ポルフィラが聞き返すと、彼は包みを押さえた。
「着いてから。ここで開くのはまずい」
産屋跡は低い石垣の奥にあった。壁に蔓が這い、屋根の一部が傷んでいる。六人は、外から見えにくい奥の部屋で学んでいた。
座ると、ガルがリナの手をのぞいた。
「俺の名前も書いてくれ」
ポルフィラは木片を渡した。
「自分で書くんだよ」
ガルが眉を寄せた。
「おまえが書けば早いだろ」
ポルフィラは笑った。
「私が書いたら、私だけ覚えちゃう」
セラも笑い、ガルは木片を受け取った。書き損じてもすぐ直さず、ポルフィラは、自分で気づくのを待った。
シオンが古い教科書を開いた。
「ここを見て」
ポルフィラはゆっくり読んだ。
「『かつて、竜の民と天馬の民は、互いの力を認め合い……』」
そこで、自分の新しい本も開いた。同じ時代の争いを扱うページには、天馬の民が争いを鎮め、平和をもたらしたとある。
セラが二冊を見た。
「昔は仲がよくて、そのあと争ったのかもしれない」
シオンは前後の文を指した。
「でも、こっちにある話が、そっちにはないんだ」
六人で少しずつ読んでも、二冊の説明はうまく重ならなかった。ガルが尋ねた。
「どっちかが間違ってるのか?」
ポルフィラは首を傾けた。
「まだ分からない。続きも読まないと」
新しい本をめくると、翼を広げた天馬の絵が現れた。
ポルフィラは、体のそばに描かれた乗り手へ目を留めた。大人なのに、頭が天馬の腹にも届いていない。太い脚が四本、地を踏み、背から伸びた翼は、その大きな体をさらに両側へはみ出していた。
ガルが絵へ顔を寄せ、頭上を見た。
「こんなのが来たら、この屋根より高いんじゃないか」
セラも見上げた。
「翼を広げたら、道には収まらないわね。近くで羽ばたいたら、どうなるのかしら」
ポルフィラは窓へ目を向けた。あの外に立っていたら、光がすっかり遮られるかもしれない。翼が動けば、畑の土が舞い上がり、自分たちは目も開けていられないのではないか。
絵の下には、毛色は白から黒まであり、濃い天馬ほど強い力を持つと書かれていた。
国王の天馬は、全身が黒かった。
首を高く掲げ、長いたてがみを流している。広げた翼まで黒く、背に乗る王の姿が、いっそう小さく見えた。ポルフィラはしばらく、その絵から目を離せなかった。
リナが腕を組んだ。
「でも、誰も見たことないよ。怖がらせるために、大きく描いてるんじゃないの」
ガルはもう一度、絵を見た。
「……そうかもしれないけど」
ポルフィラも天馬を見たことはなかった。本当にこれほど大きなものが空を飛ぶのか、分からない。それでも、黒い翼を思い浮かべると、窓から見える空が少し狭く感じられた。
その力を誇る文の下には、天馬の民をたたえる言葉が続いていた。けれど、国を支える麦や木や鉄を、誰が用意しているかは書かれていない。
「私たちのことも、もっと書いてあればいいのに」
父の灰のついた手が浮かんだ。
「何もしていないわけじゃないでしょう」
トーマが入口を見た。ポルフィラは声を落とし、古い本へ戻った。
*
落ちた木片を拾おうと壁際へ膝をつき、ポルフィラは手を止めた。午後の光が壁の下へ差し、石に刻まれた浅い傷を照らしていた。教科書で覚えた字に似ている。
「シオン、これ、『下』じゃない?」
彼が隣へしゃがんだ。
「似てる。ほかにもあるね」
土をそっとぬぐうと、文字はまだ続いていた。読める字と、擦れて分からない字が混じっている。本を開いて確かめるうちに、「手」らしい字も見つかった。
セラが読めた言葉を繰り返した。
「手。下。それから、二つ?」
トーマが石の継ぎ目を調べた。
「ここも、こっちも、へこんでる」
埃の下にくぼみが二つあった。左右に離れ、ポルフィラ一人では両方に手が届かない。ただの壁なら、手を置く場所をわざわざ作るだろうか。
ポルフィラはガルを呼んだ。
「こっちを押さえてくれる?」
トーマが尋ねた。
「危なくない?」
ポルフィラは継ぎ目を見直し、仲間を下がらせた。
「変な音がしたら、手を放そう」
ガルと目を合わせて押すと、石がわずかに沈んだ。奥で硬いものが外れる音がする。次の瞬間、壁の一部が内側へずれ、砂が床に落ちた。
二人は手を引いた。冷たい空気が流れてくる。光の届く先に石の縁が見え、その下にも、さらに下にも続いていた。
シオンの声がかすれた。
「……階段だ」
ポルフィラは入口の脇で暗がりを見つめた。地面の下へ続き、底は見えない。リナが袖をつかんだ。
「どうする?」
怖くないと言えば嘘になる。けれど、ここへ字を刻んだ人は、この道を知っていた。自分たちが読めなかった間も、ずっと壁の向こうにあったのだ。
ポルフィラは教科書を抱え直し、仲間の顔を見た。
「まず、明かりを用意しよう」




