第55話 翼の影
朝の光の中で、インディルの山々は城から見ていたときよりも近かった。シルヴァの背で風を受けながら、リゼリアは前を行くヴェスペラへ目を向けた。大きく広がった翼の間で、レオノーラの橙色の外套が揺れている。
二人で飛ぶことは、朝食の席で決まった。リゼリアが普段飛んでいる範囲ならよいと、テオバルトも送り出してくれた。レオノーラは自分の領内で見る果樹畑の話をし、リゼリアは、こちらでは山の斜面まで牧草地が続いているのだと話した。
その草地を越えると、木を積んだ荷車の列が見えた。森から出てくる道の先に、切り出した材木を集める場所がある。リゼリアも何度か上空を通ったことはあったが、働いている人々の姿まで見たことはなかった。
今日は道を横切る列が気になり、シルヴァに少し低く飛んでもらった。両側から材木に肩を入れて運んでいる者たちのくすんだ緑の髪が見える。ひとりが顔を上げた。
木材が傾いた。
その男が慌てて肩を戻し、そばにいた若い者が荷車の陰へ身身を隠した。別の男は、空へ顔を向けたまま立ち尽くしている。
リゼリアは息を詰めた。誰もこちらを見て喜んではいない。
〈シルヴァ、上へ〉
彼女の焦りを感じたのか、シルヴァはすぐに高度を上げた。先を飛んでいたヴェスペラも上昇している。レオノーラが振り返り、リゼリアがついてくるのを確かめると、城へ向かって進路を変えた。
地上の人々は、やがて小さくなって見えなくなった。それでも、荷車へ隠れようとした姿が目に残っていた。
*
庭へ降りると、リゼリアはシルヴァから下り、その首を抱いた。
〈ごめん。あんなに近づいて〉
シルヴァは動かずに、彼女の手を受け入れた。
〈あの者たちを見たかったのか〉
〈うん。何を運んでいるのか、よく見たくて〉
それ以上はうまく言えなかった。あの人々にとっては、逃げなければと思うほど怖いことだったのだ。自分は、飛ぶ高さを少し変えただけだったのに。
レオノーラがそばへ来ると、リゼリアは腕を解いた。
「王家の使者から、村が壊された話を聞いているのですよね。天馬が低く飛んできたら、また同じことが起きると思ったのでしょうか」
レオノーラは頷いた。
「王家は、逆らった村への罰だと全ての村に知らせたわ。私たち三家からは、村人が何を訴えていたのかも伝えた。反抗したのでなくても殺されたと知れば、自分の村も安全だとは思えないでしょう」
リゼリアはシルヴァへ目を向けた。
「何もしないと、言ってあげられたら……」
「今日は、そのまま離れてよかったと思うわ。怖がっているところへ降りれば、あなたの話を聞くどころではなくなるでしょう」
リゼリアは俯いた。王家の洗濯場へ移された三人を心配しながら、ここで働く人々のことは、ほとんど知らなかった。この領内にいるというだけで、王領ほど恐ろしい思いはしないのだと、勝手に思っていたのかもしれない。
「私が乗っていると分かっても、怖いのでしょうね」
レオノーラは彼女を見た。
「ええ。私たちも天馬の民で、あの人たちは私たちに逆らえない。テオバルトが領主でも、国の法は変わらないわ」
「暮らしを良くして、安心させてあげることも難しいのですか」
「何かを変えれば、竜の民を庇って王家の意向に背いたと、告げ口する者もいる。あの人たちを助けるつもりが、王家に目をつけさせることになりかねないの」
リゼリアは唇を結んだ。レオノーラやテオバルトが望めば、もっと良くできるのだと思っていた。自分を守るために来てくれた人にも、簡単には守れない者たちがいる。その人々が、シルヴァの影に怯えていた。
*
テオバルトの部屋へ戻ると、マティアスが領内の報告を届けていた。リゼリアが見た集積場から、王領の材木倉へ納める木材についての報告だった。
窓際の椅子へ座ったレオノーラが尋ねた。
「さっき、荷車がずいぶん並んでいたわね。いつもあれほど集まるの?」
テオバルトは、机に置かれた書類を見た。
「雨で道が荒れて、運べずにいた分がある。ようやく通れるようになったので、まとめて来ている」
マティアスが続けた。
「今朝の報告では、まだ道が狭いところで荷車が待つそうです。遅れているからと急がせれば、そこで事故が起きかねません」
テオバルトが確かめた。
「王領の材木倉を管理する役人には、道の事情を伝えたな」
「はい。着く日が遅れる分を、切り出す量の不足と取り違えないようにも伝えています」
リゼリアは、肩に木材を載せていた男を思い出した。
「道が悪くて遅れたことまで、働いている人が責められるのですか」
テオバルトは彼女へ顔を向けた。
「届くはずの物が届かなければ、理由を聞かれる。こちらが説明せずにおけば、運ぶ者が怠けたと思われることもある」
リゼリアの胸に、傾いた木材を支え直した男の姿が戻った。道のせいで遅れても、怠けたと責められるかもしれない。やっと荷を運べたところへ、自分がシルヴァを近づけてしまった。
リゼリアはマティアスへ尋ねた。
「怪我をした人は、いなかったのでしょうか」
「この報告にはありません。ただ、私がその場を見たわけではありませんので」
テオバルトが書類へ手を置いた。
「次の報告で確かめてくれ。道が直るまでは、無理に荷を積ませんように」
マティアスが答えるのを聞き、リゼリアは膝の上で握っていた手を緩めた。道が悪いことを伝え、無理な荷を積ませない。その指示なら、納める木材を安全に運ぶためだと説明できる。あの人々を助けるにも、王家に咎められない理由が必要なのだと、ようやく分かった。
部屋を出ると、窓から庭のシルヴァが見えた。こちらに気づき、ゆっくり首を上げる。
いつもなら、すぐに庭へ下りて、また飛びたいと話しただろう。今日は窓辺にとどまり、灰色の目を見つめた。
〈あなたと飛ぶのは、好きなの〉
胸の奥に、シルヴァの響きが届いた。
〈私もだ〉
その返事に、リゼリアは小さく笑った。次に飛ぶときは、人々の働く場所へ不用意に近づかない。けれど、見たものを忘れて、以前のように景色だけを楽しむことも、もうできそうになかった。




