第49話 名を呼ぶ声
リナが来たのは、ミレアと干した布を取り込んでいるときだった。「母さんから。傷む前に食べてって」
籠には、熟した果実がいくつか入っていた。
ミレアが籠を受け取り、二人を見た。
「少し話していったら。果物も切るから」
リナはポルフィラへ笑いかけた。日焼けした頬にえくぼが寄る。その笑顔を見ると、ポルフィラもつられて口元が緩んだ。
*
二人は家の脇へ腰を下ろした。リナは果物を一口食べてから、膝へ手を置いた。
「このあいだ、姉さんと口喧嘩したの。私が帰るの、少し遅くなって」
ポルフィラは友達を見た。
「お姉さん、心配してた?」
「うん。でも、帰ってすぐ怒られたから、私も言い返した」
リナは皮の残った果物を見つめた。
「あとで母さんに聞いたら、戸口まで何度も見に来てたんだって」
村が壊されたという知らせが届いてから、家族は以前より帰る時間を気にするようになった。
ポルフィラは、自分の隣にいる友達へ少し身体を寄せた。
「また来てね。私も、そっちへ行きたい」
「うん。今度は姉さんが家にいるときにおいでよ」
鍛冶場の音が止まり、ドランが戸口から二人を呼んだ。
「父さんの分も残ってるか」
ポルフィラが皿を持ち上げると、リナが先に答えた。
「あります。ドランおじさんの分は、大きいのを切ってもらいました」
父は笑って手を洗いに行った。ポルフィラは皿を膝へ戻す。リナと顔を見合わせて笑えたことがうれしかった。
*
夜、ポルフィラは寝床で、リナの姉の話を思い出していた。
帰ってくるのを待つ人がいる。自分も、父と母がいつもの時間に家にいると、ほっとする。隣の部屋で二人が小声で話しているのを聞きながら、胸元の紐を緩め、横になった。
眠りに落ちる前に、夢の生き物のことが浮かんだ。前に自分の名を言ったとき、その目はずっとこちらを見ていた。
今度会ったら、今日のことを話してみよう。
*
大きな顔が、ポルフィラの高さまでおりてきた。
黒い鱗に薄い紫の光が重なり、その奥で瞳が開く。ポルフィラは足を止めず、顔の前まで歩いていった。
「また会えたね」
深い息が髪へ触れた。
ポルフィラはそばへ座り、黒い鱗へ手を置いた。
「今日、友達が来たの。リナっていうんだよ。小さいころから、ずっと一緒なの」
話しても、声は返ってこない。けれど、ポルフィラが顔を上げると、瞳はこちらを見ている。
「お姉さんに怒られたって。でも、帰ってくるのを待っててくれたんだって」
リナが口をとがらせた顔を思い出し、少し笑った。大きな生き物に友達の話を聞かせていることが、不思議だった。どんな生き物なのかも分からないのに、聞いてほしいことがある。
ポルフィラは掌を鱗から離した。
「この前、私の名前、言ったでしょう。覚えてる?」
しばらく、息の音だけが続いた。
〈ポルフィラ〉
手が止まった。
父の声でも、母の声でもなかった。低く、ゆっくりした響きが、自分の名前になって届いた。耳で聞いたのか、頭の中に浮かんだのかは分からない。
ポルフィラは生き物の目を見た。
「今……私を呼んだ?」
大きな瞳が、こちらを見つめている。ポルフィラは膝をついて身体を起こした。
「もう一度、聞かせて」
待つあいだ、胸の鼓動が速くなった。聞き違いだったのかもしれない。自分が呼ばれたいと思ったから、そう聞こえたのかもしれない。
〈ポルフィラ〉
同じ響きだった。
ポルフィラは息を吸い、鱗へ手を戻した。
「うん。私、ここにいるよ」
「あなたの名前は?」
その言葉には、答えがなかった。ポルフィラは瞳を見つめたまま待っていたが、やがて、掌の下の温かさが遠のいた。
*
目を開けると、寝床の布を握っていた。
窓の外が明るい。隣の部屋で椀の触れる音がして、父が母へ何か話している。ポルフィラは握っていた手を開き、しばらく自分の指を見た。
呼ばれた名前と、声の低さを覚えている。
寝床を出て戸口へ行くと、ドランが顔を上げた。
「おはよう。もう食べられるぞ」
ポルフィラは父のそばまで歩いた。
「父さん、母さん。夢の中で、名前を呼ばれたの」
ミレアが椀を置いた。ドランも娘へ向き直る。
「前に話していた、大きな生き物にか」
「うん。私が、名前を覚えてるか聞いたら……二回、呼んでくれた」
口にすると、夢の中で感じたうれしさが戻ってきた。それでも、あの声が本当に相手のものだったかは、説明できなかった。
「夢だから、私がそう思っただけかもしれない。でも、今まで聞いたことのない声だった」
ミレアが娘の顔を覗いた。
「途中で目が覚めたの? 眠れなかった?」
「ううん。朝まで寝てた。怖くなかったよ」
母は椅子を引き、娘を座らせた。ドランが隣へ腰を下ろし、夢の中でほかに何か言われたか尋ねる。
ポルフィラは首を振った。
「名前だけ。私も、相手の名前を聞いたけど、答えはなかった」
父は少し考えてから、娘の前へ椀を寄せた。
「呼ばれたのが、うれしかったんだな」
「うん」
ドランとミレアは顔を見合わせた。二人にも、この夢が何なのかは分からない。それでも、ただの夢だと笑わず真剣に聞いてくれる。
ポルフィラは胸元の袋を手に取った。口を開くと、黒紫の石が布の中にある。ポルフィラはそっと指を触れた。
いつか、あの相手の名前も呼んでみたい。
ポルフィラはそう思いながら、母の待つ台所へ向かった。




