第57話 帰れない場所
三か月が過ぎ、エナの腕の傷は、重い布を絞っても痛まなくなっていた。同じ村から連れてこられた年配の女も、杖で宿舎の外まで歩けるようになっている。
その夕方、若い男が濡れた寝具を籠へ移しながら言った。
「今朝、村へ帰らせてくれと頼んだんだ。一度だけ、家族の墓へ行きたいって」
エナは布を持つ手を止めた。
「ここの係に?」
男は頷き、籠を地面へ置いた。
「仕事を休ませる理由にはならんってさ」
夫と娘の墓が浮かんだ。土に置いた石は、そのままだろうか。草が伸びて、埋めた場所を隠してはいないだろうか。二人を残して荷車に乗せられた日から、確かめることさえできずにいた。
「帰りたいね……」
男は何も言わず、二人分の籠を持って干し場へ向かった。
*
夕食のあと、男が宿舎へ来た。足を痛めた女は早く横になり、エナは寝床のそばで袖を繕っていた。
「今夜、出ようと思う」
顔を上げると、男は戸口に立ったまま声を落とした。
「道を戻れば、村へ行ける。朝までには帰れんかもしれないが」
エナは針を布へ刺し、立ち上がった。
「許しもないのに?」
「待ってても出ないだろう」
そばへ行くと、男は顔を背けた。
「会いたくないのか。俺たちだけ、こんな所にいて」
「会いたいよ」
思ったより強い声が出た。男がこちらを向くと、エナはその袖を掴んだ。
「でも、捕まったらどうなるの。墓へ行きたかったって言えば、聞いてもらえるの?」
男は答えなかった。頼んだだけで退けられた。許しなく柵を越えれば、今度は何をされるか分からない。エナの目に、夫へ剣を向けたセヴェランの姿が戻った。
「あなたまで帰ってこなくなったら、私たちには、どこへ連れていかれたのか分からない」
寝床で布が擦れた。
「行くのかい」
年配の女が身体を起こしていた。男を見つめる目に、眠気は残っていない。
「私も、墓を見たいよ。でも、朝になったら、あんたまでいないんじゃないかと思って眠るのは、つらい」
男は俯いた。エナが袖を離しても、戸口から動かなかった。
「……黙って行くつもりじゃなかった」
「話してくれて、よかった」
エナは、女が伸ばした手を握った。指に力がこもり、そのまま離れなくなる。男はしばらく二人を見てから、壁際へ腰を下ろした。
女が横になっても、エナはすぐに手を離せなかった。家族を失ったあと、ここまで一緒に来た人たちだった。二人の顔までも見えなくなる朝を、迎えたくなかった。
*
翌朝、水を汲みに出ると、川の向こうに王都の城壁が見えた。
あの向こうで、セヴェランは暮らしている。夫と娘を殺しておきながら、今日も誰かに食事を運ばせ、眠る場所を整えさせているのだろう。
エナは桶の縁を握った。
村へ帰れたなら、娘を起こし、夫の食事をよそいたかった。けれど、いくら道を戻っても、待っているのは二人を埋めた土だけだ。
それでも、せめて墓のそばへ座りたかった。その願いさえ、仕事を休む理由にはならないと言われる。家を奪った王家のために働き、奪われた家族のもとへ行く許しを求めなければならない。
桶へ落ちた涙が、汲んだ水に小さな輪を作った。セヴェランの顔を思い出すと、胸の底が熱くなる。あの男が何も失わずに生きていることが、どうしても許せなかった。
背後から若い男の声がした。
「それ、運ぶよ」
エナは頬を拭い、振り返った。昨夜、戸口から戻ってくれた人が、今ここにいる。
「ありがとう。お願い」
男へ桶を渡して、一緒に洗い場へ向かった。濡れた寝具の反対側を差し出すと、彼の手が受け取ってくれる。
その手は失わずにすんだのだ。




