第59話
「十六になったのね」
エステリアがそう言うと、マティアス・フェルナーは、読み終えた書類を机の端へ寄せた。亡き妻の姉は、窓から差す光を受けて目を細めている。白に近い金髪の下に見える淡い青の瞳には、妹と同じように、心配を隠しきれないところがあった。
「ええ。こちらでは、一人前として働く歳です」
「向こうでも、そうでしょうね。どんな仕事をしているのかしら」
答えられずにいると、エステリアは小さく息をついた。
「あなたのことを、聞いているかもしれないわね」
マティアスは彼女へ顔を向けた。
「私のことを?」
「育ててくれた二人に、自分を産んだ人や、父親のことを尋ねることもあるでしょう」
娘がそんなことを尋ねる姿を、マティアスは考えたことがなかった。自分が会いたいと思うたび、会いに行けない理由を数えてきた。娘の方から自分を知りたいと思うかもしれないことには、思いが及ばなかった。
「二人には、何も伝えていませんでしたね」
エステリアはうなずいた。
「あなたが生きていることも、あの子の母親が亡くなったことも。二人が答えられるのは、私が赤ん坊を連れてきたということだけよ」
マティアスは、赤ん坊と一緒に託した黒紫の石を思い出した。
「あの石のことを尋ねられても、二人には説明できませんね」
エステリアは膝の上へ目を落とした。
「私たちにも、分からないことばかりだもの。昔はもっと伝わっていたのでしょうけれど、残っていたのは、『石を渡す子が生まれれば、分かる』という言葉だけだったわ」
誰が何のために残した石なのか。なぜ、その子に渡さなければならないのか。一族が身を隠して暮らす長い年月のうちに、答えは失われていた。
マティアスは、娘の小さな顔を思い返した。
「髪は黒くて、瞳にも、あの石と似た紫が見えました」
「ええ。あんな色の子は、見たことがなかった。だから、あの子に託そうと思ったの。でも、言い伝えの子だと確かめられたわけではないわ」
娘の瞳と石の色が似ていた。それを頼りに、石を持たせた。いつか娘に理由を尋ねられても、確かな答えを返せるわけではなかった。
マティアスは、膝に置いた手へ目を落とした。石のことは分からなくても、娘に話せることはある。自分が今も生きていることも、あの夜、なぜ手放したのかも。
娘は、その父親が城で暮らしていることさえ知らないままだ。
マティアスは、膝に置いた手を握った。
「捨てられたと思っているかもしれませんね」
「そう思っているかどうかも、私たちには分からないわ」
エステリアの声は静かだった。
「生きていてほしかった。あのときは、それしか考えられませんでした」
「私もよ」
窓の向こうから馬車の車輪の音がした。マティアスは、通り過ぎるまで黙っていた。生まれたばかりの娘を抱いたときの重さは、今も覚えている。それなのに、十六歳の娘がどんな声で話すのか、怒ったときにどんな顔をするのか、何ひとつ知らなかった。
「私のことを、知らせたいと思います」
エステリアはすぐにはうなずかなかった。
「会いに行くということ?」
「いいえ。まず、父親が生きていると、あの子が知る機会を作れないかと」
口にすると、会いたいという気持ちが強くなった。けれど、娘が同じように望むとは限らない。
マティアスは言葉を継いだ。
「会いたくないと言われたら、受け入れます。二人から引き離すつもりもありません」
エステリアは彼の顔を見つめた。
「ドランとミレアにも、考えてもらわなければね。私たちのために、あの家を危険にさらすことはできないわ」
「ええ。知らせるだけなら安全だとも、言えません」
誰かが娘の出自を探り始めれば、育てた家も無事では済まない。父親だと名乗れば許される危険ではなかった。
それでも、何も伝えずにいることが、娘のためなのか。マティアスには、もうそう言い切れなかった。
「テオバルト様に相談します。レオノーラ様にも、この願いを聞いていただけないかと」
エステリアの手が、膝の上でほどけた。
「私も一緒に話すわ。あの夜、二人に託したのは私だもの」
*
翌日、仕事の報告が終わったあとも、マティアスは領主の部屋に残った。エステリアが入ってくると、テオバルト・インディルは机の書類を閉じ、二人へ椅子を勧めた。
マティアスが願いを話す間、テオバルトは口を挟まなかった。白に近い金髪の下で、痩せた頬に刻まれた皺が深くなる。
「娘に、おまえの存在を知らせたいのだな」
「はい。ただ、何をどこまで伝えられるか、私たちだけでは決められません」
「今の暮らしは、分かっているのか」
「いいえ。二人から出生のことを聞いているかも、分かりません」
テオバルトは椅子の背へ身を戻した。
「それでは、会う話を先に進めることはできんな」
「承知しています」
エステリアが口を開いた。
「守るために伏せたことですが、あの子が自分のことを知りたいと願っても、預けた二人には答えられません。私たちが何も伝えなかったからです」
テオバルトは彼女からマティアスへ目を移した。
「娘に何を尋ねられるかは、考えたか」
マティアスはうなずいた。
「なぜ、自分を預けたのか。なぜ、会いに来なかったのか。聞かれたら、答えたいと思っています」
生きていたと知れば、喜んでくれるかもしれない。そう願う一方で、長い間来なかった父親を責める娘の言葉も、聞かなければならないと思った。
テオバルトは机の上で手を組んだ。
「レオノーラには、私から相談しよう。娘をこちらへ戻す話ではなく、おまえが生きていると伝えられるか、そのために何を確かめる必要があるか、という話としてな」
マティアスは頭を下げた。
「お願いします」
「村へ勝手に人を出すな。預けた家を守ることを、忘れるなよ」
「はい」
部屋を出てから、エステリアがそっと尋ねた。
「怖い?」
マティアスは足を止めた。灰青の瞳を伏せ、少ししてから彼女を見た。
「ええ。会いたくないと言われるのも、怖いです」
その言葉を、エステリアは否定しなかった。
マティアスは窓の外へ目を向けた。娘の暮らす村は、ここから見えない。どんな返事をするかも、分からなかった。
「それでも、私が生きていることを、あの子には知らせたい」




